消えてなくなる
文字数 2,916文字
夜更け、誰かがアズの部屋の戸を叩いた。アズは花びらの夢を見ていたが、布団を跳ね除けて起きた。細く戸を開けると、天籃石のカンテラの光が鋭く差してきた。カンテラを持つのは、十三歳の妹弟子レンヌ・オーサーだった。
「アズ兄さん、あのね。どうしてもアズ兄さんに会いたいって人が来てるんだ。お客さんなの」
アズには人が訪ねてくる心当たりなどなかった。
「夜警で保護したのか?」
レンヌは夜警のマントを着たままだった。風で乱されたままの金色の髪が、肩に散っていた。
「ううん。その人自分で来たの。今は訓練場の横の医務室にいるよ」
「名前は?」
「パンジー。パンジェニー・ロクシ」
アズは頷くと、何も心配しないよう言い含め、訓練場がある別棟へと音もなく走り出した。
訓練場は静まり返っていたが、隣の医務室は扉が全開で、天籃石の白色光が豊かに溢れていた。中に入って目にしたのは、ベッドの脇に立って話し込む医師とグザリアの姿。
「団長」
短く呼びかけると、グザリアはほっとしたような表情を見せた。
「遅くなり申し訳ございません。パンジェニーは――」
言葉を引っ込めた。北ルナリアで出会ったパンジェニー・ロクシはひどく消耗した様子でベッドに横たわっていた。意識はしっかりしており、目を開いているので、医師とグザリアに聞く必要がなかったのだ。
「――トビアスとレミは来ておりませんか?」
「起こしてない。このお客さんはあんたをご指名だったんでね」
アズは二人に一礼し、ベッドの横に両膝をついてパンジェニーと視線を合わせた。
「走って来たんだ」と、パンジェニーは掠れた声で言った。「本当に人がいいよね、あんたは」
アズは聞かなかったことにした。
「色々聞きたいことはあるが、とりあえず具合はどうだ。怪我をしているのか?」
「してるけど大した怪我じゃないよ。北ルナリアから逃げるときの怪我でね。塞がり始めてるし、致命傷なんかじゃない」
「それより衰弱が心配でね」老医師が口を挟んだ。「もう五日も固形物を口に入れとらんというじゃないか」
「そういうわけだ」グザリアが促す。「早く用件を吐かせて寝かせてやれ。お前としか喋らんって言い張って聞かんからな」
隈の浮いた目で瞬きをするパンジェニーに、アズは努めて優しく問いかけた。
「どうして俺がコブレン自警団の人間だってわかったんだ?」
「わかるよ。だって私が南西領に『月』を持ち込んだんだもの」
アズは言葉を失った。
「そんな顔しないでよ。私はあの二人と……リージェスと、リレーネって言うんだけどね……あの二人とコブレンの手前まで来て、はぐれたの。その後コブレンで何が起きたか知ってる。それで自警団の代表を呼び出したって、あの副市長……ゲス野郎が自分でそう言った」
「パンジェニー。君は何者なんだ」
「北方領陸軍司令部勤務の護衛武官。『月』の運び手の女の子の正体が何だったか気付いてる?」
「リリクレスト公爵家の娘で間違いないか?」
「その通りだよ」
パンジェニーは助けを求めている。だからこうも正直なのだとアズは理解した。
「あの子は自分が家に背いて『月』を持ち出したって思ってる。でも違うんだ」
「何が違う」
「実際は送り出されたんだ。北方領総督に。閣下は南西領のはねっかえりのシグレイに厄介な物を押し付けたかったのさ。だからリージェスの他に私もつけたんだ」
「どうして『月』を南西領に押し付けたかったんだ?」
「囲いの大陸にないはずの『月』が漂着したということは、
これにはグザリアが反応した。
「外洋進出が可能になる未来が来た時のための下地作りか。しかも南西領では盟約御三家の一角・ライトアロー家の嫡男が足場を固めている。それが関わり合ってこないわけがなく……」
「ライトアロー家との利害や取引なんて私は知らないよ。ただ命令されて運んだ。それだけだよ」
「どうしてこんなに切羽詰まってるんだ?」アズは重ねて尋ねた。「どうして、半日一緒に行動しただけの俺をあてにしようと思ったんだ?」
「北ルナリアで斬られてさ……リレーネを探してやりたいんだけどさ、実際そんな余力なくなっちゃったし、それに……私知っちゃったから」
「何を」
「リジェク神官団が作ってるものはヤバい」
パンジェニーはもったいぶっているわけでなく、何と言えばいいかわからず困惑しているように見えた。
グザリアが助け船を出した。
「あの辺りからはしょっちゅう新しい調合の薬物が流れてくるな」
「そんなもんじゃないよ。中毒性とかの意味では薬物みたいなものかもしれないけど」
「はっきり言ったらどうだ? 間違ってたって誰も怒りゃしないんだ」
「歌、みたい」
要求された通り、パンジェニーははっきり言った。だが口調は弱々しく、自信なさげだった。
「みたい、っていうことは、パンジェニーが自分で聞いたりしたわけじゃないんだな」
アズはパンジェニーが話しやすいように、穏やかな口調を保った。
「どういうふうに『ヤバい』のか、聞かせてくれないか?」
「はっきりした事実じゃないけど」
「ああ」
「『我々は、ないはずのものがあるという幾つかの事実に直面した。ではあるはずのものがなくなるのはどうか』」
アズは素早く二度瞬いた。
「何だって?」
「今私が言った通りのことをゲス野郎が言った」
「北ルナリアの副市長か?」
「そう」
「それは――」
言葉を失うアズの代わりにグザリアが尋ねた。
「ないはずのものがある、か。副市長は『月』がただ漂着しただけのものだとは考えちゃいないようだね」
パンジェニーは答えない。アズはグザリアの疑問をほとんど気にも留めなかった。腹が冷たかった。腹の内部で異様な風が吹きすさんでいる感じがした。
「その言葉の意味は……歌か薬物か何かに汚染された人間は、最終的に消えてなくなると?」
「さあ……」
顔から血の気が引くのが自分でもわかった。
応えたのは再びグザリア。
「あそこら辺からおかしな物をコブレンに持ち込む奴らに対しては、俺らも思うところがあってね」
そう話を落とし込む。
「浅からぬ因縁もあるさ。パンジェニー、お前の話は興味深い。
パンジェニーはひどく眠そうだった。用件をあらかた伝えて安心したのだろう。
「もしも、そんなかわいそうな人がいたら……消えてしまうしかないような人がいたら」
「ああ」
「それを癒す手がかりは『月』しかないんじゃないかって。勘だけど、そう思う。あれは」
最後の一言を言い切るまで、彼女は意識を保った。
「私が知る中で、『ないはずのものがある』っていう、たった一つの例だから……」
言い切るや、目を閉じて、寝息を立て始めた。