何故命を無駄にした
文字数 3,054文字
鈴が振り鳴らされ、夜警の歌が始まった。透き通る女の声が高音を長く伸ばす。五秒。六秒。
二人目、三人目の声が重なって、和音となる。その和声が、ある瞬間、示し合わせたように
一斉に靴音。
そして十もの松明が、広場で高く掲げられた。
それは
影は、辺りを憚りながらそそくさと通りを渡った。この惑星を包み込む天球儀は、地上からは輝ける網目として見えていたが、その人影を照らし出すにはあまりに遠かった。満点の星。十日月。裏道から裏道へ、闇から闇へと駆け込んだ人物は、その裏道にまた別の人物を見つけて
はた
と足を止めた。右手に
雰囲気からして男だ。壁に描かれた符牒を確認しているようだ。
黒いマント。コブレン自警団の一員か。
人影は唾をのむ。その音さえ、あの自警団員に聞こえたのではないかと思うほど緊張していた。強張った右手は、研ぎ澄まされた屠殺用の鎌を握り直した。
まだ気付かれていない。
男はすり足で近付いていく。盗みの経験は長い。殺しの経験も、豊富ではないが、ある。自警団の男が持つカンテラの白い光輪に、体を迫らせていく。壁を向いて立っている団員の、できるだけ背中側に回り、ぎりぎり視界に入る手前で一気に駆けた。
射程に入る直前、標的の目印となるカンテラが突如として弾け、消えた。
それを持つ男が、自ら投げ捨てたのだ。カンテラは、煉瓦の壁に当たり砕けた。音を立てて落ちたカンテラから、天籃石が転がり出た。
その白色光が、黒いマントの自警団員、まっすぐ伸びた左腕と、その手に握られた半月刀を照らした。半月刀の刃は、鎌を握った老人の首に沈んでいた。老人の手から鎌が滑り落ちた。
昼に、アズが酒場のカウンターの向こう側で取り押さえた老人だった。
驚きが去り、悲しみに似た虚しさがアズの心を訪れた。
「何故だ?」
目を見開いたまま、老人の体から力が抜けて、膝をつく。
「何故命を無駄にした」
答えは得られなかった。アズは老人を裏通りに横たえ、彼の首から半月刀を抜いた。血が流れ出るかたわらで、鞘にくくりつけた布を使って血と脂を拭く。音もなく、レミとトビィが駆け寄ってきた。赤目も一緒だった。
三人は、小枝を組んで作られた壁の符牒を確認する。
アズの目が、ゆっくりと、背後を確認した。死んだ老人を素通りし、密度を持った闇に沈む、木戸のあるほうへ凝視をそそぐ。
「俺と赤目が見張ってるよ。安心して行っておいで」
天籃石を拾い上げ、トビィが囁く。白色光の中でアズは頷いた。
「行こう、レミ」
冷たい煉瓦の上をアズの掌が這う。ほどなくして、老人が入るはずだった木戸を探り当てた。そっと押し開けば、倉庫だけあって、奥に広く冷たい空間があるのが感じられた。いたるところに
倉庫としては使われていないが、人はいる、ということだ。アズはよく耳をすませながら入っていった。倉庫として使うこともあるかもしれない、と考え直す。これだけの広さがあれば、例えば星獣を隠しておける。
アズの後ろにはレミがついていた。
倉庫の奥、二重の壁の間に階段を見つけた。地下に降りるその階段には明かりがなく、ただ下のほうから、男たちの野太い声、テーブルを叩いて怒鳴る声と、それを追って放たれた多数の品のない笑い声が、地上階にいるアズのもとへ上がってくる。
賭博でもしているのだろう。
階段は、全部で十三段あった。騒ぐ男たちと二人の暗殺者の間には、粗末な戸が一枚あるのみ。声の判別に神経を研ぎ澄ませる。六人か、七人か。その響きから推測するに、中は決して広くはないが、狭すぎることもない。両手の半月刀を振るうには十分。
「レミ」
突撃の準備。短い祈り。左手を半月刀の柄に置いて、仲間に囁いた。
「援護を頼む」
「うん」
左手を軽く握り、符牒にあった通りの仕方でノックした。騒ぎ声に紛れて誰かが返事をした。
「おう、入れ!」
その招きの通り、アズは入っていった。
蹴り破らんばかりの勢いで部屋に突入した時、半月刀は既に鞘から抜かれ、両手に握られていた。異変に気付いた男たちが笑いを引っ込めるまでに、最初の赤い血柱が、一人の男の首筋から天井へと高く噴き上がっていた。シャツから伸びる男のその首には、鱗模様の
『三つ首蛇』の幹部だ。
貨幣が積み置かれたテーブルの周囲をアズは左回りに攻めた。二人。三人。無慈悲な殺し屋たちを、さらに無慈悲な一閃が襲い、誰かがアズに椅子を投げ、肌の露出したところへと猛毒の吹き矢を次々吹き付けたが、それらは全て壁に当たるだけに終わった。アズは仕事が早かった。一人、逃げ出そうとする者がいたが、レミの連弩がそれを妨げた。結局、レミが放った矢はその一本だけだった。ダガーでとどめを刺し、部屋の中央に目をやったとき、テーブルの横には平然たる顔でアズが立っていた。
突入から十秒と経っていなかった。
アズは、返り血をほとんど浴びていなかった。それほど身のこなしが速いのだ。
「大丈夫か」
半月刀にも、血がほとんど付着していなかった。それほど一閃が
レミはほとんど
これが、コブレン自警団の精鋭のみを集めた特殊部門、その中でも第一位の戦闘能力を有すると認められた者の実力だ。
「うん」
死体からダガーを抜き、布で
うめき声が聞こえたのはそのとき。
アズは部屋の奥の棚に歩み寄り、棚の陰となっていた空間に倒れた人を目にすると、武器を鞘に収めた。女が縛り上げられていた。もう一人、その隣で縛られている男は、アズに背を向けているが、首に縄が食い込んでおり、既に殺されていることは確かめるまでもなく明らかだった。
「コブレン自警団です。驚かせて申し訳ございません」
アズはナイフで中年の女の縄を切ってやった。
「あなた方が行方不明になっていることを、あなたのご近所の方から伺いました。ここを突き止めるのが遅くなってしまい……」殺された夫に目を向ける。遅くなりすぎた。「申し訳ございません」
レミを呼び、女の保護を任せた。先に階段を上がり、外に出る。路地の真ん中に死体があり、アズがそれに
「ご夫婦は?」
「男性のほうは手遅れだ。女性のほうはレミが介抱している」
「わかった」トビィは死体のほうに顎をしゃくる。「仕事増やしちゃった。ごめんね」
「気にするな。俺の仕事じゃない」
都市の闇のどこかに潜んでいるはずの仲間に信号を送るよう、アズはトビィに頼んだ。アズは一人、下町の方角へと歩き出す。
どこに行くのかと、トビィは尋ねなかった。アズが何をしに行くのかを知っているからだった。