機転
文字数 3,867文字
太陽が急速に沈んだとか、いや沈まなくなったっか、そういう話はプリスの耳には入らなかった。彼女は世の中から全く隔離されたところにいて、独房から取り調べ室に移されるときに肌で感じるひりついた空気についても、都解放軍だのゼフェルの後継だのの蜂起を警戒してのものと思っていた。
プリスの望みはただ一つ。外の景色を見たい。しかしながら彼女は、もう何日も繰り返される憲兵隊イルメ・リエルト中尉の同じ質問に答えるより他なかった。
「私に話せることなんて、本当にないんです」
イルメの目は理知的で、冷徹だ。毎晩温かい部屋で凍えることなく眠れるからそんな目ができるのだろう。プリスは憔悴し、かつ嫉妬していた。ああ、温かい部屋と布団!
いいなあ。
「武器があるべきでないところに武器が集められていたんです。その場にいる全員を拘束するのは当然じゃないですか」
「そうしてゼフェルの後継の指導者コル及び幹部リグリーの逃亡を幇助した」
「だから! 私はその二人がそんな大物だなんて知らなかったんですってば!」
イルメは大型の机を挟んでプリスを一瞥すると、昨日までは言わなかったことを口にした。
「プリシラ・ホーリーバーチ少尉。あなたはあなたが思っている以上に危うい立場にあるのです」
「どういうことですか」
「まずあなたの一人目の姉、ロザリア・ライトアロー氏は我らと敵対するヨリスタルジェニカ神官団の正位神官将夫人であり――」
「……それがどうしたんですか」
「二人めの姉リアンセ・ホーリーバーチ中尉は、革命によって地位を追われたシルヴェリア元公女殿下と親密な関係にある事実が裏付けられています」
「だったら何ですか。姉たちと連絡を取る手段があったら取っています。私の家族は姉たちしかいないんですよ? でも、だからって私がどうやって元殿下や月環同盟に有利な働きができるというんですか!」
思わぬことに、イルメの声の力が緩んだ。
「あなたがわざと我々に不利益を与えた証拠はありません」
イルメは目をつぶり、軽く頭を振った。
「憲兵隊があなたを拘束し続けるには限度があります。それに、あなたに無実を訴える以上のことはできないと私自身わかっています」
「では……」
「解放せざるを得ないでしょう」
言いながら、イルメは立ち上がった。
「ここでお待ちなさい。憲兵隊長に伺いを立ててきます」
退室するイルメを、プリスは呆気にとられて見送った。
解放。
待ち望んでいたその可能性の前で、プリスは思考力を失った。
解放。解放される。
家に帰れる。
「ええ……」
今夜から、また温かい部屋で布団にくるまって眠れるのだ。
心が蘇る。喜びの息吹が胸に満ちてくる。
監視の兵に背を向けて座るプリスは、誰にともなく微笑んだ。帰れるのだ!
そこにイルメが戻ってきた。一枚の丸めた紙を手にしており、プリスの真向かいに座ると事務的に尋ねた。
「アナテス少佐が、解放前に一つだけ聞きたいことがあるとのことですが」
「はい」
家に帰れるのだったらどんな質問でもいい。
「この男性をご存じ?」
紙が広げられた。一人の男の人相書きだった。
ハルジェニクだった。
プリスの肩が震える。
目尻が引きつり、慌てて瞬いた。喉から意味のない声が漏れた。
その反応が答えだった。
だが、イルメは待っている。プリスが自分の口から知っていますと答えるのを待っている。
このために解放をちらつかせたのだ。
麻痺した思考で、プリスは必死に考えた。
より深く動揺させるために希望を与えたのだ。
知らない、と答えて何になる? そんな嘘は通用しない。
頷き、掠れた声で返事をした。
「同居人です」
「同居人? どういう関係?」
プリスは最もつきたくない嘘をついた。
「恋人です」
「あなたはこの人が」イルメは人相書きを机に置く。紙の両端が丸まった。「違法な薬物を売りながら、シルヴェリア元公女殿下の親衛隊員であるヨリス少佐に協力していた事実を知っていましたか?」
「ヨリス少佐? あの有名な強攻大隊の?」
無意味な質問で時間を稼ぐ。
考えるのだ。そして見分けるのだ。
嘘を答えるべきではない質問と、そうでない質問を。
「強攻大隊の隊長だったのは、あなたが士官学校を卒業する前までの話です。新しく組織されたシルヴェリア元殿下の親衛隊に抜擢されたことを知りませんでしたか?」
「新しい仕事を覚えることにかかりきりでしたので、人事のことはよく……」
「そう。で、この人。ハルジェニク・アーチャーのことですが、先に述べた罪状をあなたは知っていましたか?」
「信じられません、彼が違法な薬物を売るなんて。悪いことができる人じゃないんです。それに、ヨリス少佐に協力していたなんていつの話なんですか?」
「接触の事実を掴めているのは今年の六月ね」
「じゃあ革命の前じゃないですか。普通に軍の要請で協力していたのでは?」
イルメが目線を上げる。視線に射抜かれ、プリスは体を強張らせた。
「それに……私が知ってる彼は、苦労している画学生で……軍に協力とか、そういうイメージがわかないというか……」
「アーチャー氏とヨリス少佐の間に何らかの取引があった事実は揺るぎません。革命の前だからといって、軍に利する取引だったとは限りません。世界の状況が刻々と変わりつつある今、私たちは早急に彼と接触しなければなりません」
プリスは一つ、明らかに大袈裟な単語を聞いた。
世界?
戦局でも、都の状況でも、南西領の状況でもなく……世界?
しかもイルメは、全く無意識にその言葉を使ったようだ。
不意に、歳下の同性を宥めすかす口調になる。
「この人は、あなたの恋人だったのね」
「え……はい」
「共に眠るとき、この人はあなたにどんなお話をしたのかしら」
プリスの顔が瞬時に熱くなった。
「そんなこと、話に何の関係があるんですか!」
「こんな話を聞かなかったかしら。南西領の一部の地域で、奇妙な病気が流行している――」
「知りません」
「彼は大切な恋人であるあなたを守るために、歌流民を警戒するように言った」
「そんな話はしませんでした」
「あなたはどうして彼と同居を始めたの?」
プリスは慎重に答えようとした。自分とハルジェニクが西方領の出身であることも、南西領に移った経緯も、イルメはとうに知っているはずだ。
「ハルジェニクは幼なじみなんです。生活に困ってるなら一緒に住まない? って、私のほうから……」
「あなたが逮捕された日、憲兵隊の一分隊をあなたの自宅に派遣したの」
ああ。そうでもなければハルジェニクの話を持ち出されはしなかっただろう。
「それで、彼は?」
「アーチャー氏があなたの家から逃げ出したとき、三人の人物がいました」
「三人?」
プリスは嘘偽りなく驚いた。
一人はハルジェニク、もう一人はエルーシヤに違いない。あと一人は?
「男性が二人、女性が一人です」
ヴァンだ! プリスは閃くと同時に理解した。そう、記憶が正しければ、あの日はヴァンは非番だった。だから憲兵隊の動きを聞きつけて、即座にハルジェニクを逃がすために動けたのだ。
「ホーリーバーチ少尉、あなたはアーチャー氏と二人で暮らしていたのですね?」
「……はい」
ヴァン。素晴らしい友達。
体を熱が駆け巡る。
「でも実際には、あなたが仕事で留守にしている間、三人の男女があなたの家にいた」
できるなら、いますぐヴァンに抱きつきたい。ヴァンの背中を叩き、髪をくしゃくしゃにして、ありがとうと言いたい。何度だって。
涙が頬を伝い落ちるまで、プリスは自分がどれほど深く感動しているかさえ気付いていなかた。
その涙をイルメは誤解した。
「その、申し訳ないのだけど……あなたの恋人は、あなたに対して非常に不道徳な行いをしていたのではないかしら? 不品行なことを」
誤解させるに任せよう。うまく誤魔化すのだ。とにかくハルジェニクとエルーシヤは無事なのだから。
不意に、二人の姉のことを思い出した。ロザリア。リアンセ。優秀な二人の姉と、凡庸で子供っぽい三女。
いつだって自分のことをそう思っていた。
今は違う。この状況に追い込まれ、はっきり理解した。あの姉たちと同じ強さが自分にもあることを。
大丈夫。
うまくやれる。
「彼は私を愛してくれたわ!」プリスは惨めったらしく泣いてみせた。「私がいない間に他の男女を連れ込んで……その……そんなこと信じないわ! あなた、私を騙そうとしているのね!」机を叩く。「そんな嘘で彼を侮辱するなら許さないわ!」
「落ち着きなさい、ホーリーバーチ少尉」
イルメの見せる憐憫は、いくらかは本心のようだった。
「アーチャー氏はあなたの家から逃げるとき、自分の絵を火に投じていきました」
「話を逸らさないで! ハルを侮辱したことを謝って!」
「どうして彼は自分の絵を燃やしたのかしら」
「知らないわ。出来が気に入らなかったんじゃないの? よくあることよ。それより彼は一人だったって、私の家で一人だったって言って!」
「事実を事実でないと言うことはできません」
事務的な口調に戻り、イルメは告げた。
「アーチャー氏のことで、あなたには聞きたいことがあります。手続きが済み次第、あなたの身柄を憲兵隊の拘置所から別の場所へ移送します」
「どこへ」
「北の断崖、第十一番監獄へ」
政治犯を取り調べたり、拘置する施設だ。
「アーチャー氏のあなたに対する裏切りについて、一人になってよく考えなさい」
イルメは話を締めくくった
「その上で、アーチャー氏について何かを話す気になったらいつでも話を聞きましょう」