残り十人
文字数 5,686文字
フクシャは、ミスリルから見れば治安の良さそうな都市であった。
深夜に喧嘩の声が聞こえるのは、喧嘩をしても真に凶悪な殺し屋たちに目をつけられる恐れがないからである。路地に死体が打ち捨てられているのは、死体を処理して隠蔽する必要がないからである。貧しい地区の住人が、富める者の地区から来る人間を襲うのは、貧しい者と富める者の共通の敵がいない証である。
夜更け、旅装の男女がフクシャの下町を歩いていた。肩を並べて歩く赤毛の青年とピンクゴールドの髪の女に、二人連れの男が因縁をつけた。周囲の暗がりから、別の男たちが沸いて出てきた。数分後、半死半生の有様で街路に打ち捨てられたのは、物盗りの男たちのほうであった。地球人の高級墳墓を取り巻く花の街で、二人の旅人は、丘の麓の地下霊廟へと道を進んでいった。
地下霊廟の入り口までは、高い壁の迷路になっている。その奥まったところに、地下水の水路がある。壁に設けられた獅子のレリーフが水路の起点となっていた。獅子の口から水が垂れているのだ。
両脇の
レリーフの下の水溜めの枠に、麻袋が置かれていた。
老婆の手が袋を取る。
中には固くなったパンの切れ端があった。地下霊廟の敬虔な管理人が、老婆を憐れんで、観光客の食い差しを置いていくのである。パンにはこれをかじった人間の歯型が残っていた。老婆の歯が歯型を上書きした。
彼女の歯は年の割には綺麗に残っていた。落ちぶれた身の上になって長いわけではないのだ。
「食べにくくはありませんか?」
突如降り注いだ声に、老婆は凍りついた。
冷たい声であった。
水溜めと老婆の後ろに、若い女が立っていた。全く気配を感じられなかった。松明の火さえ女の顔の冷たさを覆わない。女は腰に剣を帯びていた。
「お望みでしたら、温めたミルクをお持ちしますが。北ルナリア市長オドンナ・リュー」
最初のショックが解けるよりも早く、胸に諦めが広がった。老婆は無気力なため息をついた。
「シオンの戦いから逃げ出して以来、こんな所にいらしたのですか」
市長はパンを袋に戻しながら、できる限り優雅に尋ねた。
「誰が密告したのかしら?」
「私たちはどこにでもおります」
「陸軍情報部ね」
「リアンセ・ホーリーバーチ中尉と申します」
「それを知ってしまった私はもう長く生きられないのでしょう」
立ち上がるのも億劫とばかりに、標的は壁にもたれて座り込み、リアンセを見上げてきた。リアンセは少しばかり面食らった。相手が顔を布で覆っていたからだ。汚れた布地の間から、両目だけ露出していた。
「結構よ。私は今のまま生きていたいとは思わない。だけど拷問するのは勘弁してちょうだい。耐えられる体じゃないのは見てわかるでしょう?」
「あなたが北ルナリアに帰れなかったのは、副市長に狙われていたから。そうですね」
リアンセは本題に入ってやった。
「そうよ」
「違うね」
レリーフがある壁の後ろから、今度は男の声がした。
「コブレン自警団から三人の団員を呼び出した時点で、あんたは副市長ジェレナク・トアンに実権を奪われていた。そうだろう」
老婆の両目に、やっと強い感情が現れた。
羞恥、そして憎悪。
オドンナは声を震わせた。
「姿を見せてくださる?」
警戒しながら、ミスリルは要求された通りにした。オドンナはミスリルの顔をじっと見て、それから目を伏せた。
「顔を見せたらどうだ。俺たちに隠す理由はない」
「肌を覆わせていてくださる? 今夜はひどく冷えます」
「北ルナリアほど寒くはないと思うがね」
訝しく思いながらも、皮膚病なのかもしれない、と、ミスリルは思い直した。心の中では、アエリエとマナのことがずっと気になっていた。本当はあの二人もこの場にいるはずだったのだ。なのにペレとクロヴァーを殺した後、あの二人は姿を消した。暗号も残さずに、消えてしまったのだ。
二人がどこに行ったか知りたい。
だが、今することではなかった。
「私たちはあなたを殺しに来たのではありません、リュー市長。むしろあなたを庇護することもできる」リアンセはすぐばれる嘘をつきながらカマをかけた。「ただ、あなたもご存知のある実験の成果が、コブレンで出たようです」
「星獣の件ね」
「順を追って伺いたいのですが――」
オドンナは白内障にかかっていた。松明の明かりでも、はっきりそうとわかった。
「聖遺物自体は単純なものです。ただの箱ですよ」
「箱?」
「ええ。地球技術の産物ではありますが、摩耗せず、私たちの文明では破壊することができない。ただそれだけの箱です」
「ある種の聖遺物は、言語生命体を消すようですが」
「セイレーンのように?」
生徒をあやすような口調になった。オドンナの前職は北ルナリアにある学校の学長だったのだ。
「そうね。確かにああした類のものは言語生命体の体を操作して、ほどいて消してしまう。だけどそんな物騒なもの、居住地域であるこの大陸に存在するはずがないではありませんか」
「住人が消えたと、いうのは?」
「消えたことにするくらい簡単です。何なら関与した住人を、実際に彼らは消えてしまったのだと思い込むように洗脳することだって。例えばシオネビュラの神官たちも、とうに関係した住人を見つけ出し接触しているはずですが、彼らならこう考えるでしょう。何故そういうことにしたいのか、と」
「あなた方が実際に人間を消したかったからでしょう?」一か八かの賭けに出た。「星獣にするという形で」
リアンセは賭けの勝利を確信した。オドンナが深く頷いたのだ。
やはり、そうだったのだ。
リジェク神官団と北ルナリア市の有力者は、協力してヒト型言語生命体を作りかえる技術を完成させた。
本当に完成させたのだ。
そして、それこそが、消えた住人たちの末路なのだ。
心震わすリアンセの隣で、ミスリルが冷徹に問いかけた。
「箱の中身は何だ?」
リアンセは息を呑み、我にかえる。
「神官団の秘儀を用いれば箱は開けられる。リジェクの神官は見たはずだ」
「書状だと聞きました。内容は知りませんが、囲いの大陸を去った後の地球人の行き先を示唆する内容だったと」
「何故その内容で、奇想家のセレスタ・ペレが召喚されたのかしら」
「あの子も死んだのね」オドンナには何の感慨もなさそうだった。「面白いことを考える子だったわ。何かと不器用だから賢そうには見えなかったけど、嫌いじゃなかった」
「彼女が死んだのは、リジェク神官団の研究から足を洗うのを拒んだからです」
「妹を人質に取られていましたもの」
自分にも妹がいることを、リアンセは意識しないようにした。
「私たちは何故私たちなのか――何故、数ある言語生命体の生物種の中で、ヒト型なのか。あの子の疑問はそこから始まった。うんと小さなときに。なんていうか――どうしようもない事実に対する興味の強い――言ってしまえば宗教的な方面に傾倒しやすい気質の子だったけど、地球人に押し付けられた信仰は、あの子には合わなかったのね。あなた、ちょっと顔を上げて、夜空を見てくださる?」
罠かもしれないので、リアンセもミスリルも従わなかった。
「……まあ、いいわ。天球儀があるだけですものね。そう。天球儀の話をしたかったの。
あれは、庶民が唯一いつでも自由に目にできる聖遺物。見上げる
「天球儀を見上げて愛を感じたことは一度もないわ」
「そう。あれほどの構造物に対して、私たちは愛も、何も感じません。天球儀には他にも様々な意味と解釈の可能性があったのに」
「神官団が異端として取り締まらなければな」ミスリルが憎々しげに口を挟んだ。「新しい解釈や意味づけの余地自体はあったさ」
「それは遥かな過去に地球人も通った歴史の道です。地球人たちは、様々な宗教的な象徴を有していたにも関わらず、使い古すうちにその意味を、味のしない、貧しいものにしてしまった。その後にすることは私たちと同じです。為政者や聖職者たちが、社会的な思想を吹き込んで利用するのです。民衆は操作され、反動として様々な異端思想が湧き出して、一部の民衆を獲得し、争いが起こる」
ミスリルは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「セレスタは、何も天球儀に新しい意味づけをしたかったわけではないの。新しい異端を起こすよりも面白いことがあったわ。リジェク神官団は彼女に好きなだけ勉強をさせてあげた」
「人間を星獣にすることが面白いこと?」
「あの子は星獣の流通と未来を見通すための人文研究に取り組みたかったの。確かに、何も知らなかったという言い訳は通用しませんね。私が弁護をしたところで虚しいことでしょう」
風が吹き、埃を巻き上げた。
「人間を星獣兵器に作り変え、戦場に投入する……」
オドンナが咳き込んだ。それが
「でもそれは、ヒト型言語生命体のアイデンティティの足場を揺るがす実験でもあり得るわね。人は混乱するわ。私だって混乱したい。『言語生命体は、私たちは、人間ではない。何者でもなかったのだ』と」
ミスリルが尋ねた。
「で、その動揺を覆い得る思想がセレスタ個人の頭から出てくると?」
「そもそも彼女が呼ばれた理由は、浚渫工事で見つかった文書に関係しているはずです。私はその内容を知らないけれど、どこかで引き返せなくなったってことはわかるわ。彼女にとって不幸なことに、リジェクの神官たちに認められてしまったのね。最後に会ったとき、彼女は本当に嫌気がさしているみたいだった。研究の副産物でリジェクが不当に儲けていると」
「その副産物とは?」リアンセがすぐに突っ込んだ。「薬物では?」
再び強風が吹いた。体を覆う布切れの中で、オドンナが小柄な体をさらに縮こませる。
「寒さが堪えるようね」
風が止んでから、リアンセは毛織のショールのボタンを外した。脱ぐと、背中と肩が一気に寒くなった。
「どうぞ、使ってください。その粗末な布切れよりも、これを首と頭に巻くといいでしょう」
「結構よ。ありがとう」
「その布は布目が粗い。風が通って寒いでしょう」
「あなたは私を殺すでしょう? せっかくのショールを血で汚しては申し訳ないわ」
「脱ぎなさい」
その鋭い命令口調に、オドンナは
「あなたはそれを脱ぎたくないんじゃない。脱げないんでしょう、オドンナ・リュー。当ててあげるわ。あなたの皮膚はもう、人に見せられる状態じゃないのよ!」
驚きに息詰めるミスリルの前で、リアンセはオドンナの顔を覆う布の、耳のあたりを引っ摑んだ。オドンナも布を掴んで対抗したが、リアンセが左手のダガーで切り裂くと、炎の下に、オドンナの老いた顔が露わになった。
やはり、という思いでリアンセはその顔を見下ろす。ミスリルがせわしなく瞬きながら、松明を手に取って、オドンナの顔を照らした。
顔は、もとの
「あなたが達観しているのは、私が殺すまでもなく、この症状に覆われて死ぬからでしょう」
オドンナはまだ、切り裂かれた布で顔を隠そうとしていた。リアンセは無慈悲に布を剥ぎ取った。打ち捨てられた布は、次の強風で埃とともに道を転がっていった。
「全ての恐怖は――」オドンナが呻く。「自己の不在への恐れに根ざすわ。自分がいなくなってしまうこと。すなわち死。だけど私たちが生きながら不在であればどうかしら? ねえ、聞いて。私たちは」
オドンナが鋭く息を吸い込む。
叫んだ。
それは歌だった。歌? いや、叫びだ。何故歌だと思ったか、リアンセは跳びのきながら自問する。確かにオドンナの叫びには奇妙な抑揚がある。抑揚があるだけだ。だが――。
不思議と歌に聞こえるのだ。
ある感傷が胸に込み上げてくる。ある情景――。
そのおぼろな印象は、げっ、という、呻きとも悲鳴ともつかぬオドンナの声でかき消された。
何かが
彼女の胸に深く沈む
それが飛来した方向へ、顔を向けた。
弩の射手は、かろうじて容貌を確認できる距離を挟んで、
男だ。
男の真横には、松明が燃えており、その体格、彫りの深い顔立ちと、静かで鋭い眼光、
リアンセが一歩踏み出すと、男は
「待って」
一本の三つ編みにした髪が揺れるのが、リアンセの目に焼き付いた。
「――待ってください!」
追って走り出すと、ミスリルがついてきた。迷路は暗かった。水の音が壁に反響し、方向感覚を奪った。
ミスリルがリアンセを追い抜いていく。だが、ミスリルにはあの男を捕まえられないと、リアンセは予感した。
「待ってください!」
聞き入れられぬと知りながら、リアンセそれでも聞こえるはずと信じて呼びかけた。
協力を得られるかもしれぬと思っていた相手に。
「マグダリス・ヨリス少佐!」
しかし、落胆とともにオドンナの亡骸の元に戻ってきたリアンセは、彼女の歌を遮り命を奪った矢から、ヨリス少佐の意図を見出すこととなった。