借りは死んだら返せない
文字数 5,099文字
ルナリアユキオウムだ、と、テスは考えた。
「武力供出を渋ったところで、ミナルタが参戦しないわけにはいかない」
捕囚運搬用の星獣の鞍で、リージェスがリレーネに解説していた。ソレリア民兵団から奪った星獣の、柵に囲われた鞍である。
「戦争が始まるまではミナルタも月環同盟加盟都市だった」
「今も?」
「もちろん。もしシオネビュラを筆頭とする同盟諸都市がミナルタ抜きで都を奪還すれば、それらの都市は戦勝後にミナルタを解体する力を持つことになる」
「では、敗北した場合には?」
「団結した同盟諸都市に、参戦を拒んだ非難の矛先を向けられて孤立する」
「その場合、日輪連盟はミナルタを救援したりは?」
「するわけない。肝心なときに何もしない奴は足を引っ張るからな。個人でも集団でもそれは同じだ。だからつまり」
頬に一瞬リージェスの視線が刺さった。リージェスの苛立ちがテスには手に取るようにわかる。
『さっきからコイツは何をしているんだ?』
テスは淡い陽光に一枚の羽根をかざしてためつすがめつしていた。コブレンを
「……つまり、今シオネビュラがミナルタに何の制裁も科していない時点で、シオネビュラと非公式の協定を結んでいると考えたほうがいい」
ルナリアユキオウムは純白で美しい大型のオウムだが、両翼を広げたら、緑から紫そしてオレンジへと変化する構造色が現れる。テスの手にある風切羽根は、その複雑なきらめきで、テスと、時折視線をくれるリレーネの目を撫でていた。
この鳥は南西領ルナリア山塊を
「気を付けろ」
太陽に雲がかかり、風切羽根の色彩が
「旧市街に入る」
テスは羽根を見るのをやめて、目の前の殺伐とした現実世界を見た。
広い鞍を囲む柵の上には
曇り始めた空の下には異臭が漂い、細い道の両側には、家より高く積まれたゴミが山脈をなしていた。
よくわからないゴミ……それは黒く黴びた木材、再利用不能なまでに腐食した鉄、漆喰の破片、そして旧市街から運び出された古い時代の材質による瓦礫。今の文明力では加工できず従って打ち捨てるしかなかった
曲がり角に差し掛かり、リレーネが歌で方向を指示する。
星獣の揺れが次第に収束し、ほとんど感じられなくなった頃、突如として左右のゴミ山が消え、視界が開けた。
地球人の遺物。
遥か過去の高層建築群が林立するミナルタ旧市街に、一羽と三人は、既に入り込んでいた。
※
一般にミナルタ市と呼ばれるのは、地球人が去りしのちに建造された新市街のほうである。旧市街は地球人統治時代の最後の戦争で荒廃し、遠目には天にも届く
ゴミ山は、消えたわけではなかった。平坦になっただけだ。ゴミの間の一筋の道を星獣が進む。リレーネに代わり、リージェスが歌い始めた。
「テスさん」皮袋の水で喉を潤し、リレーネが呼びかける。「あなたの鳶は、いつも何かを見張っていてくださるのですね」
テスの返事は短い。「ああ」
制御の歌を続けながら、リージェスは面白くない気持ちで聞いていた。リージェスはテスが嫌いだった。話が噛み合わず、ぼんやりし、それでいて抜け目なく、何を考えているのかわからない。孤立無援の状態でなければ、協力しあいたいと思える相手ではなかった。それに、コブレンを追い出される前日、リレーネが見ている前で背後から組み敷かれたのを
「あの鳶は何というお名前ですの?」
「
「変わったお名前ですわね。どのような意味かしら」
一方のリレーネは、不気味なほどよそよそしいテスと打ち解ける努力をずっと続けていた。テスはニコリともせずに、やはり短く答えた。
「『見えなくてもずっといる』」
星獣が
曇天に覆われ、影が消えた地面。そこは大地ではなかった。
いきなり空中が見えて、リージェスは太腿の裏がぞくりとするのを感じた。
ずっと地面だと思っていた場所は、骨組みの
二の腕から手首までを鳥肌が覆い、リージェスは奈落から目を逸らした。
ミナルタ旧市街で星獣を売却しようと提案したのはテスだった。
『セレテス子爵は俺たちを探し回るはずだ。ソレリア民兵団の星獣を持っていたら目立ちすぎる』
『どう処分しろって言うんだ?』
『ミナルタ旧市街に巨大な裏取引
疑惑を込めてリージェスはテスを見つめた。テスは一切リージェスと目を合わせず、砂に鳥の絵を描きながら続けた。
『コブレン自警団とは不可侵協定を結んでいた。だから実際どういう場所かはわからない』
『売れる保証があるのか?』
つい意地悪な口調になる。それを察知して、リレーネが口を開いた。
『行きましょう、リージェスさん。私たちはこれまでだって保証のない旅を続けてきましたわ』
それは全くその通り。
「堂堂としていてくれ」
結果、リージェスは頼りない橋の上で歌だけに意識を集中し、リレーネは怯えて柵にしがみつき、テスだけが普段と変わらぬぼんやりした様子で、のんびりと鳥笛に油を塗り始めた。
星獣が右後ろ足を滑らせた。床が右後ろへと大きく傾いた。星獣は残り三本の脚でかろうじて体勢を支えた。
「厄介ゆえに手放したがってると思われたくない。
踏み外した右後ろ足を引き上げて、星獣は再び歩き出す。
ある程度なら、星獣は自分で足の置き場を判断できるはずだ。
足許なんか死んでも見るな、とリージェスは強く己を戒めた。
※
やっと、広い地面にたどり着いた。周囲を取り巻くゴミも、ゴミの山脈の
リージェスは歌を中断する。すぐにリレーネが歌を引き継ぐ。柵に顔を寄せたリージェスの目に、往来を行く人々の姿が見えた。高すぎる建物群がなければごく普通の都市に見えた。かつて破壊と荒廃が通り過ぎ、忌まわしき地として後代の為政者に見捨てられようとも、ミナルタ旧市街は今も敢えて選んで住む人がいる現役の街だった。
鋭く呼び子が吹き鳴らされ、星獣の背に座す三人の耳を刺した。
「止まれ」
活気のある通りに分け入る手前で、灰色の髪の中年男が星獣の前に飛び出してきた。日焼けした茶色い顔はしかめ面。深い皺に縁取られた灰色の目はいかにも神経質そうだ。
歌が
「下りろ」
リレーネの凝視をリージェスは頬に感じる。リージェスはテスの様子を横目で伺った。テスは道の先を見ていた。家畜を商う男が百羽ものガチョウを引き連れて道を横断していった。ガチョウの川が流れ、昼星が興奮して鳴く。ピーヒョロロロロロロ!
ガチョウたちは一斉にガァガァと騒ぎ始めた。
リレーネが短い旋律を口ずさみ、星獣が膝を折る。
「何をしにきた」
柵から縄梯子を垂らし、リージェスは男の前に降り立った。
「星獣を売りに来たんだ」
「歌集を見せろ」
「歌集?」
操縦の譜面を集めたものだろう。リージェスも顔をしかめた。
「持ってない」
テスが助け舟を出す気配はない。どのような盗品でも売れると言ったのはテスなのだが。
「だったら正規品じゃないな。取引はできん。帰れ」男は右手を振って追い払う仕草をした。「街に連れ込むのも許さん」
「歌集はなくしただけだ」
「関係ない。歌集がなきゃ扱えん」
男の肩越しに、道ゆく人がリージェスたちへと無遠慮な視線を注ぐ。
「コブレンの戦い以来星獣の取引には慎重になってるんだ。悪く思うな」
「コブレン?」ここでようやくテスが柵から身を乗り出して、口を挟んだ。「コブレンで何があったんだ?」
テスに対するリージェスの苛立ちは、今や最高潮を迎えていた。どうしてお前はそんなにバカ正直なんだ。
リージェスたちはずっと森を旅してきた。コブレンで起きたことなど知らない。だが男の目は、なぜ知らない、と厳しく問いかけてくる。
「わかった」焦りを見せないように気をつけながら、リージェスは頷いた。「引き返そう」
男は追及してこなかった。リージェスが縄梯子を上るのを、街路や様々な窓に潜む
今度はリレーネが歌った。星獣の首を返す。
腹立たしいことに、旧市街が遠ざかると、テスはよりによってこんなことを聞いてきた。
「どうしてあっさり引き下がったんだ?」
リージェスはテスを殴ろうかと思った。
「お前が余計なことを言うからだ」
ともあれ、星獣のおかげでミナルタまで辿り着くことはできた。ここで乗り捨てるしかない。是非ともまとまった金を手に入れたかったのだが、無理はできない。
「この貸しは死んでも返してもらうからな」
手に入らぬとなると途端に現金が惜しくなる。
テスはいつもの、ぼうっとした、どこを見ているのかわからない目を虚空に向けて言い返す。
「死んだら返せない」
「馬鹿にしてるのか?」
「違う。死んだら返せないから死んだら返せないと言ってるんだ」
リレーネはおろおろした様子で二人の顔を見比べていた。歌が尻すぼみになって消えかかる。難所に来たのだ。つまり、橋に。
「変わろう」
テスが歌を引き継いだ。リージェスは、テスに感謝こそしないものの、安堵はした。どちらかが歌でも歌っていなければ喧嘩をしてしまう。
星獣が橋を渡り始めた。足許にはゴミを
傾斜に差し掛かった。ゴミの層が薄くなるのだ。そして……奈落が剥き出しになる。
ここはかつて地下街の上に架かる道路だったのか。それとも高層建築を結ぶ橋だったのか。どうでもいい。まずいことに、この数十分の間に風が強くなっていた。
風はゴミの山の間でごうごうと
リージェスは顔面蒼白になり、指が白くなるほど柵を握り締めていた。護衛武官の誇り? 売り出し中だ。護衛対象のリレーネは、
誇りが売り出し中であったゆえに、リージェスはその男に気付くのが遅れた。テスの歌が停止を命じる短い旋律へと突然変わったときにも、おかしいと思うより、何をしているんだ、早く橋を渡ってくれという思いが先立った。
顔を上げたとき、その男は、井桁状の虚空三つ分を挟んで星獣と
強風に身を晒し、細い足場の上で、己の二本の足を頼りにしっかり立っている。
なびくマント。風に弄ばれる黒髪は長い三つ編み。右手には抜身のサーベル。左手には
男は何も言わずに左腕を上げると、挨拶代わりに連弩を発射した。