超人なれど人であり
文字数 4,682文字
シルヴェリア・ダーシェルナキにまつわる人物として、彼女を盲目的に愛する弟カーラーン、嫌う妹エーリカの他に、忘れてはならない人がいる。
「『歩く殺戮装置』と呼ばれているのはそなたか」
マグダリス・ヨリス少佐である。
彼は二十九歳で佐官昇任試験に合格し、半年後に職業兵士ばかりを集めた精鋭歩兵部隊、高難度の軍事作戦に投入される強攻大隊の指揮官に任命された。
以来、数々の武勲にも関わらず昇進していない。
いろいろな理由で誰もヨリスを強攻大隊隊長の椅子から動かしたくないからである。
「左様でございます」
シルヴェリアの前に片膝をつくヨリスは、余計な言葉を何一つ付け加えることなく事実だけを答えた。そのように噂されていることを知っていたからだ。シルヴェリアのほうは、当時十八歳。
そして、
「ヨリス少佐。そなたの武勲は既に生きた伝説となり、何が嘘で何が事実か私にもわからぬほど。新任少尉時代、わずか十一人を率いて敵地の城壁で中隊規模の包囲を突破したと聞くが事実か?」
「事実でございます」
シルヴェリアはニヤリとした。飾らない受け答えかたと漆黒の目が気に入ったのである。
「立て続けに十六人に決闘を挑まれ、一人で無傷で切り抜けたというのは事実か?」
「はい」
「槍を持った神官兵五人に取り囲まれ、ナイフ一本で皆殺しにしたというのも事実か?」
「いいえ」
おや? という顔をするシルヴェリアに答える。
「六人でございました」
この会話はシルヴェリアの就任式が行われた直後のパーティーの席でのこと。わざわざ呼び出し、跪かせたヨリスの首にシルヴェリアは官給品のサーベルをあてがった。
軍服の詰襟を避け、首の露出する場所に刃を当てる。
あとわずかに力を込めれば、血が流れる。
「そなたほどの
パーティーには師団の全ての士官が出席していたが、全員が
「お命じとあらば、すぐに」
ヨリスの直属の上官の連隊長は、顔面蒼白になってワイングラスを落とした。
「……面白い」
シルヴェリアのサーベルが動いた。もちろん部下の首を斬ったのではない。鞘に納めたのである。
「戦場にあるときは、そなたは私に命を預けよ。そうでないときには、私がそなたに命を預ける」
これが、第一公女シルヴェリア・ダーシェルナキとマグダリス・ヨリス少佐の邂逅であった。
シルヴェリアの師団長就任一年目、領内の小さな村で異端の武装勢力が一つの村を占拠する事件が起きた。強攻大隊が出動し、たちまち制圧すると、ヨリスは敵を一人を残して皆殺しにし、残った一人に指揮官の首を彼らの本拠地まで持ち帰らせた。
当時ヨリスは三十三歳。
「ああ、この人は、うん」人事部隊の担当者はその所業に困惑を覚え、「今年の昇進はちょっと見送ろう」
シルヴェリア就任二年目。その年は比較的平和でヨリスが悪目立ちする機会もなかったため、一年彼の人間性を……良いところも悪いところも……見ていた人事担当者も、そろそろ態度を軟化させようかと考えていた。その矢先、強攻大隊所属の士官が女性をめぐるいざこざで他の部隊の兵士を殴るという事件が起きた。
「リッカード中尉」
叱責処分が下った部下を、ヨリスはこう叱責したらしい。
「人に暴力を振るっていいときは殺すときだけだ。よく覚えておけ」
「うん」人事はこう判断した。「この人はもう一年様子を見よう」
「今年も昇進しなかった……」
カーテン越しに朝日が降り注ぐ寝室で、ダブルベッドに仰向けに横たわり、ヨリスはしみじみ呟いた。実はナイーブなのである。同じベッドには別姓の妻ユヴェンサ・チェルナー上級大尉がいて、枕に頭を乗せたまま顔にかかる髪を掻き上げると、同情を込めずにこう言った。
「あなたまだ気にしてたの?」
「気にしないわけにはいかないだろう。もう俺一人の問題じゃない」
「強攻大隊の隊長がハマり役すぎるのよ。私はいいことだと思う。誰にでも務まるものじゃないし……」
口で言っても心に届かないことを察し、ユヴェンサは一度言葉を切り上げた。
「……それに急いで出世しなくたってお金のことなら心配ないし」新婚の二人はこれから家を買うつもりでいた。「昇進が遅いなんてことも全然ない。むしろ少佐に上がるのが早かったんだから」
ヨリスは返事をせずに起床した。師団司令部に出勤すると、朝一番でシルヴェリアから呼び出しを受けた。曰く、総督シグレイ・ダーシェルナキが、南西領総督家の親衛隊を組織する。自分は師団長の座を下りるが、ヨリスを引き抜き、新設部隊の立ち上げに協力してほしいと、シルヴェリアは願った。
「そなたは私生活の面での変化も大きく、負担も相当のものとなるであろうが、部隊の立ち上げが成功したのちには人事部隊に働きかけ、そなたを親衛隊の一個連隊の隊長に、官位もその座に
「まことでございますか」
シルヴェリアはヨリスが気に入っていた。意外と人間らしいところが気に入っていた。しかもこの男には、外見や立ち居振る舞いの印象からは想像もつかない欠点があった。
字が壊滅的に汚いのだ。
※
「シルヴェリア殿下から拝領したリストの内、既に一人は死亡が確認できてるの」
『創世潰し』を始める直前、リアンセは草原にくつろいで座り、焚き火を挟んでミスリルに話した。ミスリルは雑草を適当にちぎって焚き火に投じる。
「へえ」
「殺されたのはダリル・キャトリン少佐。都での蜂起の夜にどさくさにまぎれて殺されたわ。元総督夫人パンネラ・ダーシェルナキとの接触がある人物だから、最後のほうまで残しておきたかったのだけど……」
「誰が殺したんだ?」
「マグダリス・ヨリス少佐。キャトリン少佐の同期で腐れ縁の間柄」
「そのヨリス少佐っていうのはどういう奴なんだ?」
「歩く殺戮装置」
「は?」
「歩く殺戮装置」
焚き火がはぜる。
ミスリルが真剣に聞く姿勢になったので、リアンセは
「蜂起の夜、グロリアナ地方で蔓延する薬物の調査を請け負っていたヨリス少佐は、リジェク神官団の協力者にキャトリン少佐が含まれていることを既に知っていた。
陸軍宿舎が包囲され、総督公邸を含む都の中心地が炎上する中彼はキャトリン少佐にちょっと事情を聞きに行こうと思い立ち」
「暇人かよ」
「キャトリン少佐の百人の兵士をたった一人で斬り伏せて警護を突破し、その勢いで少佐を殺害」
「おい、待て」
「事実よ」
「そんなことできるわけないだろ、ふざけるな」
リアンセは目の力だけで、本気で言っていることを知らしめた。ミスリルは口をつぐむ。
「……まあ、少しは誇張かもしれないけど。とにかくヨリス少佐はダリル・キャトリン殺しの件で陸軍に追われることになった」
ヨリスにならできる。なにしろ彼はシルヴェリアのお気に入り。もちろん、人間離れしているところが最も気に入られているのだから。
「ミスリル、あなたは一度ヨリス少佐に会っているの」
ミスリルの目に驚きが走る。
「いつ?」
「はじめて私と会った日のことを覚えてる?」
※
ミナルタ港にほど近い商館で、ヨリスはサーベルを研ぎながら、雨が小降りになるのを待っていた。
誰かが目の前に立った。
先ほどわざと本を落とした赤毛の男ではない。四人いる、と、目を上げなくてもわかった。
先頭の男がしゃがみ込み、ヨリスの耳に囁いた。
「ミナルタで何をするつもりだ?」
剣を研ぐ手を止めずにヨリスはあしらった。
「人探しなら他をあたれ」
「その必要はない。俺たちはあんたを探してたんだ。マグダリス・ヨリス少佐だな」
「そうだといいな」
実にさりげなくユヴェンサが近寄ってきた。ずっと窓辺にいたのである。
「ねえ、待ってても雨やまないわよ。宿に向かいましょう」
ヨリスの二の腕に手を触れて、立つように促した。
「待て」
トリエスタの民兵は焦っているようだった。異様な空気を察し、待ち合いに沈黙が広がりつつあったからだ。彼らとて目立ちたくはない。
「人違いよ、あなたたち」
「製塩所を調べに来たんだろう」
三ヶ月後に破壊されるミナルタ製塩所である。
さすがにヨリスも目を上げて、トリエスタ市の紋章が刻まれたダガーを持つ男と視線を合わせた。
「それがトリエスタ市民の君たちとなんの関係がある」
「俺たちとあんた方が探ってるのは多分同じものだ。俺たちの仲間はコブレンで殺された。それに――」
「待って。黙って。お願い。聞きたくないわ。行きましょう」
「頼むから。話を聞くのはあんたでもいい」
民兵がユヴェンサの手首を掴む。
夫の一重瞼の細長い目がさらに細くなり、比例して眼光が鋭くなるのを受けて、ユヴェンサは緊張しながら諭した。
「ギィ、やめてちょうだい」それから、「あなたたち、お願いだからこの人を怒らせないで」
「お願いだから聞いてくれよ。わかるだろ。これは都だけの問題じゃない。グロリアナやトリエスタだけの――」
「黙れ」
ヨリスには口を割るつもりなどなかった。
「私の妻に指一本触れるな」
「リタ」同じ待合室の
その後の出来事はミスリルも知っている通り。
ヨリスは妻と去り、トリエスタの民兵たちも去った。そしてミスリルとリアンセはタルジェン島に渡り、『月』はマナになったのである。
※
「で、そのクールで人間離れした三つ編み三十代は」ミスリルとリアンセは肩を落として深夜のフクシャの霊廟を歩いていた。「
「知らないわよ」
二人はオドンナ・リューの死体のところに戻ってきた。
「私にわかるのは、もうミナルタは中立じゃないってことだけ。シオネビュラとの同盟を公表するタイミングを窺っているのよ……」
言葉尻がすぼむ。と思いきや、彼女は壁にもたれかかって死んでいるオドンナのもとへといきなり走り寄り、胸を貫く矢に手を添えてミスリルを振り向いた。
「
ヨリスを探して駆けずり回る必要はなかったのだ。
「なんだよ」
悪態をつくミスリルを捨て置いて、リアンセはもどかしげに
ただただ訝しげな顔をする。
「どうしたんだよ?」
リアンセは沈黙し、首を横に振ると文をミスリルに差し出した。それを手にしたミスリルもリアンセと同じ顔をし、
「暗号か?」
「『君たち』とか『共有』だけ読めるから違うと思うけど」
ミスリルはしばらく努力して文を睨みつけていた。
だが、やがて丸めて振りかぶると、
「読める字で書け、カス!」
ここ数日の