嘘つき
文字数 3,283文字
道一本隔てた東側の区画の家々は、星獣祭に向けた飾り付けをしていた。リースを戸口に飾り、庭木や窓辺にオーナメントを吊るす。たとえ星獣祭が来なくとも、この季節、他に何をすることがあろうか。
西側の区画は東側の区画より貧しかった。行政に放置された――それも、他の地区の住民たちに、あの地区よりはマシだと納得させるためだけに放置された地区だった。星獣祭の飾りはおろか、明日のパンさえ足りていない住民が多くいた。
「やだあ、返して! 返して、ママ!」
木琴を抱えて家を出る母を追い、幼い子供が飛び出してきた。その子の父が、後ろから子供の両肩を掴んだ。
「堪忍してくれ。うちにはもう他に売るものがないんだ」
振り切るように、母親は東の区画へと、ちらつく粉雪の中を肩をすぼめて歩み去る。子供は癇癪を起こし、泣きながら、金切り声で絶叫した。木琴を抱えた若い母親は、いつまで続くかわからない夕暮れを急ぎながら、それでもうちはまだマシなんだ、と自分に言い聞かせていた。もっと西の地区には、子供を売らなきゃいけない親だっているんだから。
東の区画には、金持ち向きではないが、庶民が少し奮発すれば手が届く程度のドレスを売る店があった。店の正面は大きな一枚ガラスで、人形に瑠璃紺のドレスが着せて置いてある。腰の後ろで大きなリボンが蝶結びになり、襟には広げた翼の意匠が施されていた。隣の人形には臙脂色のケープと、山吹色に染められた毛皮の襟巻き。
エルーシヤは店先に佇んでドレスに見惚れていた。プリスの家を着の身着のまま飛び出して以来、彼女はブラウスにスカートのままで、その上に、あまりおおっぴらにできない方法で手に入れた丈の長いマントを羽織っていた。
このドレスには何色の手袋が似合うかな、とエルーシヤは考えていた。隣のケープと襟巻きもほしい。それに、爪先まで内張りがされた温かいブーツも。店の奥に陳列されているブーツは、いかにも暖かそうに見えた。靴底が厚く、しっかりしていて――。
そのブーツの隣に佇んでいた店主が、店を横切って入り口を開いた。化粧のきつい中年女だ。
「うちの店に何か御用? お嬢さん」
エルーシヤは両手をひらひら動かして、意志の疎通を図ろうとした。
『すごく素敵なドレスだからついじっと見ちゃったの! これ、あなたが仕立てたの?』
「言葉、喋れないの?」
精一杯の好意を込めて微笑みかけるエルーシヤに、店主は侮蔑の言葉を返した。
「迷惑だからどこかに行って。うちはあなたみたいな子が来る店じゃないの。お金も持ってないんでしょ?」
エルーシヤは衝撃を受けた。他人からそのような扱いを受けるのは初めてだったし、そのような扱いを受ける可能性があるとすら思っていなかったのだ。
彼女は歌流民。招かれ、もてなされるもの。常に恐れが混じった敬意を与えられる者だった。
「聞こえないのかしら。どこかに行って?」
目を丸くして立ち尽くすエルーシヤに向かって、店主は懐紙を出し、魔除けの灰を投げつけた。
「気色悪いったらありゃしない」
灰は大部分、風に吹き散らされた。エルーシヤの顔にはかからなかったが、侮辱を受けたと彼女に理解させるには十分だった。
顔が熱くなる。
半ば混乱したエルーシヤは、無礼極まる中年女から距離を置くべく走り去った。店の戸が乱暴に閉ざされた。
マントの肩や胸についた灰を、粉雪が上塗りしていく。
あのおばさん、私になんて言った?
喋れないの? 迷惑? うちはあなたみたいな子が来る店じゃない? お金持ってないんでしょ? 挙句には気色悪いだなんて! その上魔物扱いまで!
エルーシヤは店から十分に離れると、街路で足を止め、憤然と灰を雪を払った。
あら、そう。お金があれば満足なの? だったら見せてあげるわよ、お金を!
街路には十分な人通りがあった。星獣祭まで日持ちするパン菓子や新しいオーナメントを抱えた人、真新しい服に身を包んだ子供やその手を引く親、雪かきをする人やどこかへ向かう人々。
その誰にも注目されず、エルーシヤは深々と冷気を吸い込んだ。
※
『想ウ、想ウー』
その、最初の一声。
誰もが足を止めた。
『廻ル、廻ルーウゥー』
エルーシヤは左手を鳩尾に当て、右手で天を指した。
にっこり笑って。
『ネエ、星タチハ
ネエ、太陽ハ
月ハーアァー』
閉ざされていた窓が開き、何か光るものを見ようとして、人々が顔を見せた。そして、強張った灰色の頬に血を通わせ始めた。
早くも戸口から飛び出てくる人がいた。窓枠を乗り越えて外に出てくる人も。
無理もない。
歌流民の歌には、意識がある限り聴いていたいと思わせる魔力――不当なまでの魅力――があるのだから。
『イツモ ソコニイルノ
泣キ濡レテイテモ
アナタヲ 一人デ放ッテオカナイ
力強い歌の宣言に、誰かが感嘆の呻きをもらす。それはどよめきに、ほどなくして歓声に変わった。エルーシヤの魔性の歌声は、数十人の歓声を易々と貫通して響いていた。
それは天の巡行を讃える歌。ああ、そう。天は巡るのだ。太陽も星も月も、今はちょっと気まぐれを起こしているだけだ!
「希望をくれ!」誰かが叫んだ。「歌をもっと、もっとだ!」
『ポッポル、ポッポルー』
エルーシヤは雪雲の下を飛ぶ鳩を指差した。
示し合わせたように、群衆の輪唱。
「ポッポル、ポッポルー!」
『クックル、クックルーウゥー』
「クックル、クックルーウゥー!」
『ネエ、アノ鳩ハ
寄リ添ウ希望ヲ 運ブ』
「運ぶーうぅー!」
歌は歌を創出する。今やエルーシヤを取り巻く群衆は、手を打ち鳴らし、ステップを踏みながらありもしない福音に狂喜していた。
ああ、そうさ。新しい命が生まれない? あそこも死産。そこも死産。人も獣も生まれない。それがどうした? ただちょっと、今は具合が悪いだけさ!
歌いながらエルーシヤは、人々に向かってお椀型にした手を差し出した。辺りにはいつしか百人ほどの人だかりができていた。
一人が、エルーシヤの手に一枚のニーデル貨を落とした。
「あんたにゃそれじゃ足りないよ! ほら! これを持つんだ!」
赤子を抱えた女が帽子を差し出した。その帽子には既にデニーデル貨が五枚も入っていた。
『ネエ、顔ヲ上ゲテ
星ハ今モイルーウゥーカラ!』
「イルーウゥーカラ! アア、アァーァーアー!」
「あんた、これをもらってくれ!」
明日のパンのために子供の木琴を売った主婦が、そうして得た金を全てエルーシヤの帽子に落とした。
「これはあんたが持つのに相応しいものだよ!」
「全くだ」
今度は背中も指の関節も曲がった老人が、財布の中身を全て帽子にぶちまけた。
「私はもう長くない。あんたが持っていってくれ。全く、あんたは素晴らしい!」
帽子から溢れんばかりに貨幣が貯まると、エルーシヤは密かに姿を消す歌を口ずさみ、自らの歌に熱狂する人々を捨て置いて、足音もなく場を去った。
※
夕闇は、少しずつだが深くなっていた。瑠璃紺のドレスを売る店の前に戻ったエルーシヤは、店の戸を開け放つと、唖然とした顔で出迎える店主の眼前に立った。
帽子に一枚だけある
その金で店主の顔を引っぱたいた。
「ちょっと――」
エルーシヤは悠然と、ドレスを指差した。店主が屈辱に顔を歪ませる。
ざまあ見なさいよ!
ニコニコするエルーシヤを採寸する間、店主は無言だった。少しだけ丈を直し、エルーシヤに着せるとき、店主は運命を呪う言葉を吐いた。
エルーシヤは燕脂のケープを求めて、次に温かいブーツを履かせた。
「こんな子に着せるものじゃなかったのよ。よりによって!」
それでも金が余ったので、襟巻きと手袋と、たくさんの貨幣を入れるのにちょうどいい、黒いハンドバッグも求めた。
買い物が終わったとき、店主はすっかり打ちひしがれていた。
「出て行って。二度と来ないで。こんなことは、一度きりにしてちょうだい」
すっかり暖かい格好になったエルーシヤが外に出たとき、夜で、星が光り、歌はなかった。
代わりにより深い悲しみと失意が残っていた。