終末の光景(否認)
文字数 2,664文字
「――はっ!」
流れが穏やかになったところでヴァンを捕まえた。ばたつくヴァンを右腕に抱えて左腕でクロール。水面に天籃石の街灯の光が落ちていた。
夜だった。
何でだよ。
ヴァンは水から顔を上げたにも関わらず、ヒューヒューと喉を鳴らし、何かを振り払おうとするように身をよじっていた。
「落ち着けって」
足はつくが、川底は滑り、歩くほうが危ない。仕方なくヴァンを抱えて泳ぐうちに、ハルジェニクは理解した。ヴァンは苦しんでいるのだ。マフラーの下に指を入れ、気道を確保しようとしている。
橋の下の暗がりに引っ張り上げた。橋の上では、誰かが狂乱状態でいもしない地球人に祈っている。歩道から不穏なざわめきが絶えず降ってくる。早すぎる夜について話しているのだろう。ハルジェニクも、それで不安が癒えるなら、輪に加わりたかった。まず自分が岸に上がり、ぐったりしているヴァンの脇の下に手を入れ引っ張り上げる。それから急いでヴァンの腰と背中を探った。ダガーはすぐ見つかった。
夜。夜。水を吸ったヴァンのマフラーを切り裂きながら取り止めもなく考えた。どうしてだ? 夜なら逃げやすかったのにとか俺が願ったから夜になったのか? やめてくれよ。俺はそんな神話的な生き物じゃねぇよ。
首を締めるものがなくなると、ヴァンの呼吸の音が変わった。岸で仰向けに横たわり、
やがてヴァンも起き上がった。
「……ああああ、死ぬかと思った」
「エルーシヤがいない」
橋脚にもたれかかり、呼吸を整えながら、ヴァンはハルジェニクの言葉が事実であることを確認した。
「川に飛び込むところ、見た?」
ハルジェニクは答えた。そのとき失望した。何に?
「見てない」
女が上の歩道で金切り声をあげた。
「この暗闇こそは!」
終末論者が演説を始めた。ハルジェニクは考えを改めた。やっぱり輪に加わらなくてよかった。
「プリスが逮捕されたって」
話しかけると、ヴァンの弱々しい目の光が向けられた。
「俺を匿ったからなのか?」
「違う」と答え、ヴァンは咳き込んだ。「プリスは……俺もまだよくわからないけど……君のせいじゃないよ。ただちょっと目立ちすぎたんだ……って!」
いきなり目と声に力が戻った。
「なんで夜になってるの!?」
「気付くのが
ヴァンは膝を立てながら左右を交互に見た。暗闇に怯える子供のようだった。
「俺たち、そんなに長く水の中にいたっけ」
「なわけないだろ。死んじまうだろうが」
とにかくヴァンを立たせると、濡れネズミの二人は階段を見つけて歩道に上がった。
「何故、悔い改めようとしないのか!」
終末論者は階段を上がってすぐのところにいた。地区の人々から終末ジジイと
逃げろ、逃げろと妻子を促しながら家から出てくる男を見た。どこへ逃げるというのだろう? お許しを! と、跪いて夜空を仰ぐ女がいた。終末ジジイが予言した。
「誓って太陽が取り戻されることはない! 裁きが行われるのだ!」
道の真ん中では馬車が立ち往生している。窓が開き、身なりは上等だが顔つきは
「どけ! 端を歩かんか、貴様ら!」
彼が殺しや暴動の犠牲になるのも時間の問題だろう。
「何を考えとるんだ馬鹿者が! えっ!? どういうことなんだ一体!」
ハルジェニクの横を、
ヴァンの袖を引っ張って、裏通りに導いた。混乱に乗じた暴動がもうすぐ起きることはわかっているが、帰れる家がない。仕方なく、二階が宿になっている酒場に入っていった。昼から営業している酒場だ……今は昼のはずだ。
「強いのをくれ」
シミだらけの顔の女主人が猜疑心に満ちた目をくれた。ハルジェニクは肩を竦めた。
「友達が川に落ちたんだ」
実際に惨めな様子を見て、女主人は警戒を僅かに解いた。
「そりゃお気の毒に」
てきぱきと樽に詰まった酒を
「あそこを使いな。みんな外を見に行っちまったからね。皿は自分で片付けておくれ」
暖炉の前の席に向かうとき、真っ暗な階段を降りてきた、血塗れの
「知らない知らない、あたしゃなぁんにも知らないよ」
ハルジェニクに話しかけているふうではなかったが、それにしては大きな独り言だった。
「夢を見ているのさ!」
呆然としていたヴァンだが、その言葉をきっかけに、一歩ごとに正気を取り戻していくのが見て取れた。
「……出動しないと」
座ろうとしないヴァンの前で、ハルジェニクはグラスの酒に舌の先をつけた。確かに強い酒だが、おかしな味ではなかった。
「大丈夫な酒だ」
飲み干すハルジェニクから遠く離れた席で、痩せぎすの若い男が頭を抱えていた。繰り返される独り言に誰一人として耳を貸さないが、彼は「嫌だ」と言っていた。
「あんなのは俺の子供じゃない」
彼は今日、旅の途中で父親になったのだった。妻のほうは
赤子が生まれてすぐ、産婆は何か言いながら出て行ってしまった。助手の女の子が残っているが、おくるみを床に置き、呆然としている。汚いものでもあるかのように、赤子に近付こうとはしなかった。
母親になったばかりの女は、助手の態度に内心腹を立てながら要求した。
「赤ちゃんを見せてくれる?」
助手は、うっ、と言葉を詰まらせた。
「ねえ、教えて。男の子? 女の子?」
赤子の泣き声が空気を裂いている。
「……あの」
何か言いかけた助手の目から、涙が流れ落ちた。
外で悲鳴が上がった。
「どきなさい! 道をあけたまえ!」
馬車の老人が叫んでいる。
急激に沈んだ太陽の代わりに、月が浮かんでいた。少し欠けているのは涙を流したからだろう。
大人たちを避けて裏道に入った椅子屋の丁稚は、夜に向かって顔を上げる。虐げられる子供の目に、月がまっすぐ飛び込んできた。
そのとき、子供は思った。
心から。
――月がほしい。