市街戦/コブレンの戦い(6)
文字数 3,626文字
「トビィ!」
レミの叫び声は、自分自身が傷つけられたかのように悲痛だった。
「トビィ!!」
男の悲鳴が聞こえてきた。見なくてもトビィにはわかった。怒り狂った赤目が食らいついたのだろう。自分の身に起きたことをトビィはとうに理解していた。レミが駆けつけてきて――それでも彼女は自分の仕事を忘れず、まず最初に少女を建物の陰に引きずり込んだ。それからトビィを。頼りになる双子の弟は、仲間たちを背後にかばって赤目と共に戦っている。
「レミ」
トビィは背中を壁に預け、立ち続けた。座り込むと立てなくなりそうだった。じわじわと混乱に苛まれつつある少女が、いきなりトビィの脇腹に刺さる矢を掴んだ。差し込むような熱さが、ようやく脳天まで突き抜ける激痛に変わった。
「やめて、抜いちゃ駄目」ありがたいことに、レミがすぐ手を離させてくれた。「今は矢が止血しているの。抜いたら血が出てきちゃうから」
ついでに腹圧で臓器も出てくるだろう。トビィは呼吸を抑える。ほとんど止めているのと変わらないくらい、ゆっくり息を吐いていく。
「この人をお父さんの所に連れて行って! 昔軍医だったの!」
「静かに。お願い」レミは緑の瞳で少女を見つめながら囁いた。「大丈夫だから」
「レミ」
呼吸に集中しながらトビィは唇を動かした。「その人を連れて行って」
「でも」
「俺たちが包囲を突破できる保証はない――」
喋るごとに痛みがひどくなる。言葉を切り、もう一度息を整えた。
「――もしミラたちが成功していたら」
レミが悲しげに首を振る。強く。トビィが何を言うかわかっているのだ。
「西の通路の、星獣が、
「トビィ! 一緒に行こう!」
「もちろんそのつもりだよ」
塩辛さを感じた。汗が口に流れ込んだのだ。トビィは欺きに満ちた笑みを見せた。
「だから、先に……ミラたちが成功していたら、さっきの人たちと一緒に」
「わかった。わかったから。トビィはここにいて。もう戦おうとしちゃダメだよ!」
「レミ」トビィは微笑みながら希望を打ち砕いた。「武器をとって」
レミの顔から全ての表情が消えた。トビィの月牙は路上に転がっていた。
「忘れないで」
「トビィ」
「俺も、アズも、君も、自警団に拾われなかったら、凍え死んでいたことを」
痛みで今にも目を閉じてしまいそうだった。だが、堪え続け、レミが奥歯を噛みしめるのを見た。レミは戦いの音が聞こえる通りに身を晒した。そして腰を屈め、月牙を拾って駆け戻り、トビィの左手を取った。そのこわばる指に月牙を握らせた。
「忘れたことはない。
そしてレミは衝動のままに、自分でも思いもしなかったことをした。トビィに顔を近付けて、頬に口づけたのだ。
「私たちはみんな、とっくに死んだ命だ!」
叫びを残し、レミは少女の手を取って、トビィの手の届かない所へ、『猫の通り道』へと駆けて行った。
※
曲がり角から辻へと飛び出して、いきなり武装商人の一人と鉢合わせた。反応速度はアズのほうがずっと速かった。右手を伸ばし、向き合う相手の左の二の腕を掴んで引き寄せながら腹を半月刀で深く裂いた。その体を投げ捨てて、走り続けた。
今度は用水路に出た。小さな橋に置き去りにされた荷車の陰で、二人の男が何か話し込んでいる。一人は欄干に腰をもたせかけ、もう一人はその男と向き合って立っている。
腰を落として音もなく駆け寄ったアズは、左手の半月刀を振り上げながら荷車の陰から飛び出した。欄干にもたれていた男は当然アズの姿を目にしたが、声をあげようとしたときにはもう、アズは、背中を向けている男の首に半月刀を沈めていた。
真正面に残るもう一人の商人の剣が、アズへ振り下ろされる。
アズはその一撃を右の半月刀で受け流した。右足を軸に回転し、左の半月刀で斬りつける。
二人目の男の命が消えるまでに、アズは
アズは走る。トビィが隠れる地点を中心に、円を描くように周囲の敵を一掃して回る。いつの間にか赤目がいない。負傷した主人の元に戻ったのか、それか……。
まもなく殺戮の円を描き終えようとするとき、最後に現れたのは星獣だった。その原型は、明らかに人間だった。
蒼い、半透明の肌。濃い緑の唐草模様。肩に直接埋もれたような頭、一つ目。胸には人間の口の紋様があった。
口の紋様が甲高く吼えると、星獣を守る商人は、自ら姿を現した。
後ろだ。
声をあげ、襲いかかってくる。
アズは振り向かなかった。
右手の半月刀を頭上に投げ上げる。
左手の半月刀を両手持ちし、振り上げて、恐ろしく切れ味のよい刃で星獣の体を両断した。
振り返る。
半月刀が落ちてくる。
それが目の高さまで落ちたとき、手に残る半月刀の峰で、鍔を打った。
打たれた半月刀は回転しながら武装商人の元に飛んでいき、目に突き刺さった。もんどりうって倒れた商人の首を狙い、とどめを刺す。
もう敵は見えなかった。汗にまみれた体を寒風が包む。血まみれの
「トビィ」
歩調が早くなる。ついぞ走り出そうとしたとき、むしろ足を止めた。金色の毛並みの塊が路上に打ち捨てられているのを見つけたのだ。
赤目だった。
周囲の雪は血で汚れ、その尾が、その耳が、二度と動かないことは明らかで、ただ長い毛並みだけが、吹きすさぶ風にそよいでいた。
「トビィ、どこだ」
問いかけではない。ただのひとり言。トビィ。トビィ。この世でただ一人の双子の
その最良の相棒の体は、矢に射られて表通りの真ん中に打ち捨てられていた。
曲がり角から飛び出そうとしたアズは、暗殺者の習性が発する雷のような警告に打たれ凍りついた。
罠かもしれない。
そう。冷静さを失すれば、どれほど熟達の戦士でも、考えられないようなミスをする。
例えば、周囲の安全確認もせずに広場に飛び出すような。
身を引いた。
通りを見下ろす家に裏口から入り込む。
その家の人々は、縛られ、上がり込んできたアズに縋り付くような目を向けてきた。アズはただ唇に指を当て、黙っているように願うと、血まみれの半月刀を左手に下げて暗い階段を上がった。
通りを見下ろす部屋へ。
戸が半開きになっている。
当たりだ。
半開きの戸の向こう、武装商人の背に縫い付けられた日輪連盟の紋章が、無能な見張りの目のように、アズを見つめていた。商人は弩を構えて窓の下に注目している。
アズは気配を殺して忍び寄り、いきなり男の口を塞いで床に押し倒した。再び立ち上がった時にはもう、商人は死体になっていた。
「トビィ」
家々を回る。
「大地よ、天球よ」
二軒め。三軒め。
「お願いです」
三人め。四人め。
「私から兄を奪わないでください――」
周囲をきれいにし終えて、アズはとうとう最後の家から表通りに飛び出した。
「トビィ!」
呼びかけても反応はなく、
「トビィ!!」
体に刺さる矢は四本。脇腹。太もも。背中。肩。特に致命的なのは背中の矢で、恐らく肺に届いている。アズはトビィの手首を取り、脈を探した。
長いこと、手首に指を当て続けた。
震える息をアズはしていた。震えが大きくなっていく。打ちひしがれた者の涙が、一しずく、二しずく、トビィの顔に落ちた。
誰にも見られずに、アズはトビィを抱き直し、頬ずりをした。まるで初めてこの街で凍える夜を迎えた日のように。あの日から、体つきだけ大きくなって、何が変わったというのだろう? アズは今でもトビィの前でしか泣けない。トビィの前でしか安らげない。トビィの前でしか、素の自分に返れない。それなのに。
歌が聞こえてきた。
熱い疼きを引き起こす歌。
象牙の歌、星獣の歌。
痛みに身じろぎし、呻いた。汗を流し、息を弾ませながら、どこかへと突き動かそうとすると衝動を抑え込んでいた。
呼ばれている。
あの歌は、呼んでいるのだ。
他の星獣を、仲間を。
顔を上げる。
深い納得が訪れて、目から涙が引いていく。
わかった。
「ああ……」
悲しみが癒えていく。
どうしたらいいか、わかったのだ。