私も都に連れてって
文字数 3,116文字
山を降りての仕事は特別だ。年に一度あるかないかという頻度だが、様々な珍しいものを目に映す唯一の機会だった。一度町に出れば、山に戻った後も、氏族を出て普通の娘の生活をするという空想に潤いを与えて過ごすことができる。
声変わり前に都を訪れたことのあるエルーシヤは、物と色彩に溢れたグロリアナが、それでも南西領内ではごく小さな田舎町に過ぎないことを知っていた。しかも大伯母の
そこに張り、聖遺物の匂いを嗅ぎつけろとのことだった。
少女の心は大伯母への反抗心でいっぱいだった。
大伯母様は、私が都に憧れていることを知っている。それでこの仕打ちだわ。
それでもグロリアナの村で、顔を黒塗りにし、黒いマントを目深に被り、エルーシヤは氏族の仲間と歌った。他にどうしようもないからだ。
心に浮かぶ像をすくうこと。これが歌流民の秘技。言語生命体の集合的な無意識の奥、太古歌の領域に、歌で語りかける。
失われた物はどこですか?
まずは自分自身の意識の底からがらくたが浮かび上がるが、目をとられてはいけない。深く心に潜るのだ。それでいて、眼前の物質世界に目を凝らし、いかなる異変も見落としてはならない。特に、この歌に共鳴し、たじろく者はいないか。この歌が聞こえていようといまいと、予感を受け、天を仰ぐ者がいないか。
聖遺物は、言語生命体にとって尋常ならざる力を秘めている。同じく尋常ならざる力を持つ歌に、呼応しうるかもしれなかった。それが、ただの物質ではないのなら。
村人は、歌流民を嫌って家に閉じこもっていた。櫓の上の見張りたちは、耳を塞いでいた。
エルーシヤは林に目を注いだ。村から離れていく道に、旅路を急ぐ六人の男女を見つけた。一頭の騾馬と、一頭の大型犬を連れていた。エルーシヤは、そのことを、誰にも伝えなかった。
仕事の手応えがないまま、夜を迎えた。世話役の交渉によって、一行は村に泊まることになった。
『いつまで?』
エルーシヤは、兄のような青年に絵ほどきで尋ねた。歌流民の意思伝達方法は文字、指組み、絵ほどき、歌語りだ。後にいくほど高度な意思伝達が可能となり、高位の歌い手はもはや歌以外の何も必要としない。大伯母がそうだった。いるだけで、そのものが、意思なのだ。
黒い顔料を落としたばかりの兄貴分は、三つの太陽を指差して笑う子供を、指で砂に描いた。
『しばらくはいることになるな。依頼人は高位の聖職者らしいんだ』
エルーシヤは糸に絡められた人を描く。
『粘り強いタイプ?』
『ああ。叔父貴から報酬の配分を聞いただろ? この依頼に目玉が飛び出るような金をかけてきてる。諦めは悪そうだ』
『こんな仕事、いやだ』絵を描くのも面倒になり、エルーシヤは指組みで伝えた。『都に行きたいなあ。都じゃなくてもいいや。私、都会ならどこでもいい』
『お前はいつもそれだな』
地べたがむき出しの掘っ建て小屋に座り込んだ兄弟は、失笑し、歯をむき出しにした富豪の絵を布の靴で踏み躙って消した。
エルーシヤは眠った。夜中に目が覚めた。小用を催したのだ。掘っ建て小屋の地べたに麻を敷き、兄弟たちと世話役たちとが疲れて眠っていた。エルーシヤが起き上がると、誰かがいびきを止めたが、気を遣ってか、声はかけて来なかった。
掘っ建て小屋から遠ざかり、茂みに身を隠し、エルーシヤは天球儀の網目を透かして細い三日月を見上げた。着衣を整えて立ち上がると、正面に光るものを見つけた。移動する
こんな夜中に、誰かが林の奥へ移動しているらしい。
どこへ?
山の夜は己の手も見えない闇。天籃石の光が届く分、平野の夜はエルーシヤには幾分易しいものだった。光を慎重に追跡しだしたのは、生来の好奇心ゆえ。奇妙な生活様式と、それに育まれた独自の感性ゆえ、人は歌流民を嫌う。だがエルーシヤは普通の娘だった。感情があり、繊細な心があった。自分を取り巻く奇異の視線や窮屈な山暮らしから逃れられるなら、どんな機会でも逃したくない。とりわけ、自分を成長させてくれる機会は。
やがて、闇の底、平野に、天球儀の光によって小屋の影が浮き上がった。石の光は外れかけた戸から中へ入っていった。
「ひどいもんだ」
追いついて、戸口に体を張り付かせると、若い男の声が聞こえてきた。続いて少女の声。
「どうしましたの」
「足跡を辿ってみたんだ。死体が掘り起こされていた。痕跡が真新しいから、直前までこの小屋を使ってた奴らの仕業だと思う」
「その方々が、
「わからない。殺したのなら掘り起こす必要はないし、殺してないなら死体の場所がわかった理由がわからない。動物を連れていたなら別だけどな。犬とか……」
すかさずエルーシヤの頭に浮かんだのは、夕闇に見た六人の男女の姿。
林の中を歩む彼らは、犬と
ふと体が力み、戸板を押してしまった。
「『月』は再生しないままか?」
慌てて体勢を直す。少女が答えた。
「はい。リージェスさん、やはり……」
「……やはり?」
「コブレンに忘れてきてしまったのかもしれませんわ。『月』の欠片を――」
少女の声が、「誰!」という叫びに変わった。二人の視線が体に突き刺さった。青年が立ち上がり、剣を抜く。
先ほど、自分で思った以上に戸を押してしまったらしい。室内の二人からエルーシヤの姿は丸見えになっていた。
※
『都へ行くのなら、私も連れて行って』
水で喉を潤すと、肌寒い部屋に沈黙が満ちた。それを気の抜けた声で破ったのはハルジェニク。
「それで?」
「リージェスたちはその子を連れて都に入ったわ。彼らには北方領で作られた旅券があったし、エルーシヤには歌流民の割符があったし」
ね、と顔を向けられて、エルーシヤはニコニコしながら頷いた。
「それから私のところに来たの」
「なんで?」
「陸軍の徴募窓口ならどこにでもあるもんね。士官との面談を望んでるって、面談担当の軍曹が言いに来たから、私が出たの。それで、北方領から聖遺物を運んできたから陸軍本部に内密に繋いでくれって言われたんだ。私が関与したのはそこまで」
「お前は何か知ってるんじゃないか?」
ヴァンに水を向ける。答えは期待はずれだった。
「なんにも」
「でも、お前はヨリス少佐に俺のことを知らされてたんだろう。その上で俺とプリスを繋いだ」
「偶然だよ。俺がヨリス少佐から君のことを知らされたのは市街戦のどさくさの
「どうしてあの少佐は俺のことをお前に話したんだ?」
「だって、君は少佐に協力したじゃない。助けてあげたかったんだと思うんだ」
その言を素直に受け止めたものか、ハルジェニクは困惑したが、今は受け止めておくことにした。
「案外義理堅い男だな」
ヴァンは微笑むが、それで心が和らぐでもなかった。
「これから冬だね」
プリスが話題を変えた。
「それがどうした?」
「コブレンの日輪連盟がどう冬を越すのかも気になるけど、都の暴動もこの調子で続くかなって。続けるつもりなら、もう一騒動あると思うんだ」
「例えば、どんな?」
「うん。例えばね、外からの情報が少なくなって、みんなの気持ちが同じ一つの関心ごとに向かうとき」
「そうか! 年末の」ハルジェニクは繰り返し頷いた。「星獣祭だな」