新しい神話
文字数 2,929文字
こうしてリアンセは、教会堂の奥の寝室でアウェアクと二人きりになった。
リアンセは単刀直入に切り出した。
「姉が、グロリアナで消えたのです」
感情が鈍麻したようなアウェアクの顔が、拒絶でこわばるのを見た。それでも彼は礼儀として訊いた。
「消えたとはどういうことですかな?」
「その通りの意味なのです。姉にはリジェク神官団に加わった友人がいました。その友人の招きを受けて姉はリジェクに向かいました。北ルナリアを観光したいとも言っていました……もちろん、戦時ですから私は引き止めました。ですが姉は急いで
「へぇ」
「姉の友人であるリジェクの神官の名を覚えておりましたから、私は
「それで」アウェアクはリアンセと目を合わせずに、よそよそしく言った。「私に何ができるのかね?」
「人が消えるという話について教えていただきたいのです」間髪を入れず、「タルジェン島の噂をお聞きになりましたか?」
「タルジェン島?」
「ソラート神官団が攻め入ったとき、ヨリスタルジェニカ神官団の全従軍者は艦隊と出陣の形跡を残して消滅していたと」
アウェアクは乾いた声で笑い飛ばそうとした。
「仰る意味がわかりませんな。お嬢さん、そんな話をした人は、悪い夢でも見たのでしょう。万一それが事実だとしたら、外部に漏れるわけがない」
リアンセの無言の凝視が老人の精神を圧迫する。アウェアクは
ミスリルが、音もなくアウェアクの背後に立ち、着座した彼の喉にダガーを添えていた。
部屋は静寂で破裂しそうになった。が、長くは続かなかった。
「今私たちがいる世界には、言語生命体を消滅させる不可解な
何か
がある」真向かいに座ったリアンセは、目の圧力を全く落とさなかった。「それは六年前、グロリアナから始まった」「待ちなさい」
ほとんど反射的にアウェアクは口を開いたが、答えではなかった。
「私が何をしたというのかね?」
かさかさに乾いた老人の顔を脂汗が流れ落ちる。
「リジェクがグロリアナの地所を占有した時期、あなたはその場所に招かれた。あなたはトリエスタ伯の紹介を受け、時を置かずしてトリエスタ修道院の新院長に就任した。そこで何を見たの?」
アウェアクは口を開けたままだ。無言だが、流れる汗の量は増えた。両足の震えがミスリルにも伝わってくる。少しダガーの角度を変えた。アウェアクの皺だらけの首の皮が浅く切れた。
「グロリアナの住民の目から隠された、リジェクの天幕の中。そこで何を見たの?」
「知らない」命がけの覚悟をしたらしく、アウェアクはやっと答えた。「私はそこに招かれなかった」
「ふぅん。では、あなたが招かれた理由は?」
「論文だ」
彼は分かっているらしい、と、ミスリルは冷ややかに考えた。標的は複数いる。ここで口を割らずに死んでも他の誰かが喋る可能性が高い。ならば沈黙を保っても無駄死にするだけだ、と。
「何の論文?」
「北ルナリア山塊の歌流民の歌に関するものだ。歌によって獣から星獣に作り変えられた個体の記憶力に関する研究だ。かつての記憶と本能に基く生活習慣をどの程度までなら損なわずにいられるか」
リアンセは幽霊のように立ち上がり、青白い無表情でアウェアクを見下ろした。
「では、私たちヒト型言語生命体を星獣に作り変えることは可能?」
「理論上は可能だ」
「理論上は可能なことぐらい子供でもわかるわよ。問題は、個人の記憶と人格を保って星獣化できるか」
ミスリルは、綿毛のような白髪の僅かに残る頭頂に、冷酷な目を注ぎ続けた。
さあ、言っちまいな、爺さん。リジェクは何を作った?
「私はリジェク神官団が何を作っていたか知らない。本当に知らないんだ」
心が伝わったかのように、アウェアクは呻いた。
「だが何を作りたがっていたかは知っている。彼らが何を必要と考えていたか」
アウェアクの唇が動いた。声は呻き声だった。だが、それでも何かを言った。
「今なんて言ったのかしら? もう一度はっきり言って」リアンセが脅した。「私にはこう聞こえたんですけど。『新しい神話』ですって?」
ミスリルにも、確かにアウェアクの唇がそう動いたように見えた。
「『我々は新しく生まれることが必要だ』と……もしも我々言語生命体が、この肉体、太古の地球人の似姿である限り……」
話の途中で、壁の向こうから足音が聞こえた。誰かが雑草を踏みつけて路地を歩いていく。
アウェアクの目が、足音のほうへ動いた。鎧窓のすぐ向こうにいるのだ。ミスリルはダガーを投げ捨て、右腕をアウェアクの首に巻きつけて、左手で口を塞いだ。やや遅れてアウェアクが喚こうとした。
右腕に力を込める。相手を強引に立ち上がらせた。抵抗は無意味とアウェアクが悟るまでの間に、通行人は遠ざかっていった。
ミスリルは椅子を避けて、床にアウェアクを突き飛ばした。どさりと音を立てて倒れた老人を、リアンセは無慈悲な視線で突き刺した。そうしながら、ゆっくりと彼の前にしゃがみ込んだ。
「ねえ、アウェアク先生。どうしてリジェクの神官たちはそんな気を起こしたのでしょうね。新しい神話が必要? グロリアナで一体何を見たら、現実主義の高位聖職者たちがそんな馬鹿げたことを考えるようになるのかしら」
「私は知らない」
「グロリアナの浚渫工事で何が引き揚げられたの?」
「知らない。本当なんだ。私は論文と研究資料をリジェクに提供した。だがそれだけなんだ」
「そのようね」
アウェアクがほっとするのも束の間、リアンセはまた立ち上がると、フルーレの
「おいおい」ミスリルは口を挟むことにした「こいつは知ってること吐いただろ?」
「ギセルモード・アウェアク」
鉄のように固いリアンセの声に続いて、本当に鉄のこすれる音がした。フルーレを抜いたのだ。
「あなたの前任がどうして修道院長の座を追われたか知っているわ」
リアンセがすぐに殺そうとしないので、アウェアクは寿命が延びたと勘違いしたようだ。リアンセは続けた。
「その修道院長が本来の意味で善良で、他人の操り人形になってでものうのうと余生を過ごすことを良しとしなかったからよ」
「誰の操り人形だと言うのかね」
「トリエスタ伯オロー」
アウェアクは両腕で上体を起こし、ちょうど尻餅をついたような格好になっていた。腰が抜けて立てないようだ。
「トリエスタ伯の
接待
にはご満足だったようで」フルーレの切っ先がアウェアクの胸を向いた。
「小児に対する姦淫・殺人幇助、死体遺棄、および人身売買の罪、ここで
素早い踏み込みでフルーレがアウェアクの胸に沈んだ。深すぎず、浅すぎず、殺すのにちょうどいい刺しかたであった。
「シルヴェリア公女殿下は」
胸から溢れる血で刀身が汚れるのを見ながら、リアンセは無慈悲に告げた。
「この汚い者らの死を望んでいるわ」
※
アウェアクの死骸を残して、ウォルの町の教会堂から二つの人影が出てきた。人影は、そのまま正面玄関から正門を抜けて通りに出た。彼らは町を去っていく。リアンセの声が闇に残った。
「あと十七人」