帰郷
文字数 3,868文字
それを始めたのはレミの姉弟子ミラ・イスタルだった。レミももちろん協力した。火蓋を切ったのはアズだった。
ナイフ、弩、毒薬の、コブレン自警団の旗印。この上もなく晴れやかな一日に、それが不吉に街に翻る。道行く人々は、黒いマントの三人を目で追った。
男性二人に女性一人、大型犬が一匹の一行は、入口が半地下の構造になった酒場の扉へと、短い階段を降りていった。今は閉店の札がかかっているが、先頭の男が扉に耳をつけ、中の音を確かめると、仲間たちに頷きかけた。片足を上げ、一番
扉は砕け、穴が開いた。男はすぐに手を突っ込んで中の閂を外すと、酒場に風と光を送り込みながら、大股で踏み込んでいった。
「コブレン自警団だ! 全員その場から動くな」
アズはその一言で、薄暗がりに蠢くほとんど全員を震え上がらせた。震え上がらない者もいた。
「エミィ、エミィ」中年の男がフォークで床板を剥がそうとしていた。「隠れてないで出ておいで」
ホールをレミとトビィに任せ、アズは大股で奥のカウンターへと歩み寄る。
「ちがう、ちがう、ちがう」女がひきつけを起こしている。「やめてっ、あのっ、ちがうの、あたし違うっ、関係ないっ」
「自警団だ!」
男が一人、叫びながらカウンターの向こうの扉に消えていく。慌てふためく複数人の気配。アズは構わなかった。カウンターに入って右手に目をやると、わずかに
「ひぇっ! この××野郎!」
老人は引っ張り上げられながら、首をよじってアズの腕に噛み付こうとしていた。成功したとて無駄だろう。服の下には肘まで覆う手甲があり、肘より上は
「離せ、
はにゃせ
! 宗教家気取りの童貞野郎どもみぇ
!」アズは虚しい気分に襲われるときがある。守るべき市民をしてこれだ。
「
引きずり出されて腰を抜かす老人に、アズは屈んだまま顔を近付けた。老人は痩せ、眼窩は窪み、顔色はどす黒かった。
「売人か?」ホールで縄をうたれる人々の阿鼻叫喚をよそに、アズは落ち着いた口調で問い詰める。「売人だな?」
裏から逃げたこの老人の仲間たちも、今頃は腰縄を打たれているはずだ。裏には同じ特殊部門の一員ミラ・イスタル、そして万一保安官が駆けつけた際を想定して渉外部門のクラリス・ヘスという女性団員が配置されていた。
「市民に暴力をふりゅうちゅにゃりにゃ!?」
調理台の上に手を伸ばし、老人は肉切り包丁を取ろうとした。
その皺だらけの首筋に、長い木の柄先があてがわれる。
カウンター越しに立つトビィの仕業だった。
「商売から手を引くか――」柄の反対側の先端についているのはモップだが、必要があれば槍の穂にも戦斧にも変わる。彼は威嚇効果の高い自分の得物を持ち込んでいた。「それとも、両手を切り落とされたいですか?」
「悪く思わないでください」
ちょうどよく、レミの硬い声がホールから聞こえてきた。老人が硬直している間に、アズは両手を揃えさせて縄をかけた。
「市民の間にこういうものを流通させる者は、もはや一般市民と見做されない」
「彼女の言う通りです」
引きつけを起こしていた女が抗弁していた。
「だってぇ……」子供のような喋り方をする、甘ったれた感じの女だった。「お金が必要なんだもん。お母さんが病気で……見逃してよぉ……」
老人に目を戻す。
「我々はあなた方を裁きません。司直の手に渡します。もう二度とこんなことをしないでください」
老人の身柄をトビィに委ね、アズは一人、トラップドアの下へと入っていった。老人の声が追ってきた。
「お人好しは馬鹿を見るぜ! 兄ちゃん!」
地下へと伸びる階段には、一段置きに天籃石の裸石が置かれており、明るかった。地下室に着くと、まず棚やがらくたの間に人が隠れていないかを見て回った。使われなくなった店の備品の他には、麻袋や小さな木箱があり、中には乾燥した木の根や葉、種子や、石の粉が収められていた。薬物の原料だ。杜撰に放置されている帳簿を見つけた。その巻物を広げ、仲介人の取引簿であることを確認すると、それだけ持って地下室を後にした。
その頃、ミスリルたちを置いて駆け出したテスは、騒動が起きている地点へたどり着きつつあった。頭上に昼星が浮かんで、テスを導いていた。
昼星は俺を探してたんだ、と、テスは考えた。騒動を察知して、まず最初にしたことが、二ヶ月も姿を消したままの俺を探すことだったんだ、と。そう思うと昼星のことが愛しくてならなかった。あれはテスが育てた鳥だった。四年前、巣から落ちて弱っているのを見つけ、保護したのだ。
人々が、道の脇で、見たものについて話し合っていた。
――どこそこの家の奥さんが連れていかれたわ。
――どこそこの家の息子さんが病気だっていうのは、こういうことだったのね。
――あの野郎、最近やけに金回りがいいと思ってたんだ。
――他人を廃人にしてまで金がほしかったのかねぇ?
薬の取引だ、と走りながらテスは判断した。悪いことに、一般市民が手先として利用された。それゆえ昼間からのこの騒動だ。現場を押さえ、かつ血を流さずにことを済ませるには、これが最良だったのだ。
現場はすぐに判明した。入口が半地下になった酒場で、扉が蹴破られ、中に人の気配がない。テスはしばし立ち止まって内部の闇を見つめたのち、再び走って裏に回り込んだ。
角を曲がろうというときに、アズと鉢合わせた。危うく正面からぶつかりあうところだった。はたと足を止め、アズは驚きを込めてテスを見つめた。昼星が鳴く。テスは無意識に左腕を横に出した。そこに、昼星が翼を鳴らしながら舞い降りた。
「アズ――」
物をいいあぐねているテスに、アズは優しく頷いた。
「もう終わりだ。何も心配しなくていい」
敬愛する兄弟子を前に、テスは胸が詰まって何も言えなかった。ずっと彼のことを心配していたのだと、初めて気がついた。
「無事でよかった。二ヶ月も戻らないから心配したぞ」
あっ、と声を出して頷く。
「レミとトビアスは?」
「二人とも大丈夫だ。お前は? おかしなことに巻き込まれていたんじゃないのか?」それから顔を曇らせた。「ミスリルとアエリエは一緒じゃないのか?」
「一緒に帰ってきた、さっき」
昼星が手の甲を甘噛みし、構うよう催促した。テスは腕ごと昼星を胸に引き寄せた。大きな鳥の頭で、視界が半分塞がった。
「追いついてくると思う。昼星が呼ぶから、俺だけ先に来たんだ」
アズは血の繋がらない弟を案じながら、「そうか」と呟いた。テスには先走る癖がある。今回も、ミスリルとアエリエに何も言わず、道に置いてきぼりにしていきなり走り出したのではあるまいか。様子が目に浮かぶ。
足音が迫り、通りからミスリルとアエリエが現れた。最後にマナが、ミスリルの後ろからひょっこり顔を覗かせた。
「よう、アズ」ミスリルはニコリともせず片手を上げ、大股で歩み寄った。「首尾はどうだ?」
「ちょうど終わった。トビィたちが事情聴取の必要のある人を選んで自警団本部に連れて行ったところだ。ミラと……いや、あとで話そう。それよりどうしてタルジェン島との往復に二ヶ月もかかったんだ?」
その問いに、ミスリルとアエリエとテスが同時に答えた。
「タルジェン島にある神殿の部屋に入って出たら南西領言語の塔だったんだよ」
「島からいきなり山に飛ばされて下山に時間がかかったの」
「タルジェン島で月が大きくなって女の子が出てきたんだ」
「一人ずつにしてくれ」
意味が一つもわからないのは、三人が同時に喋ったからだ、きっとそうだとアズは自分に言い聞かせた。ミスリルの後ろのマナに目を留める。
「君は誰だ?」
「私はミスリルの娘でマナといいます!」
ハキハキと受け答えるマナを前に、アズは凍りついた。ミスリルも凍りついた。その沈黙をどう受け止めたのか、マナは情報を追加する。
「歳は十四歳です!」
「十四歳」
「ミスリルが十一歳のときに実の母親との間に――」
ここで、ようやくミスリルが振り向いてマナの口を塞いだ。
「声がでかいっての」
アズは呆然と立ち尽くしていた。健康的な小麦色の肌がどこか青ざめて見えるのは、日陰にいるせいか。ぱち、ぱち、と瞬きし、声を失っている。
「なんでショック受けてんだよ」
その一言で我に返り、アズはミスリルに歩み寄り、真剣な調子で耳打ちした。
「ミスリル、ちょっと二人で話そう」
「何だよ」
「このまま団長に会うのはまずい」
「信じるのかよ。俺のほうがショックだよ」
「ねえ」アエリエが口を出した。「こみいった話になるの。それはアズも同じだと思うわ。北ルナリアで何があったかゆっくり聞きたいし」
と、マナの肩に手を置いた。
「この子を休ませてあげたいし」
「その子は本当にミスリルの娘なのか?」
「そうよ」
涼しく答えて自警団本部のほうへ歩き出す。
ミスリルがアズの脇腹を肘でつついた。
「いちいち呆然とすんなっての」