マナ
文字数 2,703文字
ライラ丘陵の戦いが終わっても、ミスリルたちは同じ村に足止めされ続けた。
「レライヤ城砦が落ちるまではこのままでしょうね」
リアンセは言う。
ほぼ軟禁状態で、リレーネは塞ぎ込んでいた。それでリージェスが抗議して、日に一度だけ外出が許されることになった。村にはシオネビュラから物資が流れ込み、活気づいて見えた。日輪連盟の支配下にある間、都からの物流がほぼ途絶えていたのだ。
食糧は、ミスリルたち四人の分は月環同盟の兵士が用意していたが、それもリージェスの抗議によって自分達で調達できるようになった。一度だけの外出の時間に、その日の分の食料品や日用品をそれぞれが買いに行く。とはいえ、つかず離れずの距離に同盟の兵士がつきまとっているのだが。
異常に長い昼が終わろうとしていた。まだ青い空に、雲は桃色にたなびき、天球儀がほの白い光を放ち始めている。その下では村の目抜き通りに
市はそこそこの人出で、ミスリルとリアンセは肩を斜めにして人の間を縫い歩いた。熟達した暗殺者のミスリルでさえ、油断すれば人とぶつかりそうになる。牛の腸を背負うように歩いていた彼は、呼びかけられても、それが自分の待ち望んでいた人物の声とすぐにわからなかった。
「ミスリル?」
その人は、声をかけるまで気配を消していた。
女の声。
立ち止まって振り向いたミスリルは、言葉を失った。村人たちが迷惑そうにミスリルを避けていく。
アエリエ、そしてマナ。緑髪の見知らぬ女性と少女が一緒だった。
牛の腸を担いだまま、ミスリルは、彼女たちに一歩、足を踏み出した。月環同盟の兵士たちに見られていようが関係ない。アエリエはというと、走り出し、ミスリルの首を抱いた。
リアンセがニヤリと笑う。
「おいおい、やめろよ。人前だろ……」
「ああ、言葉が出ない!」
アエリエはミスリルを放すと、今度は手を取った。
「なんて言えばいいか……」
嬉しいのはミスリルも同じだった。
「俺は信じてたさ。俺とお前の能力を合わせれば、もう一度お互いを見つけ出せるって。はぐれてる間、元気だったか?」
「元気よ」
「マナも?」
「ええ」
マナもまた、遠慮がちにミスリルへと歩み寄ってきた。女性と少女も。
「紹介するわ。この人はミサヤ、この子は歌流民のゾレア。シオネビュラで出会ったの」
「シオネビュラにいたのか」
「ええ。この村には神官団の一分隊に連れてこられたの」
「お前も護衛つきかよ」
「あなたもそのようね。視線を感じるわ」
ミスリルは自然と笑みが大きくなるのを感じた。
「神官どもを説得しろよ。俺たちの宿で話そうぜ。会わせたい奴がいる」
もちろん、リージェスとリレーネのことだ。アエリエが聞く。
「誰?」
ミスリルはいたずらっぽく目を細めた。
「きっと驚くぜ」
※
外出時間が終わり、八人はリアンセとリレーネに割り当てられた部屋で互いの体験を共有した。
「で、その娘が月の一部であるというわけだ」
「誰が『その娘』だ」ミスリルがリージェスを威嚇する。「マナという名前があるんだ。名前で呼べ」
リージェスがミスリルを睨みつける。これ以上俺に指図するなら殴るぞとでも言うように。ミスリルも睨み返す。おおそうか、やれるもんならやってみろ。
この二人が毎日同じ部屋で寝起きできているのは奇跡だとアエリエは思った。
「どうしたらあなたたちは仲良くやれるのかしらね」
リアンセが嘆く。
ミスリルの恐れは確信となってしまった。マナと合流した以上、月を掘り起こしました、でも何も起きませんでしたでは済まされまい。何かが起こる。
「私は月の一部分だけど、一部分に過ぎない。今人間の体がある以上、マナと呼んでほしいと私も思う」
「ほらみろ。マナは人間だ」
「私が人間の体を保持する限り、月は完全体の月に戻れない。平行宇宙から漂着した月を完全体で消し去らない限り、この世界の異変は止まらないと思うの」
「マナ、お前はこの世界の異変の原因がわかるのか?」
「わからない。私の本体、砂の書記官へのアクセスが叶えばわかるかもしれないけど」
「だけど、論理崩壊だなんて」
かつてコブレン自警団本部の中庭でアズたちと話した内容を反芻しつつ、リージェスは訝しんだ。
「そんな理論が現実になるなんて、とても信じられないな。あくまで仮説に過ぎないんだろう」
「そう。仮説に過ぎない。けれど、抽象的な理論であっても、それが可能態である限り、現実態に移行する。具体的なモノないし事象に移行するの。今や私たちはそういう世界に生きている」
「だが」
「やめときな」ミスリルは制した。「地球人だの平行宇宙だのでマナと議論したって勝ち目はない」
それは、マナがただの少女でないことをミスリル自身認めていることになる。ミスリルは舌打ちした。頭の中でぼんやり認識することと、口にすることは全く別物だ。
言わなければよかった。
「ミスリル、私を失う覚悟をして」
「死ぬ気か?」テーブルから身を乗り出す。「死ぬ気じゃないだろうな?」
「この世界を延命したければ、月をもとの事象世界に送り返す以外にないと私は考える……って私は思ってる」
学習した少女らしい言い方に語尾を変える。だが言っている意味まで変わるわけではない。ミスリルはうめいた。
「お前は俺の娘なんだぞ」
「生まれるはずのなかった娘だ」リージェスが言った。「感情に振り回されるな。頭で考えろ」
「いいことを教えてやろう」ミスリルも負けていない。「自分のことを賢いと思ってる馬鹿ほどそういうことを言う」
「はい、二人ともそこまで」
アエリエが手を二拍した。ミスリルは己の心を見つめた。嫌だと叫んでいた。世界が壊れるのは嫌だ。マナを失うのも嫌だ。
そのマナは、平静を保って諭す。
「ミスリル、私のことで怒らないで。私はあなたの怒った顔よりも、笑った顔を覚えていたい」
ミスリルは、表情の変化に乏しいマナの顔から悲しい視線を逸らすことができない。
もうすぐ失うことになるかもしれないと言うのに、どうして目を背けられよう?
結局、再会を祝う気持ちも失せ、その日の食事は味がしなかった。