終末の光景(受容)
文字数 3,608文字
惨い最期を迎えなければならない者にとって、生まれてきたことは不幸なのか?
「不幸ですって?」
生まれてすぐ死ぬと思われていた赤子は、もう半月も生き長らえていた。宿の外では市街戦が行われている。遠い世界の出来事のようだった。宿の一室では。ここにある死は一つのみ。一つの死が来るのみ。
やつれた母親はおくるみを胸に抱き、無神経な質問をした客に聞き返した。
「そんなことってある?」
赤子は泣くことはなく、もう乳を欲しがることもなかった。ただ、唇のない、耳まで裂けた口が微かに空気の音を立てるから、まだ生きているとわかるだけだった。つい一時間ほど前まで、それは隙間風のような音だった。今はもう、ほとんど音はしない。
「この子は日の光を浴びたわ」誰が呼び集めたわけでもなく、ただ無力に参集しただけの宿の女主人と常連客を相手に、母親は呟いた。それとも、独り言かもしれない。「この子は風を感じた」ただ、言葉には確信があった。「それが不幸だなんてことがある?」
誰も答えなかった。若い母親のこの思いは狂気か、それとも高貴さなのか、という漠然とした疑問が場を支配していた。
「もういいのよ」
張本人、母親は、子供の額に口づける。
「頑張ったわね」
その額が、母親の唇の形に陥没した。痛むのか、それとも応じようとしたのか、子供が口を動かした。
母親は心の底から囁く。
「ありがとう」
その言葉が最後、赤子の体は形を失い砂と化し、おくるみから漏れ出て布団の上に散った。
※
半壊したバリケード。転がる樽、切れて垂れた綱、破れた木材。その後ろから、弩を手にしたゼフェルの後継の反徒が首根っこを掴まれ引きずり出された。それは主婦だった。主婦は泣き叫んでもがいたが、日輪連盟の兵士は容赦なく路上に叩きつけた。
月が見ていた。
兵士の剣が振り上げられた。そのとき暗がりから躍り出たヨリスが、後ろから兵士の首筋を撫で切りにした。ヨリスの黒髪とマントが踊り、兵士は血飛沫をあげながら崩れ落ちた。
誰かが叫んでいた。
「裏切り者を刻め!」
ヨリスの背後で剣が振り上げられた。
振り返るまでもなかった。乱戦の中、助太刀に来たリアンセ・ホーリーバーチ中尉のフルーレがヨリスを襲う兵士の胸を一突きした。
かつては憲兵隊のアナテスに、今回はヨリスに救われたゼフェルの信徒の主婦は、這うように立ち上がると、どこかへ消えていった。
「お久しぶりでございます、ヨリス少佐」
ヨリスは答えて言った。
「フクシャで会ったな」
矢文を撃って走り去るのが会ったうちに入るのか疑問だが、ヨリスは親切に、そして手短に、こう教えてくれた。
「君の妹なら捕縛された市民の解放に加わっているはずだ」
リアンセは少々面食らった。プリスなら広報部の徴募事務所にいると思っていたのだ。よほどのことでない限り、自ら都解放軍に身を投じるとは思えない。それとも、よほどのことがあったのか。
「情報に感謝します」
一礼し、フルーレを汚す血を拭いた。鞘には収めなかった。
「私からは、ユヴェンサ・チェルナー上級大尉が既に都に入城していることをお伝えします、ヨリス少佐」
返事は短かった。
「そうか」
リアンセは走り去った。
妹を見つけたかった。姉はタルジェン島に残っているという。それでもまた会えると信じていた。世界が終わる前に会えると信じる以外に何ができる?
滅びがなんだ。リアンセはまだ受容の境地にいたっていなかった。
※
保安局内部では、リグリーが最後の抵抗を試みていた。守備範囲を保安局の五階と六階に定め、四階に下りる全ての階段は机や戸棚を投げ落として埋めてしまった。
五階より下の階ならば、陸軍の弓兵による狙撃が届いてしまう。人数が限られているので、守備範囲がこれ以上広くなるのはよくない。負傷者も――いや、これについて考えるのはやめよう――何人の同志に慈悲の刃を突き立てたかについては。
階段下でバリケード代わりの机が除去されると、リグリーは僅かに空いた隙間めがけて弩を連射した。日輪連盟の兵士に命中しようがしまいが関係ない。重要なのはもちこたえること、敵の作業の手を遅らせることだ。外では狼煙が上がっていて、リグリーの憔悴した頬を赤く色づけた。
同志たちが後ろから、四人がかりで大きなテーブルを持ってきた。
リグリーが場所を譲ると、テーブルは四階めがけて投げ落とされた。
※
日輪連盟軍は戸口に不吉な赤い印をされた家々を襲い、住人を人間の盾とすべく連れ去ろうとしているところだったが、プリスが驚いたのは、その悲嘆に満ちた行軍に剣を握って襲いかかるとき、恐怖がなかったことだった。都解放軍の仲間たち(暇さえあれば曲を作っているお調子者のリッカード中尉、その上官で酔うと全裸になるユン上級大尉など)が一緒だからかもしれないし、一群の後列に配置されたせいもあるが、これまで実戦経験のないプリスは、自分が全くの足手まといとなることを、恐らく死ぬより恐れていた。
だがそんなことはなかった。
確かに勇猛果敢に戦ったとは言いがたい。というのも、六人一組の日輪連盟の一分隊は、七人一組の都解放軍の一分隊の急襲でたちどころに全滅させられたからであり、プリスは剣を振り上げるどころか、
混乱が起きたのは、連盟の兵士たちの血溜まりの中で我に返った一人の実業家風の男が早口で叫んだからだった。
「……を取りに戻らねば!」
何を取りに戻ると言ったかプリスには聞こえなかった。重要な証文だの、手形だのの類だろう。それはどうでもいい。問題は、その男が都市の暗闇へと走り去ったことで、他の人々も我先に自分の家へと散ってしまうことであった。
「止まってください!」
プリスは反射的に、一番近くにいた女の服の裾を掴もうとした。その指先は服の布地をかすめ、
「待って!」
ほとんど反射的に、逃げ去ったその女性の後を追う。
「よせ、そっちはダメだ!」
クラウス・リッカード中尉が叫ぶ……が、プリスはもう崩れたバリケードの隙間に体を捩じ込んでいた。
「止まって、お願い!」
その言葉は、最後、悲鳴になった。暗がりから誰かが斬りつけてきたのである。
月明かりが刃を反射したのがプリスの目に見えたのと、明らかに相手が剣に熟達していなかったため、最初の一撃は回避できた。回避した勢いで、プリスは横様に転んだ。
もう一度、剣が振り上げられる。相手を見た。男だった。
プリスは倒れたまま凍りついていた。
過去から今日まで、様々な人の顔が脳裏に去来した。
両親。シンクルスをはじめとする幼馴染たち。子供の頃のハルジェニク。大人になったハルジェニク。親戚一同。南西領に居を移してから出会った近所の人々や、士官学校の仲間たち、ヴァン。
その中の一人を、プリスは叫んだ。それが最期の言葉になると思いながら。
「お姉ちゃん!」
誰かがすっ飛んできて、剣を振りかざす男に激突した。
体当たりしたように見えたが、脇腹に剣を突き立てたのだ。
月光にきらめくピンクゴールドの髪。
細くしなやかな体。
女だ。
男のほうはというと、日輪連盟の新兵のようだった。その死体を崩れ落ちるままにし、剣を抜きながら、女は振り向いた。
プリスはもう一度同じことを、しかし今度は歓喜に彩られた声音で叫んだ。
「お姉ちゃん!」
リアンセだった。リアンセは手を貸して妹を立たせると、満足げに頷いて、「呼んだ?」と尋ねた。
「うん」プリスも頬が赤くなるのを感じながら頷き返した。「呼んだよ」
「ヨリス少佐からあなたがここにいると聞いて」
「それで来てくれたの?」
リアンセはフルーレを手にしたままプリスを抱きしめた。
「間に合ってよかった」
少しして、プリスのほうから、身を
「ヴァンと合流できないの。どうしよう、お姉ちゃん」
「誰?」
「強攻大隊にいる私たちの仲間だよ。内通してたんだ。でも、部隊を離れて合流するはずだったのに姿を見せないの。もう七時間も前に一緒にならなくちゃいけなかったのに!」
「二重スパイってことはない?」
プリスはむきになって否定した。
「まさか、ヴァンに限って!」
クラウスが十分に警戒しながら、バリケードの後ろから顔を覗かせた。
「おい、大丈夫か?」
それで、リアンセはプリスの背中を軽く叩くと、背を向けた。自分の戦場に戻るために。
そのとき言い残した。
「ヴァンという人について聞いてみるわ。余裕があったらね」
切実に願った。それまで生き延びるがいい、私の妹、と。