どこも同じ
文字数 4,362文字
確かにコブレンで見た。
ステンドグラスの星獣。回る六芒星の眼と、上向きに湾曲する長い牙は
メイファは健在だが、星獣はそうではなかった。横腹のモザイク模様は溶けてでたらめに融合し、黒い鎖模様が浮き出ている。辻を北へと通り過ぎていく間、牙や前脚を振り上げようとしたが、メイファの歌に押さえつけられて身を屈めた。暴走を阻まれ、さりとて完全停止できるでもなく、不本意な前進を続けている。
もし台座に立つメイファの目に助けを求める色があったら、アエリエはメイファと仲良くしようという気も起こしたかも知れない。そうではなかった。メイファと星獣が辻を過ぎて視界から消えていくまで、アエリエはメイファと不快な視線を交わし合うことになった。
あの女は傲慢だ。
「全然助けを求めちゃいないみたいだけど」
アエリエは槍を肩に担ぐ。
「恩を売っておきましょう。あなたさえ嫌じゃなければ」
ミサヤは嫌そうではなかった。
「私がシオネビュラの神官を助けてやらねばならんとはな」
「いずれはシオネビュラの神官たちと協力しあうことになるかも知れないわ。どうやら私とマナで解決できる事態じゃなさそうだし」
「だが、連中と協力しあえるのは今じゃない」
「そうね」
ミサヤが走り出す。アエリエも。後ろを大股でついて歩きながらゾレアが歌い始めた。制御の歌だ。
辻を左へ。
星獣の尻が見える。
黒い鎖模様。
台座ではメイファが歌い続けている。超然とした目で。
ゾレアの澄んだ歌声が高く跳ね上がった。打たれたように星獣が動きを止める。ミサヤが先陣を切った。ついでアエリエが。最初の槍の穂が星獣の尾の付け根を、次の槍が左足の
世界中の無音。
数秒後、少女の細い全身からハイトーンが解き放たれた。それを機に、星獣の脆い体が砂と崩れた。
夢の世界の出来事のように。
何も聞こえなくなった。台座が歩道に落下する音も。ゾレアの声の威力から目覚めたとき、星獣の崩壊にまつわる音を耳が捉えたか、メイファが舗道に着地するのを見たか、アエリエにはわからなかった。
とにかく星獣は台座を残して消え、メイファは手ぶらで路上に立っていた。腰に片手剣を下げているが、抜く気はなさそうだ。
四人とメイファは、最低限の敬意と礼節を
口火を切ったのはメイファ。
「『裁きの日が来たならば、どこへ逃げようかと迷うな』」
聖典の一節だ。
アエリエがあとを引き取った。
「『どこも同じなのだから』」
唇を片方だけ吊り上げて、メイファが目を細めて笑う。それは先刻、台座の上から向けられたものと同じ表情であった。
ああ。本当に気に入らない。
だが、もう片方の気に入らない感じは薄れつつあった。大気のよそよそしさ。朝の光の無機質な冷たさ。何も囁かぬ風。
いや。薄れつつあるのではない。早くも慣れつつあるのだ。暗闇の後にきた、新しく、忌まわしく、まだ本性を表していないこの世界に。
蹄の音が近付いてくる。アエリエは仲間たちに向き直り、目配せをして走り出した。最後尾はミサヤに手を引かれるゾレアとなった。遠ざかるゾレアの踵に向かってメイファが小さな瓶を投げる。瓶は舗道で砕け、中の液体がゾレアの服の裾にかかった。
四人はしばらく逃げ続けたが、騎兵たちは追って来なかった。
※
日は落ち、夜がきた。違う世界にも太陽は一巡するらしい。黒い中型犬が一匹、舗道に鼻をこすりつけながら
犬は河港門の労働者の事務所の前で立ち止まった。木造の平家で、傷みがひどく、侵入は
中にはアエリエたちがいた。
「どうやって脱出するかよりも何をすべきかを先に決めたほうがいいと思うけど……」
四人は肩に梱包用の布をかけ、一番奥の机の陰で車座になっていたが、アエリエが鋭い一瞥を戸口に投げた。戸板は外にある
アエリエは素早く囁く。
「包囲された」
マナとミサヤが顔を強張らせ、ゾレアが変わらず穏やかな表情で膝を抱えている中で、アエリエはそれまでの会話と同じ口調で話を続けた。
「どうもそうじゃないみたいね。何が起きているか。それが最優先」
「異論はない」ミサヤが応じる。「だが……」
「だが?」
実のところ、アエリエはミサヤが自分と同じ気持ちでいることを理解していた。つまり、空が落ちてきたこと、
それ
は理解可能な出来事なのか、ということ。ミサヤは疲れ切った様子で首を振った。
「いや、なんでもない」
共感と諦めを示してアエリエは息をついた。頷き、足を組んで座ったまま両手を上げて伸びをした。
「でも、今日はもう寝ましょう。疲れ切ってちゃ頭も回らないし。私としては休んで気持ちを切り替えたほうがいいと思うのだけど、みんなはどう?」
唇を結んで目を伏せるミサヤの様子をアエリエは見つめたが、ミサヤの表情が和らぐことはなかった。ゾレアは不思議そうにアエリエの横顔を見ながらゆっくり瞬きをした。
マナは上の空だった。
「わかった」
ミサヤの声が沈黙を打ち破った。
「寝よう」
だが、朝の異変以来続く不穏な感じは打ち破られなかった。
四人は壁際で、互いの顔に足を向けないように横になった。アエリエは机から戸が見える姿勢で寝た。隙間風が顔に当たる。押し黙っていたマナが、床に転がる天籃石の裸石に覆いをかけた。
「おやすみなさい」
白色光が絶え、アエリエは叫びだしそうになる。
暗闇にしないで。
知らない世界で明かりを消さないで、こんな寒い夜に。
叫ばない。
「ええ、おやすみ」
私は鉱山街の一流の戦士。泣かない。子供みたいに叫ばない。私は守るためにいる。守られるためにいるんじゃない。
引き締めた心の奥底で、それでもアエリエは泣き叫びたいと思っていた。もっと奥底から、そんなことをするのは真実の私の姿じゃない、という声が湧き上がった。
狭い事務所には静かな呼吸が重なりあうのみとなった。
体感で三十分ほど経った頃、戸口の向こうで衣擦れの音がした。事務所から忍び足で遠ざかっていく。
気配が失せてから、アエリエは
「行ったわね」
「ああ」
ミサヤもマナも起きた。マナが天籃石から布を払った。白色光が差した。ゾレアが起きてこない。目を細めて様子を窺えば、歌流民の少女は幸せそうな顔で本当に寝入っていた。それを見て、マナは石に布を半分かぶせて部屋を暗くした。
「ミサヤさん」
マナが、思い切ったように口を開いた。
「なんだ?」
「ありがとう。私の話を馬鹿にしないで聞いてくれて」
ミサヤは何か言おうとしたが、結局かぶりを振るだけにとどめた。薄明かりの中で、それは蠢く影でしかなかった。アエリエは肩に掛布をかけ直してから切り出した。
「マナ、朝の話の続きをしたいの」
「何について?」
「『月』がきた道を逆流して滅びがくる、って言ったこと」
マナは唇を開いたが、すぐには話さなかった。アエリエは促した。
「異なる時空のアースフィア、私たちが『壊れた太陽の語歌』として知っている世界が本当にあって、そこから『月』がやってきたというところまで聞いたけど」
「そう。その通り」
「太陽の王国の語歌にも空が落ちてくる場面があったな」
言葉少ないマナに、今度はミサヤが水を向けた。
「いや、月が落ちてくるのだったか」
それは美しい語歌だが、五部構成で長く、そこまで有名なものではない。アエリエがそうであるように、全てを詳しく知っている人は少ない。
ミサヤに目を向けた。
「そうなの?」
「ああ。月をほしがった姫君と騎士に無数の月が降り注ぐ終幕だったはずだ。私も子供の頃に旅の詩人から一度聞いただけだが」
「半分間違い。姫君と騎士は月と一緒に空に落ちていくの」
マナが手振りを交えて教えた。
「でも、半分正解。空が二人に落ちてきたと言うこともできる。そこは時間が消滅し、空間もまた消滅するという世界の終わりを描いた場面だから」
「世界が終わるというのが
「そう」
「そして、空が落ちるのは終わりの証」
マナは浅く頷き、「うん」
ミスリルはどこ。アエリエは思いに耐えて奥歯を噛み締める。世界の終わりを彼はどこでどのように迎えたの? 私の弟、血の繋がらない、でも、本当の弟は?
ミサヤが左隣で身じろぎした。彼女は夫と息子がいると言っていた。南東領の武人は手短に尋ねる。
「滅びの逆流を止める手段はあるのか?」
「今は思いつかない。私が『月』と共に太古歌の領域へと遡る以外には。つまり、それをする手段がわからないの」
「まずどうやって『月』が逆流してきたかもわからないものね。そのきっかけも」
マナの返事はまたしても短い。「うん」
そして口ごもる。「私たち……」
「なに?」
はっとするほど少女らしい戸惑いをマナは口にした。
「明日から何をすればいいのかな」
アエリエはミサヤがいるほうに顔を向けた。表情はほとんど見えないが、目の光は感じられた。
ミサヤが答えた。
「街の様子を見て回ろう。危険だが、現状を把握しないことには始まらない。朝の出来事が君のいう『世界の終わり』の始まりなら異変を見つけられるはずだ」
「その後は?」
誰も答えないので、アエリエが提案した。
「歌流民の力が必要かも。……長老級の。太古歌が感性の特別に鋭い人の意識に
「そうか。確かに
「もちろんよ。でも糸口は見つけておいたほうがいい。二手に分かれるのはどう? あなたとゾレアは街の異変に目を凝らす。私とマナはシオネビュラの有力者お抱えの歌流民と接触する方法を探す。どう?」
「悪くない」
ようやく心の緊張がほぐれ、三人はめいめい息をついた。明日やることがある。それがこうもありがたいことだとは。
「そろそろ寝ることにしないか。眠れなくても目を閉じていたほうがいい」
「そうね」アエリエは率先して横向きに寝転がった。「おやすみなさい」
背を丸め、両膝を腹に引き寄せて、掛布を鼻まで引き上げる。ミサヤとマナも短い眠りの挨拶をして浅い眠りについた。悪夢が待ち構えていた。
事務所の外では、壁の穴の近くに膝をついて耳を傾けていたメイファが細心の注意を払って立ち上がり、暗闇に消えていった。