不可解な転移
文字数 2,097文字
光が強まる。目を閉じていても明るすぎると感じるほどだった。空間が広がっていくのを肌で感じたとき、ミスリルの頭にあったのは、帰りの船は諦めるしかないという考えであった。
やがて光が収まって、目を開けるときがきた。しばらく何も見えなかったが、遥か上のほうからぼんやりした明るさが感じられるようになった。
見上げると、細長いアーチ型の窓が円形の壁に沿って並んでいた。壁は灰色の石材でできていた。床はというと、純白の砂が敷き詰められている。窓から吹き込む風によって運ばれた砂らしい。風紋は、嵐が
丸い部屋には四つ、外へ通じる出入り口が存在した。その出入り口はどれもアーチ型で、扉がなく、部屋の真ん中に立つミスリルの歩幅で五十歩ほどの距離だった。
することは一つしかない。ミスリルは面倒に思いながら呟いた。
「探検しよう」
一回り以上も背の低いテスが、ちらりと上目遣いに視線をよこしたが、何も言わなかった。こういうときのテスが何を考えているのかは、付き合いの長いミスリルにもわからない。ただ空中をさまようテスの視線から、月を探しているのではないかと思われた。
「待って」
声をあげたのはアエリエ。彼女はしゃがみ、荷物の梱包を解いた。布でくるんだ大鎌の刃を出し、
出入り口の向こうは、室内よりは明るかった。カーブを描く廊下にはスリット状の窓があり、そこから入る日差しの角度から、この不可解な転移を果たす前からさほどの時間は経っていないことが窺い知れた。ただ、寒い。タルジェン島とは比較にならない空気の冷たさだ。陽光を求め、足は窓に向かって自然と早くなる。
窓にたどり着くと、その向こうの景色の美しさにミスリルは息をのんだ。
幾何学模様に配置された赤茶の壁が迷路をなしており、地面は純白の砂。空はどこまでも青く、砂に光と影を描いていた。
「ねえ、ここ、〈言語の塔〉じゃないかしら」
アエリエに目を向けると、彼女は繰り返した。
「〈南西領言語の塔〉」
「どうしてそう思うんだ?」
「子供の頃に聞いた通りの場所だからよ。高地に位置する砂の迷宮。言語の塔は迷宮に守られていると」
「それだけじゃ何とも言えないな」
それに、タルジェン島と南西領言語の塔は離れすぎている。
そう言おうとしたが、自分たちの身に起きた現象の不条理さを考えると、物理的な距離など意味がないように思え、口をつぐんだ。
囲いの大陸には三本の子午線が通っている。初度子午線はここ南西領言語の塔を通過するもので、南西領標準時は、塔に残された聖遺物によって表示される。年に一度、時告げの神事が行われ、南西領各地から集った神官たちがここで時計を合わせ、それを管理するのだ。
「ここが言語の塔だとしたら、ここが古の都か?」
語歌で詠まれる災厄の地。青い光による疫病で大量死が引き起こされ、放置され、砂に埋められたという
ミスリルの隣で、いきなりテスが走り出した。暗緑色の髪が、陽の光を金色に跳ね返した。次の窓の前では紫色の輝きを得、カーブに沿って見えなくなった。その紫の残光の向こうに、ミスリルは僅かに月を見た。
「テス! おい!」
ミスリルはすぐに相棒を追い始めた。
「お前はぐれるぞ!」
その声は、足音とともに高い天井へと吸い上げられていく。テスには聞こえていないのではないかという嫌な予感がした。
「テス!」
走ってみて気がついたのだが、廊下には僅かな傾斜がついている。
「もういいから戻ってこい!」
分岐はなかった。だが、傾斜を登りきった先は、封鎖された扉が立ちはだかる行き止まりになっていた。アエリエがついて来ていないことに気がついたのは、扉の錠前に手を触れてからだった。
「アエリエ?」
扉に背を向け、傾斜を下る。アエリエは廊下にいなかった。もとの部屋にもいなかった。
ミスリルはたった一人、砂の上に足跡を残して傾斜を下り続けた。
『言語の塔』と呼ばれる遺構は、王領と五つの天領地のすべてに存在しているが、南西領言語の塔に収められた聖遺物は『砂の書記官』と呼ばれている。一般教養レベルで知られるその役割は、宇宙空間に存在する地球の船との交信と、大気成分からの人口と文明レベルの分析。不自然な人口増加や文明レベルの向上の兆しが見られれば、自分のことを神だと思っている連中の干渉を招くことになる。その干渉は多くの流血と荒廃を伴うものになるだろう。
傾斜が終わり、下りの階段が現れた。その先は暗く、砂も吹き込んでおらず、足跡を残すことはできなさそうだった。せめてもの目印として、帯に忍ばせたダガーを抜き、鞘を床に置いた。