小さい頃に聞いた歌
文字数 2,193文字
是非にとの勧めで、ミスリルたちは神殿で寝起きするようになった。月は、倉庫に置かれた。杜撰な管理にも思えるが、正式な安置所と保管方法が決まるまで、他に置き場がないのだろう。シンクルスはミスリルがいたく気に入ったようだった。度々部屋に招かれたが、ミスリルがシンクルスに心を許すことはなかった。
島を去る朝、『月』を見納めに行かないかと提案したのはアエリエだった。
「むしろあなたのほうから言い出すと思ったんだけど」荷造りを終え、大鎌の刃を隠した
「そうだけどさ」
ミスリルは気乗りがしなかった。旅の間、ミスリルは一度も『月』を収めた木箱を開けていなかった。好奇心よりも忌避感が勝っていた。
それでも結局月を見にいくことになったのは、話をそこまで聞いたテスが、一人でさっさと部屋を出て倉庫のほうへと歩いて行ってしまったからだった。
「おい」
と、ひんやりした廊下に顔を出し、ミスリルはテスの背中に声をかけた。
「あと五分だぞ! 五分したらここ出て行くからな!」
テスは無視して突き当たりの扉まで歩いて行った。驚いたことに、そこは鍵さえかかっていなかった。倉庫を覗き込んだテスが、首を
「おかしい」
「何がおかしいんだよバカ真鴨……」
ミスリルはいらいらしながら、すぐ神殿を出ていけるようテスの手荷物も持って足早に彼のもとに向かった。後から梱を担いだアエリエもついてきた。
テスの後ろから倉庫を覗き込んだミスリルは、納得して頷いた。
「本当だ。おかしい」
倉庫は客室に比べればずっと狭く、大柄なミスリルが中で両腕を広げたら左右の指先が壁に当たりそうなほどだった。窓は一つだけあり、鎧戸がかかっている。その隙間から差す鋭い陽光と、開け放たれた木箱の上に浮かぶ『月』が、しまいこまれた絵画や調度品を照らしていた。
アズから託されたときよりも、『月』は明らかに大きくなっていた。あのときは両手で包みこめそうだったが、今は元の木箱に収まるかどうかさえも怪しい。
後ろからアエリエに押される形で、ミスリルは、同じようにテスを押しながら倉庫に入った。人目につかぬよう、アエリエが扉を閉ざした。
三人は、
「思い出したわ」
「何を」
「この『月』を持っていたのは少女だった」
ミスリルは、アエリエを見、それから示唆を求めてテスを見た。だがテスにも思い当たる節がないらしく、アエリエに首をかしげるだけだった。
「壊れた太陽の歌を知ってる? コブレンに伝わってるほうじゃなくて、ダーシェルナキ家の
ミスリルはそれをリアンセに聞かされていたが、テスは知らないようだった。
「古の都で災厄が起きて、供儀の娘が海に放たれた。だっけ?」
「それは壱の歌ね。長い
廊下でわずかに話し声が聞こえ、三人は息をひそめる。声はすぐに遠ざかっていった。
「伍の歌は、自分だけの月を手に入れた少女の物語よ」
「それって『月』を持ってたのが女の子だったことと関係あるのか?」
「それはわからない。でも確か、伍の歌には少女が自分の月を育てて大きくする場面があって、それで思い出したのよ」
テスが尋ねた。
「その歌、歌えるか?」
「小さい頃に聞いただけだから。でも大意なら覚えてる」
アエリエの目の光がまっすぐ月に注がれた。
『大口を開けた過去から、後悔が無限に押し寄せる。
心は砕け、その残響は失われ――』
続きを思い出せないのか、アエリエはそれだけ言って口をつぐんだ。
アエリエがコブレンに来たのは十歳のときだった。そこで孤児となり、コブレン自警団に保護されるまではトリエスタ市で育ったという。彼女が小さいときに聞いたというのなら、今もトリエスタで歌われているのだろう。
「寒いわ」
急激に体感温度が下がったことにミスリルも気付いた。『月』に背を向け、出よう、と促す。『月』ともこれでお別れだ。タルジェン島を去り、コブレンでの日常に戻るだけ。倉庫の戸を開け放ったミスリルは、予想外の暗さ、戸の軋みから予測されるその先の空間の思わぬ広さ、戸の隙間から流れ込む空気の冷たさに身構えた。
扉の向こうを、背後から差す『月』の光だけが僅かに照らしていた。その石のタイルはタルジェン島の神殿のものとは明らかに違っており、つまり、この先の空間はもはやもといた神殿ではなく、反射的に振り向いたミスリルは、次の瞬間には真後ろのテスを押しのけて『月』に飛びかかっていた。『月』がふわりと高度を上げ、それが、逃げようとしているように感じられたからだった。
指先が『月』に触れるか否かというとき、月光が鋭さを帯びた。