非情たれ
文字数 3,673文字
起き上がろうとするリアンセの体に腕を差し入れて、
リアンセの上半身を自分の背中に回して立ち上がる。
体に矢は刺さっていなかった。
「当たったか?」
その間にも追っ手は距離を詰めてくる。
「転んだだけよ」
一目散に森に駆け込んだ。ミスリルの体の左横を掠めて飛び去った矢が、木に突き刺さり、樹皮を飛ばした。
「走れるか?」
鼻をつままれてもわからぬ闇に身を浸し、ミスリルはリアンセを担ぎ直す。
「足を
ミスリルは五感を研ぎ澄ます。とりわけ皮膚感覚を。リアンセがずり落ちないよう右手で支えながら、左腕を前に突き出した。
「あんだけ急な斜面じゃ無理ないさ」
重い。
暗闇の森を逃げ続けるのは無理がある。そう認めた矢先、石が靴の先に当たった。足を止め、拾い上げ、あらぬ方向へ全力で投げ飛ばす。石は木にぶつかって音を立てた。その木に巣をかけていた鳥が、鳴き騒ぎながら飛び立った。
追う側は、ミスリルほど闇に慣れていないとみえる。
それでも森に入ってきた。
弾む息を整えるミスリルに、リアンセは囁く。
「私を置いて行きなさい」
「は?」囁き返した。「やなこった」
石が落ちたほうへ、ランプの光が二つ、うろうろしながら吸い込まれていく。
「おい、見ろよ!」
ミスリルは素早くしゃがんだ。
「こんなのがあるぜ」
その声のもとへ、もう一人が歩み寄る。
背嚢を見つけられたようだ。
「大丈夫」物色する音にかき消される程度の声でリアンセが囁いた。「見つかって困るものは入ってないから」
二人は背嚢を漁った結果、こう結論づけた。
「シケてんなあ。ただの追い剥ぎかよ」
「そうみてぇだな。正直ヒヤヒヤしたが」
「大丈夫さ。例の殺し屋はデカい街道沿いでしか行動してねぇって話だ」
二人は話しながら森から出ていった。
彼らが十分に遠ざかると、ミスリルはリアンセを地面に下ろした。草の音がしたが、もう誰も聞き
「ありがとう」
「いや」
ミスリルの言葉は短く、声は苦かった。
「俺が罠にかかったせいだ」
「あなたがかからなくても私がかかったかもしれないじゃない」
闇に、ぼんやりと白く輝く点が現れた。ミスリルの手の上で、布に包まれた天籃石が昼の光を放つ。
「休める場所を探してくる」
雑念を払うように、ミスリルは頭を軽く振った。
「明かりとかなくて大丈夫か?」
「大丈夫よ」
「俺が戻ったら手を二回叩く。聞こえたら一回打ち返せ。いいな」
リアンセの疲れた生返事を聞くと、ミスリルは森の出口のほうに歩いていき、リアンセは暗闇に残された。
手探りで黄鉄鉱をとりだし、打ち鳴らした。火花が散り、三度目で、乾いた小枝に火がついた。
その小さな火を見ていると、むしろ周囲の闇が深まった。けれど火が消えてしまいそうになると、別の枝に火を継いでしまうのだった。
闇のせいでむしろ眠気は遠ざかり、神経は張り詰めた。手を二回叩く音を、何度か聞いた。だがそれは気のせいだった。三度目で、叩き返すのをやめた。そのうちに、白い光が見え、今度こそミスリルが帰ってきた。
「
何も考えず、ミスリルの肩に腕を置き、背に体を預ける。少し体を動かすたびに、左足首が熱を放ちながら痛んだ。
さして苦もなくリアンセを背負い、ミスリルは足取り軽く森を出た。体全体で揺れを感じながら、リアンセはふと、昔のことを思い出した。
子供たちばかりで野に遊びに出た折、リアンセは日差しに当たりすぎて具合が悪くなってしまった。それを見て一歳年上のシンクルスが頼もしいところを見せようと張り切り、リアンセを木陰まで背負って運ぼうとして……落とした。
つい、ミスリルの耳元でクスリと笑う。
「『昔、同じように私を背負ってくれた人がいるの』」声に出したのはミスリル。「とか言うなよ」
「よくわかったわね」
「月並みすぎんだろ」
森に沿って、獣道と大差ないような細い通り道があった。明かりの乏しい中でよく見つけたものだとリアンセは感心した。
「でもってその人が好きな人だったとか言い出したら最悪だからな」
「悪かったわね、最悪で。
「ふうん」
「しかも落とされたし」
肩を揺すってミスリルは笑った。
「そりゃ重かったんだよ。痛っ!」肩をつねられて声をあげ、「はいはい重くない重くない」
それから会話が絶えた。ミスリルの足が草をかき分ける音だけが響いた。
体のすぐ左側に森を見ながら進むと、やがて道は森を離れ、下り斜面となった。
曇りの夜は雲が天球儀の光を吸うので、晴れの夜に比べれば、少しだけ明るい。斜面の先を少しだけ見通せた。小屋の形の影が見えた。
「廃屋?」
「そうだといいけどな」
期待した通り、掘建て小屋には長らく誰も住んでいない様子だった。固くなった引き戸を足でこじ開けると、中には床板すらなく、朽ちかけた麻布の残骸と、木箱を並べただけの寝台、日用品をしまう
「何に使う建物かしら」
家でも作業小屋でもなさそうだ。ミスリルには大体わかった。仕置き小屋だ。小さな子供が戒律を破ると、真っ暗で粗末な小屋に閉じ込める、ということをする連中がいるのは知っている。自分が属する教派の人間が、そんな狂信的な虐待行為をしていると考えるのは不愉快だったが。
リアンセを行李に下ろして座らせると、
「見せてみな」
片膝をついてリアンセの左側の靴を脱がせた。ミスリルの真剣な目つきと靴紐をほどく指を、地面に置かれた天籃石が白く照らし出した。
さすがに慣れたもので、靴を脱がされている間、無理に動かされたり、痛いと感じることはなかった。
「腫れてきてるな。早く良くなるといいけど」
「朝までには良くなるわ」
「ちょっと水汲んでくる。冷やせば治りも早いさ」立ち上がり、「ついでに荷物も取ってきてやるよ」
「いいわよ、荷物は明るくなってからで」
「いや」
ミスリルの手に力が入った。天籃石が強く握られ、伏せた目が
「何かしていたいんだ」
「……わかったわ。でも忘れないで。矢が降ってる中で助けてくれたってだけで、私には十分だってこと」
「逆になんで助けない理由があるんだ?」
「足を捻ったのがあなただったら私には助けられなかった」
「そりゃあんたに俺は担げないさ。そんなの気にするようなことか?」
「
リアンセは座り直して毛先を背中に払った。
「どこにでも潜入できなきゃいけない。だから油断を誘う属性を持ってる人が多いの。女だったり、ひどく小柄だったり、持病や障害を持っていたり、老いていたり。敵地で互いに助け合うという場合は想定されていない。私たちは非情であれと教えられた。任務のためなら仲間を見捨てるし……自決用の毒も持ってるわ」
「あんた、姉がいるって言ってたろ?」
呆れ顔のミスリルを見上げ、肩を竦めた。
「妹もいるわ」
「あんたが死んだら悲しむぜ」
リアンセには沈黙するしかなかった。ミスリルもまた、なにかを言いあぐねているように、水を探しに行こうとしない。
「私、あなたに偏見を抱いていたようね」
「どんな?」
「普通の人のように振る舞うこともできるけど、本性は冷血な殺し屋だって思ってた」
「冷血なところがないとは言わないさ。ただ――」
少しだけ苦い顔をした。
「討つべきは討つ。生くべきは生かす。それが自警団の掟だ」
言ってから、もう自警団を抜けたのだと思い出した。
「いや、まあ、俺の個人的な掟にするよ。今日からな。でもあんただって同じだろ?」
「同じって?」
「人を殺したり、裏切ったり、それを命令したりする。でもそこには戦争を終わらせるためだっていう大義がある。だから人を殺しても人間でいられる。そうじゃないのか?」
「私はそんなに繊細じゃないわ。自分の仕事をするだけよ」
僅かに戸口が明るくなった。
雲が割れ、月の光が射したのだ。
本物の月。
その光を感じ取り、ミスリルは戸口に顔を、ついで体を向けた。
「……じゃあ、行ってくるよ」
「ええ」
ミスリルは去り、またしても、リアンセは一人残る。月光と影の対比に目を凝らす。背を屈め、ずきずき痛む足首を触ってみる。ミスリルが姿を消した闇の先を見つめた。
これ以上、彼に愛着を抱かずにいることができるだろうか?
相棒だと、仲間だと、そう思わずにいることが。弱みを見せずにいることが。
できるのか?
親切な殺し屋さん。
アエリエとマナがどうして姿を消したかわかる?
私が彼女たちをシオネビュラ神官団に渡したからよ。
言えない。
もう足音も聞こえてこない。