飛翔
文字数 4,854文字
倒れ伏し、血を流し続ける男をマナは見つめた。首に開いた穴から吹き出す血は、彼のマントの襟元をいっぱいにしてから地面に漏れ、脈打つようなリズムで半円に広がり始めた。それが
男の後ろに立ち、首に穴を開けたのはミスリルだった。マナが顔を上げると、さすがにまずいと思ったのか、一言呟く。
「やっちまった」
暗くて表情はわからないが、愉快な顔はしておるまい。とにかく彼は死体をまたいでマナの前に来た。
「立てるか」
手が差し伸べられる。マナは頷き、手を借りながら立ち上がった。
「どうするの」
「どうもこうも。誰にでもわかるさ。
「偽装できない?」
人間の脳、少女の脳で、それは自然に思いついた。ミスリルの返事はこうだった。
「時間の無駄だ」
ミスリルはダガーをしまい、右手を服で軽く
「どうして私の場所がわかったの」
定時巡回をやめたのが、今はむしろ幸運だった。街をうろつくにあたり、彼は目立つ自警団のマントを身につけていなかった。ミスリルは煉瓦の塀に沿って走りながら、押し殺した声で教えた。
「レンヌに会った。それから歌流民が関わったらしい派出神殿の騒動だ。でもってこの通路は俺がこないだ教えたばかり。簡単だろ?」
簡単ではなかったはずだ。騒動に気付いたときの彼の心境を思えば。
「ミスリル」マナの手を引く力にも、彼女を転ばせないようにという気遣いがある。初めて胸が痛んだ。「ごめんなさい」
「後にしな。まだ世話役が近くにいる」
前方、ミスリルの背の向こうに明かりを感じた。通路の出口だ。塀と常緑樹の途切れるところに人影が躍り出て、手を上げ、ミスリルにサインを送った。
ミスリルと、アエリエと、テスと。四人でトレブ高地を旅した日々。満天の星の下で、ミスリルが教えてくれたこと。
『今なら敵はいない』のサインだ。
人影は女で、長髪を高く結い上げている。
アエリエだった。
彼女はマナを見、無事だけ確かめた。余計なことは言わなかった。
「こっちよ」
再び路地に飛び出した。太陽はまだ、西の山並みに沈みきっておらず、ちょうど雲の薄くなっているところに、狙いすましたように光を射かけていた。精製所の壁に沿って曲がる。通りの騒動に少しだけ近くなった。どうしてだか、騒ぎは大きくなっている。火事場泥棒が仕事を始めたのだろう。
若い男の哄笑。
「終わりだよ! この街は終わりなんだ! 焼かれて終わりだ。ハハッ! ざまあみろ!」
それを聞きながら、アエリエが飛び上がる。塀が崩れ、低くなった箇所があった。そこに手をかけ、塀を蹴って軽やかに上る。
兵士がうんざりした声を張り上げていた。
「家に戻れー。用のない市民は家に戻るように。おい! 邪魔だ!」
ミスリルがアエリエに続く。
女が半狂乱になっていた。
「ねえ! お金を落としたの。お願い、一緒に探して。明日のパン種のお金なのよ!」
ミスリルが、路上に残るマナへと手を差し伸べてきた。塀の上は狭く、人を引っ張り上げたりしたら、ミスリルが反動で向こう側に落ちてしまうのではないかとマナは躊躇った。だが、苛立つように手を振るミスリルを見て、結局その手を掴んだ。
ミスリルは塀から落ちたりしなかった。途中からアエリエも協力し、マナが膝と爪先で塀を蹴りながらよじ登るのを助けた。ミスリルに右手を、アエリエに左手を握られる形で塀に上ったときだった。
路地に、世話役の老人が現れた。
塀の上の三人に気付くことなく、何かを探しながら、眼下を悠然と歩いている。
「あの人」ミスリルに囁くマナの声は、思いがけず上ずっていた。「あの人が世話役だよ。私のことに気付いてる」
塀の上に屈み、張り詰めた横顔を見せてミスリルは頷いた。赤茶の瞳が空の残光を反射していた。手で言う。
『先に行け』
彼が何をするつもりなのか、マナにはわかっていた。アエリエに導かれて精製所のスレート屋根に乗り移る。幸いにも、その斜面をよじ登るのに精一杯で、マナは二度目の殺人を見ずに済んだ。
マナとアエリエが三角屋根の真上に消えてから、ミスリルは眼下に注意を向けた。ダガーを握りしめ、老人が自分の真下に来たとき、飛び降りた。痩せた体にのしかかり、口を塞ぐ。突き倒して老体をクッションにしたときにはもう、ダガーは老人の首筋に沈んでいた。
「ミスリルさん?」
驚きに彩られた声。
少女の眼差しが、死体のそばで膝立ちになるミスリルに注がれていた。
レンヌだった。
何の言い訳ができよう。ミスリルは老人の首からダガーを抜く。立ち上がり、振り切るように仲間に背を向けた。
「待って!」
その叫びを残し、塀に上った。屋根の縁に手をかけてマナとアエリを追う。二人は倉庫街の井戸端にいた。夜警に際しての非常時の集合場所だった。
ミスリルは木陰の井戸に飛び降りた。アエリエに一言、「レンヌに見られた」
押し殺した声で告げるや、影を縫って走り出す。
都市を隔てる第二城壁の方向へ。
「どうするつもりなの」
建物の陰に背を貼り付けて立ち止まり、周囲を警戒するミスリルに、アエリエは追いついて尋ねた。
「もうコブレンにはいられない」
アエリエは呼気を消していた。冷静に受け入れてくれているようだった。
「どういう手段か知らないけど、あいつらにはわかるんだ。探してる『月』の居場所がわかる。なんであいつらが殺されたか同盟軍には必ずわかるし、すぐに次の歌流民を入れてくるし」
「言わないで」静かだが、有無を言わせぬ声でアエリエが遮った。「言わなくてもわかるわ。だから」
「アエリエ」
目玉を動かして、傍らのアエリエを直視した。妹分。浮浪児のアエリエがコブレン自警団に保護されてきたとき、ミスリルは八歳だった。それからずっと守ってきた。あまりに弱々しく見えたから、彼女のためにできることは何でもしてやりたかった。
なのに今、アエリエに守られたいと、ミスリルは願っていた。
アエリエの白い肌に、自分の視線を焼き付けていく。口を開いたとき、自分でも思わぬことに、声は震えていた。
「一緒に来てくれ」
手持ちの金はない。衣服は今マントの下に身につけているものが全て。食料もない。アエリエは自分の武器を持っていない。自警団の標準装備品のダガーと
物を取りに戻ることはできない。
頷けば、今すぐに、冬迫る城壁の外に出ていかなければならない。
だが、アエリエはミスリルを許した。
「行くわ」
安堵とつらい気持ちとが、同時に来た。アエリエの後ろからはマナが身を乗り出して見上げている。その視線を受け止めた。
「お前のせいじゃない――」
顔を、通りへと向けた。
「行こう」
「どうするの」
「果樹園横の
光の残る大通りを横切った。もう騒動は聞こえない。死体は見つかっただろうか。走る。右手に果樹園の高い柵。葉を落とした梨の低木が、黒い影になって絡みあっている。前方に葡萄棚が見えてきた。
右手の会議所の壁に沿って角を曲がり、目的地にたどり着く。
狭い路地。
暗殺者たちが使う入り組んだ迷路の間道に通じる扉の前。
そこにトビィが待ち構えていた。
巡回の自粛を求められていたにもかかわらず、自警団の黒いマントを羽織っている。左の脇に長い柄を挟み、先端に槍の穂と月牙をつけて足に向けていた。足許には赤目が控え、いつになく張り詰めた空気に神経を尖らせている。
ミスリルも、アエリエも、動かなかった。トビィが真顔で、二人が何を決意したか、すでに悟ったふうでいるからだった。
「逃げるんだね」
低い声で確かめられ、ミスリルはアエリエとマナの前に立ちはだかった。気配を探る。ミスリルの右手はわずかに浮き、止まった。
「迷うんだ」すっ、とトビィが足を前に出す。「その手は武器を抜こうとしたんだよね?」
そして、驚いたことに微笑んだ。
トビィは自ら狭い道の隅に寄り、槍の穂で路地の奥を指した。黒光りする柵状の扉が、地下間道への通路を塞いでいた。
空気が軽くなる。
「行きなよ」
と、優しい声が言った。戸惑い、警戒し、ミスリルは動かない。
「どうしたの? 逃げるなら早くしなきゃ」
「お前――」
マナの手を引くアエリエが、ミスリルを押しのけて前に出た。
「どうしてなの、トビィ?」
「今が最善のタイミングだと思うから。その子を外に逃がすのに」
「俺たちは自警団を裏切るんだ。お前、俺たちを追いかけろって命令されることになるぞ」
「まだ命令されてないよ」
「そうだけどさ……」
「行って」と、もう一度柄を動かして扉を指した。「ミスリル、その子は本当に君にそっくりだね」
「娘だからな」
「後になったら、自警団は君からその子を奪う決断をするかもしれない」
「トビィ、お前はそれでいいのか? 本当に?」
「早く。アズが来ちゃう」優しい口調と裏腹に、目は笑っていなかった。「俺がしてることを見られたくないよ。兄弟喧嘩は楽しくないからね」
今度もまた、アエリエが先に動いた。間道の扉に駆け寄って、閂を外す。
「トビィ……ありがとう」
「やめときなよ。後で地の果てまで追いかけ回すことになるかもしれないからね」
いつもの減らず口。
これを聞くのも最後かもしれない。
または、最悪のタイミングでまた聞くことになるかもしれない。
ミスリルにはわからない。この先待ち受けるものが何か。
何も言わなかった。後ずさってトビィから離れ、そのまま間道に入り込むと、扉を閉めた。トビィの姿が柵の向こうに閉ざされた。アエリエが闇の中から促す。
「ミスリル」
ついぞトビィに背を晒し、ミスリルは足音の一つも立てずに駆け去っていった。その後で、トビィは音もなく扉に歩み寄ると、長い指で閂をかけた。
間道は複雑に入り組み、深部には迷い込んだ暗殺者、暗殺された暗殺者、その残骸が転がり、ネズミがたかっている。アエリエが持っていた天籃石の裸石一つで、外に通じる遠回りの道を進んだ。最短の道は不衛生で、マナには危険が多すぎたからだ。
地下道は秘密の扉で坑道に連絡される。遠い昔、コブレンで攻城戦が行われた際に、攻囲軍が掘った坑道。それはとうに埋め立てられたのだが、埋め立て業者をコブレンの殺し屋たちが買収し、別の道を掘らせたのだ。
数百年前の技術で補強されているとはいえ、這って進まなければならない箇所もあり、石や錆びた刃物の残る通路は安全ではない。
そのうち、壁をシダが覆うようになった。つまり昼には外の光が届く場所まで来たということだ。
伸ばした腕が外気に触れた。ミスリルは一気に通路の外に這い出た。その後にマナが、最後にアエリエが出てきた。
大きな岩の陰にある通路は、知らない人間には自然の洞窟にしか見えないだろう。岩の後ろからよろめき出て、三人は山の中で息を切らし座り込んだ。
葉を落とした木々の向こうに雪雲が明るかった。三人は打ちひしがれたように黙り込んでいたが、やがて、最初にミスリルが立ち上がった。
「行くぞ」
その低い声に、熱い力を感じ取り、アエリエは顔を上げる。
「どうするつもりなの?」
「まず山を下りよう。お前の武器を買って、マナの替えの服も必要だし、それと食料も」
「それから?」
「あのふざけた二人組を」
アエリエが立ち上がると、ミスリルは顔を空に向けた。厚くかかる雲。その向こう、きっと月のあるほうへ声を飛ばした。
「リレーネとリージェスとやらを見つけ出す!」