鋼の心
文字数 6,126文字
愛しあう二人に言葉はいらないとは使い古された言い回しだ。が、実際そうだった。レミとトビィは、視線に凝縮された、共に過ごした客観的時間の長さと共に過ごせなかった主観的時間の長さ、その濃密さを込めて伝えあうことができた。愛していると。
二人の頭上ではポロポロと月が砕け始めた。愛しあう男女の再会にはいささか無粋な歌が響いていた。
「コブレンを返せ! コブレンを返せ!」
「日輪連盟消えろ!」
大合唱。
レミは路地に足を踏み入れた。もう止まらなかった。結局、体当たりするようにトビィに抱きついた。トビィの服に染み込んだ返り血で顔が汚れようがお構いなしだ。トビィは後ろにふらついたものの、レミをしっかり受け止めて、優しく頭を撫でた。
「たまに私のこと見てたよね?」
レミは泣き出しそうな声で言った。
「気付いてたんだね」
「どうして声をかけてくれなかったの? ずっと会いたかったよ」
「ごめん」トビィはレミの両肩に手を置いた。「俺の顔をよく見て」
レミはそうした。月が近すぎるので、明かりは十分だった。トビィの顔が黒くまだらになっているのは、返り血のせいではなく、肌そのものが変色しているのだとはっきりわかる程度には。
「どうしたの、その顔」
「俺たちはもうすぐこの変色に飲み込まれる」
話している間にも、トビィは肌を蝕む痛みを感じていた。灼けるような、刻むような痛みだ。明らかに歌が侵蝕をひどくしていた。
「だから、君に見せたくなかった」
俺たち、という言葉にレミは反応した。
「アズはどこ?」
「こっち」
トビィがレミの手を取る。
「気をつけて」
レミにわかることは一つとしてなかった。どうして月がこんなに近いの? どうして崩れ落ちていくの? あそこで、月で何が起きているの? トビィの肌はどうして変色しているの? 俺たちってことは、アズもなの?
アズは二人の殺し屋を始末した地点で、うずくまるように座り込んでいた。目を固く閉ざし、瞼を震わせている。苦痛のうめきが漏れていた。
「アズ」
レミが屈んで手を取ると、アズは冷たい汗をかきながら目を開けた。蔓のような黒色が、アズの顎から鼻へ、そして目尻へとじわじわ伸びていく。アズは出血のせいで衰弱していた。既に顔面蒼白だ。それでも弱音を吐かなかった。
「レミ、よく無事で……」
トビィもまた、アズの眼前に身を屈めた。
「苦しいよね、生きているというのは」アズの手を包むレミの手に、自分の手を重ねる。「心配しないで。俺も君の後に逝くよ」
アズが拳を握りしめる、その力がトビィの掌に伝わってきた。
「トビィ、許してくれ……」
「ああ、もう。アズは俺を信用できないのかな? 何度謝られても答えは同じだよ」
トビィは地面に両膝をつき、血で汚れた自分の胸の中にアズの頭を抱いた。
「許す、って」
トビィの喉からは、まだあのヒュウヒュウという音が微かに続いていた。
「大丈夫だよ。苦しくたって素晴らしいことだ、生きているのは」
「本当にそう思うか?」
「うん、本当に」
トビィはアズを抱くのをやめて、頬に手を当てた。
「俺にもう一度君やレミと過ごす時間を与えてくれてありがとう」
アズの目尻が潤むのをレミは見た。だが大切な、残り僅かなひとときを台無しにするものが、足音を立ててやってきた。
これまでそうであったように、三人はもはや一体であり、誰もうろたえず、驚かず、恐怖もなかった。トビィとレミが左右からアズの腕を取り、立ち上がるのを助けた。アズはよろめきながら半月刀を鞘から抜いた。両手に。
隠れる闇がなくなったコブレンで、歩み寄るジェノスはもう振り香炉を手にしておらず、微かな乳香の匂いを夢の名残のようにまとわせていた。
けしかけた部下を皆殺しにされた殺し屋の頭目は、それらの死体の手前で足を止め、黒塗りの両手剣を抜いた。両手剣は光を反射しなかった。その切先が向く舗道には、殺し屋の一人が手に持っていた槍が落ちていた。
「消耗したな」
ジェノスが言った。答えるのはトビィ。
「君を討つまでは
「くたばりかけた二人にとどめを刺せば、あとは街じゅう駆けずり回って疲れ果てたのが一人だ」
「確かに俺たちは疲れ果ててる、認めるよ」トビィは庇うように二人の仲間の前に出た。「でも、一人じゃない」
レミが、音もなく取り出した鎖をジェノスに投げつけた。顔面目掛けて投げつけられた鎖をジェノスは両手剣に絡めるように防ぎ、鎖が絡まるままのその刃を、繰り出されたトビィの月牙の根本に引っ掛けた。
トビィの手から月牙の柄が落ちる。
「トビィ!」
アズが叫んでジェノスの気を引いた。左手の半月刀を右肩の上に、右手の半月刀を左の脇腹に構え、ジェノスに斬りかかっていく。
その間にトビィは足許に転がる槍を蹴った。蹴って、左手に握る。
ジェノスに斬りつける、その一撃がアズの限界だった。半月刀は空振りし、ジェノスが体の位置を入れ替えてアズの背後を取る。
と、アズの右の脇の下から左肩へと腕を回し、盾にした。
「天球の祝福にかけて、止まれ!」
ジェノスの左手がアズの喉にダガーをつきつける。
トビィは止まらなかった。
レミすら予測していなかった。全身の力を込めたトビィの槍の一撃が、アズもろともジェノスの体を貫くことを。
まさか、とレミが息をのんだときには、それは実行されていた。
アズはとても驚いたような顔をしていた。
その目は光を宿したまま――
ジェノスに後ろから突き飛ばされて、アズは倒れた。
腹から背へと槍が貫通したままだった。
「アズ!」
レミは悲鳴のように叫んだが、どこか冷静だった。アズは一人で逝くわけではないのだ。
「馬鹿な――」
「俺が動揺するとでも思った?」トビィは言った。「弟の命に換えてでも、お前を殺すよ」
腹から血を流しながらよろめくジェノスに、レミは残るもう一本の鎖を握りしめ、肩の後ろに振りかざしながら飛びかかった。今度の一撃は命中した。ジェノスは頭から血を噴き上げ、壁に激突した。ジェノスの腰から、レミは彼の黒塗りの両手剣を抜いた。
「ジェノス、お前のような輩は自ら振るう刃に討たれて死ぬがいい!」
ジェノスはまだ、かろうじて立っていた。腹を手で押さえているが、流血の勢いは止められない。
「何故」
ジェノスの歯の隙間から、声と共に血が出てきた。
「何故貴様らは戦うのだ、何のために」
「コブレンの戦後の平定のため」
疲れた両手に月牙を握りしめるトビィをジェノスは嘲笑った。
「戦後など来ぬわ。神である地球人が我らを裁くために来られた」
「来るのは地球人じゃない。神でもない。戦後だよ」
油断なく月牙をジェノスの首に突きつけて、トビィは笑い返した。
「俺たちの誰も神を見たことはない」トビィは言った。「神は実体じゃなくて、いるかもしれないという可能性だった。天球の巡りも大地の恵みも今は可能性の領域に押し込められている。でも俺は信じるよ。もう一度大地が芽吹き、新しい命が生まれるって」
「何を根拠に」
「根拠? 何言ってるの?」
トビィの声を聞きながら、致命傷を負ったジェノスがずるずると地面に崩れ落ちる。トビィにはわかった。ジェノスは脾臓をやられている。その激痛に耐えて話し続けるとは、常人離れした精神力だ。
「信じるって、
ジェノスはもはや答えなかった。答えようとはするものの、口から血の塊を吐くだけだった。
それで、レミは慈悲の一撃をくれてやることにした。とどめを。
ジェノスの首が彼自身の剣で裂かれるのを見たあと、トビィはしばし戦いの余韻に浸った。その間にレミは剣を投げ捨て、仲間、倒れているアズのもとに駆け寄った。
「アズ」
槍に貫かれたまま、驚くべきことにアズはまだ意識を保っていた。何度も目をしばたたき、月の眩しさに耐えていた。
掠れた声が言った
「レミ、いいんだ、俺なら」レミの涙が顔に落ちるのをアズは感じた。「……本、望……」
トビィもやってきて、レミと二人してアズの顔を覗き込んだ。二人は何かを必死に伝えようとしていた。アズは聞こうと努力した。二人の顔を見ようとさえした。けれどアズの両目はもう焦点を結ばない。
見えるのは、月。砕け落ちる月の光――
『アズ』
命が流れ出ていくなか、誰かが魂に呼びかけた。
『アズ、私を覚えてる?』
少しずつ苦痛から解放されていくのを感じながら、アズはその声に心で応じた。
『この声は、マナか?』
『うん』
気付けば、一面の灰白色。トビィもいない。レミもいない。もはや傷つくことも疲れることもない体でアズは立っていた。
『マナ、どこにいる?』
何もない空間に問いかければ、答えは直接心に与えられた。
『どこにでもいるよ。私は私じゃなくなってしまったの』
『俺は死んだのか?』
『ううん、まだ』
『お前にはコブレンにいる俺たちが見えているか?』
『うん』マナは訴えた。『助けてほしいの』
アズは困惑しながら尋ねた。
『俺はもうすぐ死ぬ。まだできることがあるのか?』
『あるよ。アズにしかできないこと』
『教えてくれ』
『可能性を選択するの。あなたが口にした希望を。私は……』
声が一瞬、中性的な別人のものとなり、すぐマナの声に戻った。
『……砂の書記官は、確かに地球人に作られた。だけど千年、ずっと言語生命体を見てきた。私は/砂の書記官は』
二つの声。
『お前たちに味方する/言語生命体の味方だよ』
なんと心強いことだろう。アズは微笑んだ。心は安らぎに満ちていた。死にゆくものの安らぎに。
安らぎは破られようとしていた。
『だからアズ、もう一度戦って』
『どうすればいい』
『可能性を選ぶの。あなたが願う可能性を。実行して』
可能性――。
レミの腕の中で、いよいよ息を引き取ろうとしていたアズが両目を見開いた。
可能性。俺が望む可能性を。
実行する。
最後の力を振り絞り、左手を胸に寄せた。その意志を汲み、トビィの手が腕を支えた。
アズは天を指す。
月を。
天球儀を。
その指先が炎に包まれた。
望むことは一つ。
世界が蘇ること。
もう一度、命と祝福が大地に満ちること。
その可能性を選び取れるというのなら、賭けよう。
アズの手が燃える。
もう一度生きる、再生、その象徴、太古歌の領域に豊かに息づく象徴。
不死鳥。
アズの体は炎に包まれたが、その炎でレミとトビィを害することはなかった。
コブレンの路地、驚きに息詰めるレミの膝から、燃え盛る火の鳥が翼を広げて舞い上がった。
星獣兵器の呪いに体を侵された者の最期の姿が。
アズだったものが。
※
「コブレンを返せ! コブレンを――」
群衆は、赤く燃え盛る鳥が頭上に舞い上がるのを見た。合唱が小さくなり、星獣兵器を思い出して悲鳴を上げる者もいた。
「あれは星獣兵器なの?」
レミはトビィの右腕に抱きつきながら尋ねた。鳥は、かつてこの街で昼星がそうしていたように、屋根屋根の上で円を描きながら高度を増していく。
「わからない。でも違うと思うな」トビィは心のままに答えた。「だって、あんなにきれいじゃない?」
人々は鳥を見て、鳥は人々を見た。人々の苦しみを見た。
こんなに寒いのに、しかも暴動が起きているのに、家に入れてもらえず裏の戸口でうずくまる子供を見た。
騒動に便乗した強盗に押し入られ、手ひどく縛り上げられた老人がいるのを見た。
金持ちの家の玄関先で、パンの一かけらももらえず蹴り出される物乞いを見た。
先の戦禍に伴う火災で両目と両腕を失い、恐慌に駆られ、何が起きているのか教えてくれ、それか殺してくれと喚く傷病兵を見た。
それらの苦しみを、鳥は全身で受けた。
身をよじり、甲高い金切り声で鳴く。
気を失ったかのように翼を畳んで落下する。民家の屋根に激突する直前、鳥はもう一度翼を広げ、どうにか姿勢を立て直した。
首を上げ、天を目指す。
「見てられない」レミの声は震えていた。「あれは落ちる」
「ううん、レミ」トビィは鳥から目を離さずに言った。「アズは諦めないよ」
※
少しでも高みに上がろうと、鳥はもがいていた。もはやアズとしての意識はほとんど残っていなかった。
それでも鳥は、眼下にコブレン自警団の本部を目にしたとき、魂までもが燃え上がるのを感じた。自警団本部からさほど離れていないところに陶房の集まる区画がある。
明るすぎる月光の中で、レミとトビィがまっすぐに鳥を見上げていた。
「頑張れ!」レミは涙を振り絞り叫んだ。「頑張れ! 諦めるな! 頑張れ!」
あれはもうアズではない。呼んではいけない。呼び止めることになるから。
「行け! 行け!」
レミは心に決めていた。惨めに泣き喚いたりするものか。にも関わらず、
ぐるり、鳥は群衆の上を旋回する。鳥は白く輝く鏡の広場を見下ろした。そこに捨てられた子供たちがかつて己の仲間だったことを微かに意識した。
鳥はまた、苦しみと同じくらいの喜びを街に見出した。
家から閉め出された子供は立ち上がり、閉め出した両親が決して見ることのできないもの、天を舞う火の鳥が徐々に高度を上げていくのを目にした。群衆は何か希望のようなものが芽生えるのを感じ、帽子をかぶっていた者はそれを脱いで、手に手に振った。恋人たちは指を絡め、身を寄せ合っていた。睦まじい老夫婦が、窓辺で互いの腰に腕を回していた。楽士たちがめいめい喇叭やシンバルを鳴らし始めた。
オーサー師がいた。
レンヌがいた。
ジェスティとアスターもいた。
皆、鳥を見ていた。
その視線、祈るような眼差しが翼に揚力を与えた。鳥は今やまっすぐに首を伸ばしていた。
空へ。
人々が生きている。そう感じると、ふわりと体が軽くなった。
命ある限り生きるがいい。世界は美しく、生きるに値する。
レミは、鳥の姿がひときわ燃え立つ炎となって輝くのを見た。燃え落ちるかと思えたそれは、重力に反してまっすぐ夜空に吸い込まれていく。
そして天球儀に激突した。
あっ、と思う間もなく、白色光を放つ天球儀に大きな丸い穴が
一瞬ののちには、月もろとも、天球儀は無数の破片に変わった。
惑星アースフィアを包み込む鳥籠は無限の流れ星となった。寄り添うトビィとレミの姿を白く映し出す。
「鳥籠が開いたよ」
トビィが囁いた。
「アズはやり遂げたんだね」
「うん」
二人の胸は静かに満たされていた。
「俺たちの大事なアズ」
白かった天球儀の全て破片は、アースフィアの上空で赤い尾を引きながら消えていく。そのもう少し上では、月が崩れ続け、もう半分、姿を消していた。
トビィは体の向きを変え、右腕に抱きつくレミの肩に手を触れた。
「オーサー師に伝えて。俺たちの最期を。今までありがとうって」
「……うん」
「レミ」
真っ黒に変色した手で、トビィはレミの頬に触れた。
「愛してる」
レミの息が震えた。
全力で抱きしめようとした。それが返事だ。が、手応えはなかった。抱きしめるのと全く同時に、トビィは姿形を失って、黒い砂と化した。
トビィの着ていた衣服がレミの腕に残った。