邪悪の手
文字数 4,613文字
定時巡回と夜警の仕事を奪われ、自警団が暇になったかというとそうではない。団員たちは、どの部門であろうと関わりなく、自主的に街を出歩くようになった。
カーラーンは有無を言わさず、市民に軍を養わせた。市の金庫と穀倉はカーラーンが編成した部隊に管理され、街には兵が溢れた。
急激に増えた人口に対処できず、この三日というもの市場は早々に仕舞われて、商店は閉じた。入城門は閉ざされたきりとなった。見切りをつけた商人たちは、既に出場門から去っていた。
黄昏。雪雲が、夕日を吸って灰と朱に染まる頃になっても、コブレンの第二城壁内の市街には人があふれていた。けれど賑わっているわけでなく、人は壁に寄りかかったり、座り込んだり、抑えた声で弾まぬ雑談をしていた。そうして、兵士を割り当てられた憂鬱な家に帰る時間を極力遅くしようとしているのだ。
角という角に、歩哨が立っていた。それは市の中枢に近付くほど多くなる。
「嫌な感じだね」
レンヌが話しかけてきたので、マナは周囲を見回すのをやめた。この十三歳の少女はオーサー一門の門弟で、ミスリルとトビィに頼まれてマナと行動を共にしているのだ。語彙と口調をうつさせるためだという。半月のあいだに、仕草や表情もうつってきたようにマナは自分で思っていた。レンヌに微笑みかけるが、まだぎこちない。口を開く。
「仕方ないよ」
風が吹き付けて、レンヌの前髪を全て後ろに飛ばした。二人の上で、街灯に収まった天籃石が淡い光を宿した。街が暮れ始めている。レンヌの寂しげな微笑みで、自分が会話を終わらせてしまったことに気がついた。
「こういうことは、前にもあったの?」
「ううん、私が生まれてからはなかった。トビィ兄さんが言うにはね、五十年くらい前の戦争が一番ひどくて――」
その声が急に跳ね上がった。
「いけない! トビィ兄さんに毛糸を買ってきてって言われてたんだった!」
冬の衣料を
「お店、もう閉まっちゃったかなあ」
「明日にしようよ」
レンヌは首を振った。
「ううん。今日の夜か明日のお昼に使いたいって言ってたんだ」
「でも、帰らないと正門閉まっちゃう」
カーラーン入城の日から、特に未成年の団員は門限を厳守するよう言い渡されているのだ。
にもかかわらず、レンヌは重ねて首を振った。
「マナちゃん、ここから一人で帰れる?」
ふと不穏な予感を覚えたが、マナは「うん」と頷いた。
「ごめんね。先に帰って、私が少し遅れるって当直の人に話してほしいの」
「それはいいけど……」
「ありがとう!」レンヌは顔を輝かせた。「できるだけ、すぐに戻るね」
軽やかに駆けていくレンヌは足音をたてない。その点が、他の町娘たちとは決定的に違っていた。彼女が角を曲がると、その存在の余韻はすぐに風が吹き散らしてしまった。マナはしばし佇んでから、体の向きを変え、自警団本部のほうへ歩き始めた。
果樹園の労働者が、道の真ん中を背中を丸めて通り過ぎていった。
マナは彷徨うように歩き続け、木琴が聞こえなくなってから唇を開いた。木琴と同じ旋律が、詩を伴ってこぼれ落ちてきた。
『光ト音ヲ連レテ
地平カラ ソノ日ガ来ル』
何か涙を流すものが、天を覆うのを感じ、マナは顎を上げた。そこには何もなかった。だが天の悲しみの気配は消えず、路傍で足を止めて立ち尽くすマナの心を締め付けた。
『私ノ顎ハ 天ヲ仰ギ
口角ハ上ガリ 頬ハ緩ミ』
予感とは、このように、天からくる気配のことを言うのだろう。目を右に動かすと、窓辺で、美しい女が、陰気な顔をして俯いていた。
『サレド 黒イ 涙 流レ――』
その女が憂鬱で満たされているのを感じ取り、マナは歌をやめる。
予感が具現化したのはその直後だった。
「どうしてやめるのかね?」
しゃがれた声にただならぬものを感じ取り、マナは体を震わせて、急いで声のするほうに顔を向けた。
閉店した食堂のポーチに男が座り込んでいた。初老で、僅かに残った綿のような白髪が風に揺れ、今にもころころと飛んでいきそうだった。その笑顔は柔和で温厚で、そして邪悪だった。
後ろにもう一人立っている。黒いマント。黒いフード。そこから見える顎には髭を剃った痕がある。
歌流民だ。
マナは舗道を蹴った。道の真ん中へ飛び出し、人の流れを遮って突っ切り、市民の驚きの声と悪態を残して走り去る。
別の通りに出た。派出神殿があった。その教会堂の扉を細く開けて滑り込むと、ちょうど礼拝が行われていた。
このような事態でなかったら、教会堂に足を踏み入れることはなかっただろう。南西領神官大将が
中は満席で、立ち見も多かった。列柱で仕切られた側廊にも、親子連れや、労働を終えてまだ体も洗っていない市民がぎっしり詰まっている。顔は呆けたようで、それでいて賛美歌には熱がある。家に帰らず、このまま群れていられるなら、彼らは不安に折り合いがつくまで喜んでそうするだろう。
創造主を讃え、罪の赦しを願い、憐れみを請い、また讃え、そうしていながら彼らは教会の外の出来事を忘れようとする。けれど、外の出来事は、度し難い聖所冒涜のように礼拝所に入り込んでいた。
無伴奏の賛美歌がやんでも、一人、歌い続ける男がいた。
それは賛美歌ではない。
はじめから、その人だけは自分の歌を歌っていた。
『肌ノ光ノ 奈辺ニアリヤ
甘キ苦悩ノ 源ヨ』
月を求むる歌を。
一人、十人、二十人、三十人、視線の集まるところにその人はいた。黒いフードに黒いマントの、男性の歌流民が。そばには世話役の小柄な老人が寄り添うように立っていた。
『春ノ夜空ヲ 滑リ落チ
神官が咳払いをする。
「どなたですか?」
まだ若い、三十前後の男だった。彼は説教台に手をついて、会衆席に身を乗り出した。
「ここは創造主を讃える聖堂です。無軌道な振る舞いは
「何故あなたはそのようなことを言うのです」歌流民は歌い続け、世話役が笑みを称えて応じた。「一番ここにいる資格のない罪人はあなたではないですか」
神官は何か言おうとしたが、世話役は鋭い一言で遮った。
「あなたは妹を強姦した!」
離れていても、説教台の神官の顔から血の気が引くのがわかった。
「あなたは男と寝て、山羊と寝た!」
「でたらめなことを!」
ざわつき始める人々を押しのけて、マナは前へ、内陣のほうへと進んだ。世話役は声を張り上げた。
「そのせいで、あなたは勘当されて修道院に放り込まれた!」
嘘っぱちだ! 会衆席の男が叫ぶ。どういうことなの! 女が叫ぶ。事実無根だ、違う、違うと神官が叫んでいる。彼は勇敢にも、司式者以外立ち入り禁止の内陣を降りて、自ら会衆席の騒動を収めようとし始めた。
入れ替わりに、マナは内陣に駆け上がり、横手の狭い空間へと体を滑り込ませた。そこは
あれほどの騒動だ。すぐには追ってこないはず。そう思った。甘かった。鉱山の歴史博物館に差し掛かり、その玄関口まであと数歩のところでマナは凍りついた。
どうしたことだろう。あのマントの歌流民が博物館の
「行かないでくれぇ!」
何か叫んでいた――群衆の同情を引き、彼の元へマナを引き戻すための言葉を。誰かが追ってきた気がする。それも錯角だろうか。教会堂のあるほうは、思いもしない騒動に発展していた。路地を抜けると、目の前を、南西領陸軍の
神官が殴られたわ。女が言った。侮辱されたの。それから赤毛の女の子が香部屋に入り込んだの。私、見たわ。泥棒よ。グルだったのよ。
兵士が尋ねる。
どんな女の子だ?
マナは無視できなかった。通りの真ん中で足を止め、会話が行われるほうを見た。太った女と目があった。わずか二十歩ばかりの距離を挟んで女はマナに指を突きつけた。彼女の後ろでは、黄昏の雲は土気色に色褪せて、いよいよ避け難くも憂鬱な夜の到来を告げ知らせていた。
「あの女の子よ!」
弾かれたように振り向く兵士、その視線に押されるように、マナはよろめき後ずさり、後ろを向いて走り出した。
マナは自警団員たちとは違う。彼らほど街を
手探りで進む。その先の赤煉瓦は、岩塩の精製所の塀。
塀に取り付けられた木戸を手探りする。
不意に、手首に生温かいものが触れた。それが強くマナの手首を握りしめた。
息を詰めるのと、そのまま手首を捻り上げられるのが同時。
マナは声をあげて、居場所を知らせてしまった。
「痛い!」
黒いマントで暗がりと同化しながら、塀に沿って、男はマナを暗がりに連れ込もうとする。歌うときにしか声を上げず、物音も立てない歌流民が、どのような秘技でマナを見分けたのか――マナが、ただの人ではないと見分けたのか。
マナにはわからない。
ただ引きずられる。
腰を落とし、膝と足首に力を込めて踏ん張るも、靴底が舗道とこすれあうだけだった。そのじゃりじゃりした感触が、足の裏に伝わってきた。
連れていかれたら――どこに――マナは考える。月環同盟軍の――考える。しらを切る方法を。
どうしたら自警団を巻き込まずに済むの。
腰を落としたまま、肩を後ろに引く。掴まれていない左手が塀を探った。抵抗のとっかかりになるものは何もなく、煉瓦の目地を撫でるに終わった。歌流民の男がなお強く手を引く。
関節が外れそうになる。
「やめて!」
力が抜け、一気に前方へ引き寄せられた。膝が砕けて前のめりに倒れこむ。
その勢いで顔を上げ、見た。
左側の高い塀。右側の常緑樹の茂み。それを透かして僅かに届く、
見上げる相手の、フードに覆い隠されていない口。それを、誰かの掌が塞いだ。マナは目を見開く。声を上げることはできなかった。マナも、歌流民の男も。
男の口を封じる手の主が、反対の手で相手の首にダガーを刺したからだった。