歌うに時があり
文字数 4,520文字
天球儀は消えた。月も消え去ろうとしている。何が起きているのか、この世界はどういう場所なのか、全容がわかる日がくるのだろうか? くるとは、ミサヤは思っていなかった。だが秩序は必要だった。天球儀がない新しい世界には、新しい秩序が。
月環同盟軍が踏み込んだ総督府で、公邸の東に建つ時計塔の針が二十三時三十分を指すのをミサヤは見た。
「ゾレア」
変容のために必要なことをしなければならなかった。儀礼的なものであったとしても。象徴行為の力を侮ってはならない。それは現実に人の心を動かすものなのだから。
ミサヤは同盟の兵士でごった返す総督府の前庭で、連れてきた歌流民の少女の両肩に手を置いた。そこここで同盟の旗が掲げられ、降伏した日輪連盟の兵が列をなして連れ去られていった。
それら全てを横目に見ながらミサヤは要求した。
「ゾレア、歌ってくれ」
※
月の囚われ人たるヨリスには、月が崩壊しつつあることなど知るよしもなかった。彼は彼に成り代わろうと現れる影を片端から斬り伏せるまでだった。
斬り伏せるごとに現れる影が少しずつヨリスに似てきていることに、彼は気付いていた。
灰色ののっぺりした顔に、目鼻立ちと呼べるものが現れた。薄い唇、すっきりと通った鼻筋に、一重瞼の細長い目。それを斬り捨てた次の影は、前髪と、長く伸ばして三つ編みにした後ろ髪を
影はサーベルを手に入れていた。斬られるたびにヨリスの剣技を習得していく。影の目に眼球はなく、象られた髪は動くことがなく、全身灰白色のまま。ヨリスは直感した。このままでは、こいつは俺の姿をコピーするより早く、俺の剣技をコピーすることになる。
自分自身と戦うことになった場合、勝てるのか? ヨリスには自信がなかった。では、戦わないというのはどうだ?
とうに三十回めは越えているだろう、影が現れたとき、ヨリスはサーベルを鞘に収めた。
気付くのが遅すぎたな。ヨリスは息をつく。無駄な戦いをしてしまった。
鞘から抜きざまに敵を斬り裂くヨリスの得意技を、影は実演してみせた。影の右手側へと飛び退いて回避。影はすかさずサーベルを頭上に振り上げた。
頭上にある刃を、ヨリスは両手で挟み込むようにして止めた。振り下ろされる力に抗わず、ただ刃を横に寝かせ、膝を上げる。
サーベルの腹を膝頭に叩きつけて、ヨリスはサーベルを二つにへし折った。
影は得物を失い、消えることもできず、足許に投げ捨てられた折れたサーベルを前に立ち尽くした。
「話をする気になったか」
ヨリスはほとんど不意打ちを喰らわすかのように微笑んだ。
くぐもった男の声、月の声。
『何故笑う』
「貴様を軽蔑しているからだ」ヨリスは言った。「かつて地球人は己に
影がヨリスにつかみかかった。ヨリスは反撃しなかった。防御もせず、ただ飛び退いて回避した。
月の喋りかたはうめいているようだった。
『言語生命体は、爛熟した地球文明の記念碑的存在だった』
「子供は親の記念碑ではない」
『それでもお前たちは、自らの被虐愛によって支配を受け入れたではないか』
「時代は過ぎ去った。それがわからないのか」
『我らはお前たちの神であった』
「時の流れは残酷だ」ヨリスはサーベルに手を伸ばしたくなるのを堪えて言った。「しかし、残酷さを拒否したところで現実は消えてなくなりはしない。今となっては誰が貴様を神と奉じるというのだ?」
影の顔がぐにゃりと歪んだ。醜い鏡像を目にした気分になり、ヨリスは不快になった。影は砂の山となって崩れ落ちた。
砂山の中から、今度は少女の声。
うめいている。
「今度はマナ、か?」
『……ええ』砂山は答えた。『手間をかけさせてごめんなさい』
「月よりは話の通じそうな相手で助かる。それで、君は君になるつもりはないのか? 月からも砂の書記官からも独立して、君自身になるつもりは」
『自力では無理なの。私が人間になるには、私が存在する原因が必要だから』
「親か」
砂山がもう一度人の姿を取った。曖昧な輪郭で、もはやヨリスに似ておらず、少女のような体型だが、出来損ないの塑像以上のものではなかった。
『親なるものはときに偽りの神として立ちはだかる。子供たちが、いつか真の神にたどり着くための障壁として』
「偽りの神はしっかりと自己主張を遺していったな。言語生命体が地球人を忘れないように」
すると、少女の声は笑った。今度はヨリスが尋ねる番だった。
「何がおかしい?」
『天球儀のことを言っているのなら、あなたは都に戻ったとき、驚くべきものを見ます』
「では私を都に戻せ」ヨリスは右腕を胸の高さに上げて言った。「君は、寂しい、と言った。ゆえに私は残った。応える人間がいなければ誰もここから逃げられぬと悟ったからだ。もう十分か?」
『ええ』
少女の影に顔はないが、笑ったような気がした。
『私は喜ぶべき選択を見ました。これを見るためだけに生まれてきてよかったと思えるほどの選択を』
「君は君になるがいい」
『あなたはあなたになって。剣を収めることで生き延びる方法を見つけ出したように、新しい自分を見つけてください』
「私に生きかたを変えろというのか」
『きっとできます』
ヨリスは少しのあいだ沈黙した。
少女の影が右腕を上げた。
天を指す。
ヨリスは息を呑んだ。頭上は灰白色の空間ではなかった。
夜空が広がっていた。
天球儀のない夜空が。
『扉は開かれた』
直後、耐え難い光と熱がヨリスに襲いかかった。
※
歌ってくれとミサヤは言う。今やその期待をゾレアは一身に集めていた。総督府から捕虜を連れ出す兵士の視線から集めていた。てきぱきと兵士に持ち場を指示する将校の視線から集めていた。総督府の内部に入り込み、隠れている日輪連盟の兵士がいないか点検する兵士の視線から集めていた。
二階の演説用バルコニーにたどり着いたとき、ゾレアは恐怖に立ち竦まんばかりだった。
何を歌えと言うの? 変転する歌の世界のために、天球儀の消えた新しい世界のために、全ての言語生命体のために、人、鳥、獣、地に満ち海に満ちる生き物のために、その尊厳のためには、一体どのような歌が相応しいというの? 新しい世界の幕開けには?
ミサヤはゾレアの肩を押し、バルコニーに出るよう促した。
月は最後の破片となって消え去ろうとしていた。それを見て、ゾレアは教えを思い出した。
歌うに時がある。
見定めるのだ、歌い出す瞬間を。市街を覆う混沌と歌を一つにまとめ上げる、そのタイミングを。
何を歌うべきか、まだわからなくていい。
東の空がうっすらと明るいことにゾレアは驚いた。
零刻が迫り、夜が明けようとしていた。東の方角から正しく陽が昇る。黎明線はまだ見えない。けれど、夜空の東の果てがほんのりと白い。
朝の気配が歌姫の鋭く繊細な感受性に確信と希望をくれた。
歌える。
ゾレアは握り拳を胸に当てた。
私は歌える。
※
ヨリスが見た天球儀のない夜空は本物だった。本物の月も見ることができた。満ち欠けする、青白い三日月だ。
光と熱も本物だった。
火事だ。
マナはヨリスを送り返す位置を少々間違えたらしい。誤差の範囲内といえど、生身の人間にとって致命的な誤差だった。
通りの両脇の木造家屋は轟々と炎を噴き上げていた。都じゅうが燃料不足に覆われるなか、火災を引き起こした者はよくぞ燃料を集めたものだ。
感心している場合ではなかった。体を両側から炙り焼きにされながら、ヨリスは前方の暗闇へ走った。
頬がチリチリと焼ける。
息ができない。
低いところには吸える空気が残っているかもしれないとあてこみ、ヨリスは舗道を這った。確かに息はできた。が、ズボンと手袋を通して、熱が膝と掌を焼いた。
ヨリスは右肘の内側で鼻と口を覆った。
これでは前に進めない。
ここまでなのか。こんなところで死ぬのか。炎の中で。
煙が目に沁みる。
ヨリスはもう一度空を見上げた。煙の向こうに天球儀のない新しい世界の夜空が目に入った。星々と赤い星雲がアースフィアの大地を見下ろすのに、もはや邪魔者はいなかった。
死ぬ、だと? 馬鹿なことを。残っている空気を吸い込んで、ヨリスは立ち上がる。
天球儀のない世界を、どうやらまだ続くらしいこの世界を、もう少し見てみたいじゃないか。
「マグダリス!」
遠い叫びが生木の爆ぜる音に混じり聞こえた。ヨリスは前へとよろめきながら前方に目を凝らした。大通りに人が立っている。その人はしばし立ち尽くしていたが、意を決して燃え盛る区域へと飛び込んできた。その直前、大きく息を吸うのが見てとれた。
ヨリスはもう一度膝をついた。
「立て」
口に布を当てて走ってきたその人物は、奇しくもよく知る人物だった。
「ケイン」
「走れ! こんなところでくたばるなんてらしくないぞ、狂犬!」
力強く腕を引かれ、ヨリスは地面に近い、あまり煙の混じっていない空気を可能な限り吸い込むと、膝と腰に力を込めて立ち上がった。
ケイン・アナテスは大通りまでヨリスを引きずっていった。大通りまで来れば、靴底越しに感じる石畳は冷たく、そのまま炎の熱の届かない路地まで咳き込みながら逃げ込んだ。二人とも煙で涙目だった。なんと無様な。ヨリスは思う。それでも煙を吸って死んでしまうよりずっとよかった。
「……礼を言う」
最後の咳をし、大きく息を喘がせながらアナテスが言い返した。
「借りは返したぞ」
石造りの建物が並ぶ地区で、冷たい空気を吸うたびに、体に力が蘇ってくる。ヨリスは火傷した掌で近くの建物の壁を支えとし、立ち上がった。高いところに上りたかった。もっと空を見たい。
「ギィ!」
忘れもしない声が、強く耳を打った。
「ユヴェンサ?」
声のしたほうを振り向くと、ほのかな雪明りのなかを走ってくる妻の姿が見えた。ユヴェンサと、ミルトが一緒にいた。ユヴェンサが足を滑らせて転ぶのではないかとヨリスは心配した。だから、ヨリスも妻に向かって駆け出した。彼女が転ぶとき、支えてやれるように。
ユヴェンサは転ばなかった。ヨリスをしかと抱きしめて、頬に口づけた。ユヴェンサの唇は荒れて乾き、髪は凍りついていた。それでも体温があった。生きていて、温かかった。
遅れてやってきたミルトが、二人の様子に困惑気味の笑みを浮かべながらこう声をかけた。
「ヨリス少佐なら月から脱出できるはずだって君の部下たちが言い張るからね」
ヨリスはユヴェンサのうなじから目線を移し、ミルトを見やった。それでもユヴェンサは抱擁を解こうとしなかった。
「だから、アッシュナイト中尉が矢を射った場所で待ち構えていたんだ。だが、どうやら我々は邪魔をしているようだ」
「そのようなことは……」
ミルトはひらひらと手を振った。アナテスもまた癇に障る笑みを浮かべ、ミルトと肩を並べて去っていく。
それでよかった。語り合う時間はたっぷりあるだろう。生きてさえいるのなら。
夜空よりも妻の顔を見ていたいことにヨリスは気がついた。長い腕で互いの体を抱き合って、額をくっつけていたかった。