言葉にできない
文字数 4,363文字
もはや小部屋ではなかった。廊下でもなかった。
壁も天井もない、床だけの、茫漠とした、一面の灰白色。その空間に臭いは――鼻が何かを感じているとしたら、自分の体臭だけだろう。音はあった。自分のブーツの足音が。
そこにヨリスは一人。
こんな場所は見たことがなかった。ヨリスは三十五歳で、孤児院、士官学校、それから軍隊という狭い世界を生きてきたため、見たものよりも見たことのないもののほうが多いだろうが、それにしても、他の誰がこの場所でいつまでも正気を保っていられるだろうか?
恩寵があるとしたら、正気でいられることだ。それと、部下たちが逃げ切ったこと。ヨリスは神になど興味はないが、不意に敬虔さに近い感覚を抱いた。母なる大地も父なる太陽もない場所で、いずれ起きる出来事に。ここに残ってよかったと思うためには、何かが起きなければならない。
出来事は起きた。
ヨリスの視界の右端で、床から影が立ち上った。
間合いを測る間もなく、それは亡霊が取り憑くようにヨリスに飛びかかった。ヨリスはそれを一撃で殴り倒した。手応えはなかったが、影は雲散霧消した。
「できるなら、拳ではなく言葉で語り合いたいのだが」
返事はない。
「姿を見せろ!」ヨリスはよく通る声を張り上げた。「イマエダ大尉から話は聞いている。私に用があるというのならば、月よ、聞こう!」
『言語生命体』
背後から声。
ヨリスは素早く振り向いた。
そこに、
『誰も彼も、我らが被造物どもは我に生意気な口をきく』
「我が名はマグダリス。貴様は何という」
『神、と言ったらどうする』
「殺す」
『何故』
「私ごときに殺される程度の者など神ではないからだ」
影は少女の声になった。
『言語生命体は
「いいことを教えてやろう」ヨリスは肩の力を抜いて指摘した。「貴様は混乱している。自分が誰だかわからないのだ。ゆえに名乗れぬ」
今度は中性的な声。
『私は千年、砂の中で一人だった』
「貴様は今、月であり、砂の書記官であり、マナでもある」
ヨリスは不思議に思った。砂の書記官は何故、月と自己とを完全に切り離してしまわなかったのだ? できなかったのか? だとしたらそれを不可能にしたのは、人間として存在したマナの自意識だろう。自意識が、扇の要として二つの無機物、月と砂の書記官とを結びつけているだ。
「寂しいのだろう」
優しさも甘さも見せずにヨリスは言い放った。
「寂しいというのは、誰かと共にいたいということだ。貴様は人間になることで、願望を抱くことを知った。その願望が無機物であった貴様のそれまでの自己認識を粉砕し……」
そうか、とヨリスは理解した。
「……腹を立てたのだな? 我らが貴様に弓を引いたことに対して」
『地球人として生意気な被造物には腹を立てて当然だ』
『私は、お前はここにいるなって言われたくなかったの』
『言語生命体の行為を監視することこそ我が本来の務め』
「わかった」
ヨリスは片手を上げて制した。
「このままでは、貴様は今の分裂した自意識すら保てず発狂するだろう。はっきり言っておくが、私には貴様の自殺に付き合うつもりはない」
影が、顔を上げた。そう見えた。瞬間、ヨリスは足を踏み込んで、サーベルを抜きざまに影を斬り払った。
影は、また背後に湧き出でた。
『ならば、私は私を保つため貴様になりかわる』
今度の影は、少しだけ輪郭がはっきりし、背丈はヨリスと同じだった。
※
月環同盟軍が都を攻め落とすには、高いアーチを積み上げた水道橋をくぐって石橋を渡り、大劇場や図書館のある地区を通過して、さらに議事堂及び議事堂前広場を攻略しなければならなかった。
月環同盟軍の先鋒隊が水道橋にたどり着くまでには、エーリカの逃走は総督府じゅうに知れ渡っていた。わかっていた通り、刺客が――ハルジェニクを殺したお仲間が――放たれ、グザリアを筆頭とするコブレン自警団は街に出て暗殺者狩りを始めた。
コブレン自警団の殺しの手口ならミスリルがよく知っていた。ダガーや弩を手にしたまま血を流して倒れている殺し屋たちの死骸、血痕、立ち去った者の足跡を追えば、殺戮者のもとにたどり着くことができた。
何故追ってしまったのか、ミスリルにはわからなかった。郷愁かもしれない。物陰から、一目でもいい、一人でいいから知っている顔を見れたら満足できる気がしていた。
甘かった。
血と雪のぬかるみ。
死せる殺し屋たちのただなかに立つ男を、近すぎる月が照らしていた。
その男が右手にぶら下げた鉄の棒。ミスリルと同じ得物、三節棍。
ぎらつく光を両目に集めてミスリルを振り向いたのは、グザリア・フーケ、他ならぬミスリルの師であった。
運命というものがあるのかもしれない、とミスリルは畏怖し、それを打ち消した。俺が死体を追ってこなければ会わずに済んだ、それだけじゃないか。
師弟の間にはまだ三十歩の距離があった。それでも互いの人相がわかるほど明るくて、声もよく聞こえた。
「ミスリル」
グザリアはしばし驚いていたようだが、気を取り直して月を指さした。
「あれはなんだ?」
ミスリルは開き直った心地で答えた。
「娘だ」
「大変なことをしてくれたな」
「全部が全部俺のせいってわけじゃないけど」
グザリアが一歩踏み出す。瞬間、ミスリルは三節棍を右手に抜いた。
「お前に娘などいるべきではなかった」
「そう言ってやるなよ。かわいそうだろ?」
「あの月に対してお前は何を思う?」
「一人くらい肩を持ってやる奴がいてもいいって思うね」
「つまり、あれがこのままでいいと?」
「このままじゃよくない」ミスリルも一歩、慎重に踏み出した。靴が血で溶けた氷の塊を踏み、湿った音を立てた。「ちゃんと元通り娘に戻ってもらわないとな」
さらに一歩、互いに歩み寄り、ぴたりと立ち止まる。
「あの月が消えてなくなる可能性を選ぶつもりはないか?」
「ない」
即答。
「ならば死ね」
グザリアが、中央の棍を底辺とする三角形の構えを作った。ミスリルは最後の質問をした。
「月が消えれば世界は元に戻ると思うか? フーケ師」
「その可能性に賭ける。それだけだ」
「話し合いの余地は?」
今度はグザリアの即答。
「ない」
ミスリルは二本の棍を握り締め、一本の棍をぶらりと垂らした。威力を高めるための
「ミスリル、お前は俺の最高の弟子だった」グザリアが吠えた。「お前から来い!」
ミスリルは鬨の声を上げた。腹の底から。横たわる連盟の死角の死骸を一人、二人、三人と跳びこえる。
防御のことを考えたほうがいいかもしれない、と思ったときには体が攻撃を始めていた。棍の先端を握り、大きく振り回してグザリアの足を狙う。グザリアは後退しなかった。ああ、一歩も引かないさ、この俺を教えた師匠だからな。ミスリルは冷静だった。グザリアが高く跳んでミスリルの棍をかわし、右手で自身の三節棍を肩越しに振り上げるのを見た。
素早く左に飛んで回避。
グザリアの三節棍が石畳を割った。二度、三度、棍を打ち合う。四度目で師弟の三節棍の節目が絡み合った。二人は同時に武器を捨てた。
互いに後ろに跳んで間合いを取る。
そこには
ミスリルは素早く膝を屈め、左手に弓を、右手の四つの股に矢を握った。後ろに飛びすさりながら矢を連射する。グザリアが剣を上段に構え、突っ込んでくるのが見えた。矢の二本は外れ、一本は剣に払われた。
四本め、最後の矢を弓につがえて引いたとき、グザリアは眼前にいた。
グザリアは片手剣の刃をミスリルの首筋に当てていた。
膠着。
「どうする?」顔と顔を寄せ合って、ミスリルは冷徹な調子で尋ねた。「このまま矢を撃って、あんたの喉を串刺しにするか?」
「俺が貴様の首を掻き切るほうが早い」
「その瞬間、力が抜けた俺の手から矢が放たれるってわけだ」
またの膠着。
それを破ったのはグザリアだった。
ミスリルは脇腹に蹴りを受け、矢は空しく空を切り、近くの煉瓦造りの建物に当たった。
「いっ――」
左足を軸に半回転。
グザリアの右手に回り込む。
「――ったいな、畜生!」
痛む箇所に手を当てたくなる本能に必死に抗って、ミスリルは右肘を振り上げた。肘打ちはグザリアの顎をかすめ、唇の端を切った。やっとだ、やっと一発入った。ただ失敗だったのは、肘打ちを入れたミスリルの爪先が死体の一つに引っかかったことだった
よろめく。
すかさずグザリアが左手でミスリルの鳩尾を強く押した。
背中から壁に叩きつけられる。
激しい運動で高まっていた心拍が、グザリアの手の圧迫を受けて止まった。
息ができない。
考える余裕はなかった。心臓を押さえつけられながら、ミスリルは必死に右足を動かした。動け! 動け! 気付けば必死になってグザリアの脛を蹴っていた。何度目かの蹴りで、心臓を押さえる力が弱まった。
息が吸えた。
心臓から再び血が全身に送り込まれる。
体に力の入らぬまま、ミスリルはグザリアに組みついた。
師弟は取っ組み合い、ぬかるみに倒れた。
偶然、ミスリルが下になった。頭を石畳に強打しないよう、首を前に突き出す。そのときグザリアの腰の後ろにダガーの柄が見えた。
許せよ、親父、フーケ師。
ミスリルはグザリアの腰のダガーを抜いた。ミスリルにのしかかるグザリアには弟子の両手の自由を奪っておく余裕などなかった。ただ、腰のダガーに手を回したとき、それがないことに気がつき――胸を刺された。
ダガーの一撃はグザリアの鎖帷子を貫通して胸の血管に届いた。心臓は外したが、ミスリルは組み敷かれた姿勢のままダガーの柄を左右に動かして、血管を切り裂いた。それは熟達の域に達した殺しの技だった。
ミスリルは顔にグザリアの血を浴びた。グザリアは己が身に起きた悲劇を理解したようだった。
何かを訴えかけるような目で、月の光の中、ミスリルを見下ろしている。なんだ? 何を言いたい? だが、死にゆく者から聞き出すことはできなかった。
グザリアの体がゆっくり横倒しになる。
下敷きになるのを免れて、ミスリルは這うようにグザリアから離れた。ミスリルは息を切らしていた。汗をかいていた。この汗も、冬の風がすぐに乾かしてしまうだろう。
ミスリルはグザリアから目を背けた。背けた視線の先に、師弟の絡まり合った三節棍が落ちていた。
こんなときはなんて言うんだっけ?
ああ、そう。師からは教わった。
俺が俺の悪を生きるときも、神は俺と共にいる――
――言葉にできない、とても。