最後の月
文字数 2,591文字
全く期待していなかったので驚いたのだが、南ルナリア独立騎兵大隊隊長ギルモア中佐はカルナデル宛てに伝言を残していた。
「確認が完了しました。身分証をお返しします。それと、こちらを」
対シオネビュラの最前線となる小さな町で、指揮所の衛兵がカルナデルに封書を差し出した。カルナデル・ロックハート大尉宛、と記された筆跡は確かにギルモア中佐のもので、裏には封印が捺されていた。
町に駐留する部隊の指揮所の小部屋で、カルナデルは無表情で封を破った。
『カルナデル・ロックハート大尉殿
リジェク神官団との会合の報告より馬一頭の健康状態を優先し、結果として本隊からはぐれた貴官の行動を誠に遺憾に思う』
カルナデルは早速うんざりした。最初にお小言かよ。
『本隊は現在、ソレリア民兵団との合流を目指し旧ミナルタへ移動している。本状を受け取り次第、合流を急がれたし』
文面はそれだけだった。
衛兵に見つめられながら三度読み返したが、書かれている以上のことを読み取るのは無理だった。
何故、旧ミナルタへ行く?
ミナルタは体面こそ中立を保っているが、シオネビュラ神官団を筆頭とする月環同盟側につくと表明するのは時間の問題だ。
ギルモアは日輪連盟を裏切るつもりなのか?
そしてソレリア民兵団。
シオンの戦いで痛手を被り、総指揮官ゼラ・セレテスの行方不明もあって、日輪連盟の中でもすっかり存在感を失っていたはずだ。
ここで名が出てくるということは、ゼラが生きていたか、代わりの指揮官が立ったか。
いや、連盟を裏切るつもりはないかもしれない。ソレリア民兵団と手を組んで、コブレンを追われてきたカーラーンを捕縛するつもりか――。
「大尉殿、どうかされましたか」
声をかけられて、カルナデルは考えるのをやめた。
「いいや。この書状、確かに受け取ったと報告してくれ」
「はっ」
それで、ギルモア中佐は日輪連盟を裏切るつもりなのか。
あり得る、と、指揮所として徴発された石造りの会議所を出るまでにカルナデルは結論づけた。
まだ日のあるうちに――何せいつまた夜になるかわからない――公衆浴場を訪れ、垢と埃を落とす。着たきりですっかり型崩れした軍服は背嚢に押し込んだ。前の町で購入したシャツとジャケットに着替える。
背嚢を負って外に出ると、待ち合わせ通り、アルマが浴場前の階段の隅に座り込んでいた。
「とりあえず、面は通してきたぜ」
太陽は正常に西に傾いていた。アルマの髪はまだ濡れていて、目の下には隈が浮いている。彼女はひどく疲れていた。大人びている、を通り過ぎて、歳をとったようにさえ見える。
「あなた、部隊に戻るつもりなの?」
アルマが階段から腰をあげないので、カルナデルは仕方なくその隣に座った。
「最終的にはな。他に仕方がないだろう?」
「でももう少し私に付き合ってくれるよね」
「あんたがオレに耳打ちした通りのことをギルモア中佐が企んでるならな。それが本当なら、オレは然るべきところに大隊長を売る。部隊には戻らない」
カルナデルは声を落とした。
「循環取引のこと」
子連れの夫婦が、カルナデルとアルマを避けて浴場への階段を上っていく。まだ三つか四つの幼な子が、ニコニコした両親に左右から手を取られ、飛び跳ねるように一段ずつ上る。
その背中を目で追いかけて、アルマが嘆くように呟いた。
「人間って、あの子くらいの年頃が一番幸せなのかな」
「何言ってんだお前」カルナデルは鼻で笑った。「オレに言わせりゃお前もガキなんだよ。十七より上には見えんな」
「十八よ」
「おっと、失礼」
「ねえ、あの子」
アルマは膝の上に左肘をつき、背を丸めて顎に拳を当てた。
「大人になれると思う?」
「どういう意味だよ」
「あの子が大人になれるまで、世界は続いているのかな」
「知るかよ。案外、本当に滅ぶかもしれないし……そんなの仕方ないだろ?」
「仕方ない」
アルマは繰り返す。
仕方ない。
カルナデルは膝を打って立ち上がった。
「さあ立て。宿に戻るぞ。早く寝て早く起きろ。明日中にシオネビュラに入るつもりならな」
「明日が来るならね」
アルマは元から陰気な性格なわけでは決してないのだろう。それでも彼女の余計な一言はカルナデルを苛立たせた。
二人は一つの宿に、別々に部屋を取っていた。
カルナデルが寝付けずにいると、薄い壁を通して隣室のアルマのすすり泣きが聞こえてきた。目の前で姉を殺された少女は、泣きたいだけ泣いて、それでもまだ泣き足りないらしく部屋を出ていった。足音は廊下を渡り、閂を開けて玄関から出ていった。カルナデルは起き上がると、シャツの上に直接マントを羽織って後を追った。
赤い星雲が橋を架け、天球儀の光の網が白く
「寝れないようだな」
アルマはものも言わずにカルナデルの手をとって、トネリコの木陰に導いた。
「父さんがグロリアナの浚渫工事に関わってたとき」
抑えた声で囁く。
「私は十二歳だった。あの頃はおねだりすれば何でも買ってもらえた。何もおかしいと思わなかった。でも姉さんは気付いてた。儲かってるにしたって羽振りが良すぎるって……父さんは不正な取引をしてるって」
一際強い風が吹いて、アルマは首を竦めた。トネリコの若木が打楽器のように枝を鳴らす。
「でも父さんは、工事からいきなり手を引いた。それからグロリアナで人が消えるって噂が流れ始めた。シオネビュラにいる子供の私の耳にまで聞こえたのよ」
「あんたの父親の事業のことで、何か知ってそうな人はいないのか?」
「姉さんなら……でも、アウェアク先生の招聘に応えた結果、殺された」
「ああ。悪いな、つらいこと思い出させて」
アルマは首を横に振った。
「真相を知りたいなら、父さんから直接聞き出すしかない」
「できるのか?」
「できなきゃいけないでしょ。姉さんは私に、知り得た話を……あなたの大隊長が関わる取引の話を私に託してくれた。ねえ、耳を貸して」
警戒に満ちた視線を左右に飛ばしてから、アルマはカルナデルに耳打ちした。
「今から言うことをよく聞いて。私のことが大事なら、父さんは口を滑らすはずよ」
屈んで耳を寄せながら、カルナデルの目は天を向く。
その視線の先で、前触れなく月が消失した。