岐路
文字数 2,452文字
悲鳴を聞きつけて、家の奥から杖の老婆が大急ぎで――杖をつく老婆なりの大急ぎで庭に出てきた。
老婆の家の隣には中年の夫婦が住んでいた。その二人が様子を見に行ったとき、少女は前庭で、物置に向かって尻餅をついていた。
何があったか尋ねる女に、少女は怯えた顔を向け、物置を指差した。指も唇も震えていた。その女の夫は、率先して物置に入っていった。
今度は男の悲鳴が街に放たれた。物置の隅の箱の中で子猫が生まれていたのである。
子猫たちは、後ろ足が十本ほどもあり、毛の生えそろっていない尻尾と一緒にヒゲが生えていた。まともに形があるのはその大量の後ろ足と、腰と腹の一部だけで、母猫の周囲に散らばる砂が、体の残りの部分だった。
一つ、生まれたての子猫の生首が転がっていた。ミーミー鳴く小さな口の下から直接
トラ模様の母猫は、傷ついたような困ったような顔で人間を見つめていた。
※
「何を話せばよいのですか」
尋ねるテスは本気で困惑していた。『月』をタルジェン島に運ぶ旅と、コブレンを出てリージェスたちと出会った経緯なら話した。他に話せることはない。それよりも、今は一つの言葉が頭に鳴り響いていた。民間人に千人に届く死者……民間人に千人に届く死者……。
「月が地上に落ちてきた」
シルヴェリアの声も、その言葉を打ち消すことはできない。
「次に空が」
民間人に千人に届く死者。
「聞いておるか」
「はい、殿下」
「まるで語歌の世界じゃろうて」
風に乗って、今度は男の悲鳴が聞こえた。シルヴェリアはしばし黙って三人めの悲鳴を待った。だが聞こえなかった。
寒風に吹きさらしのシルヴェリアの唇は
「マナに会いたい」
テスはもうここにいたくないとさえ思った。
「会ってどうなさるおつもりですか」
「私は、
会いたい
と言ったのだ。会ってどうするかなど話題にしておらぬ。そなたは赤毛の友達がマナを連れてここにたどり着くのを、指をくわえてただ待っているつもりか?」たじろぐテスに、シルヴェリアはさらに叩きつけた。
「殺し屋ミスリル」
「何故ご存じなのですか」
「うつけを装っているのか?」シルヴェリアの目が細くなるが、笑ってはいなかった。「それともまことに目の前の物事しか見えぬのか?」
「あなたはシルヴェリア様がマナを殺すんじゃないかって思っているのね」
艶かしい女の声。
フェンが、屋上と屋内を隔てる扉の前に立っていた。
「『月』という有り得ないものの実在が、他の有り得なさを誘発しているのなら――」
アズ。
テスは立ち尽くして心の中で助けを呼ぶ。アズ。アズ。
あのときはアズがいてくれた。中庭で、マナの口から論理崩壊の可能性が語られたときには。
あるはずのないものがある。その綻びが全体に波及する。同じ可能性をシルヴェリアやフェンが思いつかない理由はない。
歩み寄ってくるフェンに気を取られていると、シルヴェリアがさらに一言。
「私は最善を尽くす」
テスはシルヴェリアに向き直った。
「マナを殺すおつもりですか」
「それが最善ならば」
「シルヴェリア様」フェンが、テスの横を通り抜けて着座のシルヴェリアに近付いていった、「
「ふむ、朝餉か」
打って変わってシルヴェリアの機嫌が良くなった。
「よかろう。ちょうど腹がすいたわ」
立ち上がり、ドレスのスリットからこぼれていた太腿を豊かな布地に隠した。銀髪を背中に払う。
ついでのようにテスと向き合った。
「こういうのはどうじゃ? もしも『月』すなわち『月』を包含するマナを通じて異変が来るのなら、マナの破壊に成功した暁には壊滅したコブレン自警団の救援及び地位の回復を約束する」
「壊滅」
皮肉にも、その一語は頭に鳴り響く言葉を一時的に消した。その後、二重に響き合うようになった。
『民間人に千人に届く死者』『壊滅したコブレン自警団』『民間人に……』
「まことに何も知らぬのだな」
ヨリスについて来るよう手で合図して、シルヴェリアは足を踏み出した。
「私に協力するか、拒むかじゃ。回答までに一日の猶予をやろう。明日の朝、答えを聞く」
テスはただ、頭を振った。シルヴェリアは構わなかった。
「回答はどちらでもよい。協力を拒んで去るという決断も私は許そう。だが、優柔不断な態度をとるのなら、ここにいるヨリスがお主を斬る」
それだけ伝えると、立ち尽くしているテス、その後ろのリージェスとリレーネの右側を通り、シルヴェリアは立ち去ろうとした。フェンと、ヨリスが続いた。
ヨリスがすれ違うとき、この黒髪の剣士に対する敵意が胸に湧き上がるのをテスは堪えきれなかった。テスのダガーを弾き返し、威圧のみでゼラを追い返した剣士に。
俺を斬る、だって?
睨みつける。
たちまち、ヨリスが背中を見せて立ち止まった。
「どうした」
間合いは十分。
「その気があるなら来い」
その言葉が終わり、鼓動一拍の間。
テスは床を蹴る。
一跳びで間合いを詰めた。抜刀が難しい半月刀、それを用いて抜きざまの一閃を背中を浴びせてやろうとした。髪の毛くらいは切り落としてやろう。
だが、結果的に床に転がったのはテスのほうだった。
半ばまで抜いた半月刀は、柄から手が離れて鞘に戻った。腹に衝撃が叩き込まれ、体が浮く。テスには何が起きたかわかった。腹を蹴られたのだ。しかも、しばらく再起不能になるような場所は避ける余裕をヨリスは持っていた。
息ができない。
当たり前のことである。ヨリスはアズではなかったというだけの話だ。
「では、二十四時間後に」
リレーネが、声を殺して素早い瞬きをしていた。昼星が翼を広げてテスの真横に下りてきた。
咳こみながら床から顔を上げるテスを、シルヴェリアもヨリスも気に留めなかった。