追っ手
文字数 3,222文字
専属護衛となり二ヶ月で、リージェスは最初の外敵を討ち、リレーネは『月』を見つけた。総督は、学業に専念させるためという名目で末女を海辺の別荘に移住させ、その間に北方領の都での騒動を鎮圧したかったのだろう。
別荘から少し歩けば防砂林があり、その先は浜辺だった。裏庭の侵入者に気付いたリージェスは、剣を抜き、それを防砂林の手前まで追い詰めた。遅い夕方で、海と接するあたりの空には赤紫の色が残っていた。敵の剣術は洗練されていないが、躊躇いがなかった。二度も剣を打ち合わせれば、その男が多く場数を踏んでいることは確信できた。
裏庭の柵の外に追いやったリージェスは、早く決着をつけるために奇襲的な一撃を使った。暗い防砂林に誘い込まれては危ないと思ったからである。それは、指まで覆うタイプの金属の
剣を引き、
「誰に雇われた」
苦痛に呻く侵入者の顔を、別荘の二階から漏れる天籃石の光が淡く照らしていた。そのしけた
侵入者は空いた右手で己の剣を手繰り寄せようとしていた。それを感じ取り、リージェスは右手で握ったままの剣で、男の首を一突きした。男の膝に通した左腕に、痙攣が二度伝わる。その震えは、この人間が死という不可逆な点を超えたこと、それをしたのが自分自身であることをリージェスに知らしめた。
人を殺したのは二人目だったから、吐き気には耐えられた。流血を見続けたいとは思わなかったので、相手の首に剣を刺したまま立ち上がる。
その真後ろにリレーネがいて、リージェスがしたことを見ていた。
ひどくショックを受けていた。だがそれは、別の理由ゆえであった。目の前で起きた殺人でさえ、リレーネにはそれどころではなかったのだ。
「リージェスさん」
裏庭の柵を背に、一歩足を踏み出す。専属護衛は貴族のお嬢様を押し留めようとしたが、リレーネが口を開く方が早かった。
「月が、落ちてきましたわ」
※
「ねえ、リージェスさん」
隣を歩くリレーネが、小声で名を呼ぶ。空は青く澄み、雲ひとつないが、風はめっきり冷たくて、笑うリレーネがショールの下で首をすくめるのが伺えた。朝方の雨で道はまだ少し湿っている。
荷車に栗やブラックベリーを積んで売り歩く子供らとすれ違いながら、リレーネは風で顔にかかる髪をかき分けた。太陽の光が
「『月』を失った私たちが、どこかに万全な保護をあてにするわけにはいかないのでしたら」
声を落としているが、今日の夕食を相談するような何気ない口調である。
「……どうした。言ってみろ」
「戦争が終わるまで、どこかに隠れているというわけにはいきませんかしら」
笑顔のままの彼女には、それでも確かに疲労が蓄積し、気弱になっているようだった。
自分の立場を考えて、所在を明らかにすべきだというのが当初の主張だった。しかしシグレイ・ダーシェルナキの庇護を失い、もはや大陸中が戦の混沌にあることを思い知るや、もはや自分たちの利用価値はさほどないことを自覚せずには済まされなかった。
『月』が壊れたことを知ってなお、その責任を追及することなく身柄を匿ってくれる者などあるはずがない。
北方領に帰るということも考えた。もしリレーネがただのお荷物のお嬢様だったらそうしていただろう。そのほうが、まだ
ゆえに、リレーネの消極的な提案に返答しかねた。手詰まりとなってもなお心のどこかで思っているのだ。
まだできることがあるのでは、やり残したことがあるのでは、と。
微かな違和感が、そっと心を撫で、リージェスは脈をひとつ飛ばして足を止めた。
教師として雇われた家のうちの一軒。その戸口に数人の男がいて、家主と話している。
軍装でこそないが、職業兵士だと十分見抜ける立派な体格だ。何より腰に剣を差している。
リージェスはリレーネの二の腕を掴み、一歩後退した。そのとき何を感じ取ったのか、一人の兵士がリージェスたちがいる角を見た。
リレーネが息をのむ。目があったのだろう。
リージェスは来た道を走り出した。リレーネは手を離してもちゃんとついて来る。小さな町の人々が、驚いた目で二人を見た。
「そこの二人! 止まれ!」
角を曲がる。
建物の影を縫うように走り、二人は兵士たちがいた家を回り込む形で通り過ぎた。このまままっすぐ行けば農場だ。
「あんたたち!」
鋭い、老女の呼び声。目の前で納屋の戸が内側から開いた。その戸は狭い路地の幅を半分以上も塞いだ。戸の影から声の主の老女が姿を現した。
二人が納屋の戸に阻まれて足を止めるのを受け、老女は手を伸ばしてリレーネの腕を掴んだ。
「ここにいな」
「ですが」
「いいんだよ」早口でまくしたてる。「あたしは兵隊どもが嫌いなんだ」
リージェスは背後に目配せする。追っ手たちの声と足音が近い。迷っている余裕はなかった。一か八かだ。早口で感謝を述べた。
「ご厚意に感謝します」
納屋に飛び込むと、すぐに闇に閉ざされた。老女がすぐに戸を閉めたのだ。戸に鎖を巻く音。
「おぉい、兵隊さんたち!」
明るい老女の呼び声がした。
「こっち! こっちだよ! おいで!」そして、「この納屋に閉じ込めたんだ」
戸があるほうへ、リージェスは目を向けた。いくらか光が感じられるようになっていた。板壁の破れ目から光が差して来るのだ。
兵士の足音が納屋のすぐ外に集まってきた。
「チッ!」リージェスは悪態をついた。「クソババア」
「ちょっと、待ちなあんたたち。まさかタダで開けてもらえると思ってるんじゃないだろうね」
思った通り、老女は兵士を相手に金をせびり始めた。口論を背に、リレーネが納屋の奥へと手探りで進んでいく。馬具や農具が収められた納屋で、リレーネは窓を見つけた。
「リージェスさん、ここ!」
キツツキが開けたらしい丸い穴が、リレーネの顔を照らしていた。彼女が指差すところには、格子状の枠と鎧戸がある。リージェスは頷き、駆け寄ると、無造作に置かれた
「駄目か――」
「チクショウ! あんたたち、呪ってやるよ!」
老女の喚き声が遠のき始める。
「血が止まらなくなる呪いをかけてやろうか! それと、矢の的にされる呪いをね! あたしにこの呪いをかけられた奴は全員――」
呪いの恐ろしさを説く声が聞こえなくなったのは、老女が担ぎ上げられ、遠くに連れ去られたからだ。鎖が解かれる音。リレーネが緊張に体を強張らせ、寄り添ってきた。
軋みながら、戸が外から大きく開いた。風が入ってきた。リージェスは鋸に手を添えたまま、振り向いて、戸口の侵入者の姿を見た。