生きる意味
文字数 3,225文字
赤子は生きていた。
体の崩壊は進んでいた。目と鼻になるはずだった虚ろな穴は、内側に向かってさらさらと崩れ落ち、日を追って空洞を広げていた。口もだ。耳まで裂けそうなその口で、乳を求めて精一杯に声帯を震わせ、隙間風のような音を立てている灰色の砂の塊のようなその生き物を「化け物だ」と言い切ってしまわずにいられる自分自身を、宿兼酒場の常連客たちは不思議に思っていた。
それは赤子の母親がそばに付き添っているからだろう。
「お乳の時間だわ」
為す術もなく集まって母子の様子を見守っていた客たちは、気を遣って部屋を出て行こうとした。
一人が足を止め、ベッドのそばに引き返した。
「なあ、あんた。言いたかないが――」
「諦めないわ」
若い母親は、ベッドに上体を起こして強く静かに言った。
「この子は生きている」
「でもよ、その子は苦しんでるんじゃねえのかい? あんたも。諦めて楽になったらどうだ?」
「この子は長く生きられないかもしれない」
砂のように脆い体を慎重に腕に抱く。
「長く生きても、苦しい人生が待ってるわ。わかってる。それでも、今生きている」
確かめるように囁いた。
「今、生きている」
※
ヨリスは女子修道院の地下室へ降りていった。アーチ型の木戸を開くと、待ち構えていたリャン・ミルトが笑みと共に立ち上がった。ミルトは誠実な男だ。唯一の友でもある。ヨリスは後ろ手に戸を閉めると、息を一つついた。白い靄が見えた。地下室は外と同じくらいに寒かった。
木箱のテーブルと椅子には、アウィン・アッシュナイトとアイオラ・コティーも同席していた。
「久しいな、リャン」
「マグダリス。無事だと信じていた。太陽はちゃんと昇っているかい?」
「夜だ」
「なんだって」
「太陽は落ちた。君たちがここにいる間にな。ディン中尉とホーリーバーチ少尉の姿が見えないが」
これにはアイオラが答えた。
「ミズルカ・ディン中尉は司令部の合図を待っています。少尉は眠らせています」
アイオラはテーブル上の白い薬包紙を取り上げ、振ってみせた。ヨリスは頷いて適当な木箱に座った。高い樽に座っていたアウィンの目線がヨリスより高くなる。アウィンは慌てて立ち上がり、場所を変わろうとした。
「構わない、アッシュナイト中尉。我々は今や軍属ではない」
「ですが少佐、私たちの間に上下関係があるのは確かです。どうぞこちらにおかけください」
「マグダリス、彼は君のために席を温めておいてくれたんだ」
ミルトが言うので、ヨリスは仕方なくもう一度腰を上げ、場所を変わった。
少しの沈黙。
ヨリスが口火を切った。
「現在の都解放軍は、ロアング中佐と『魚』と呼ばれる人物の二名によって仕切られていると聞いたが」
ミルトはワインの栓を抜きながら答えた。
「『魚』は実在しない」
これにはアイオラとアウィンも目を丸くした。ミルトは四人分のグラスにワインを注ぎながら続ける。
「いる、ということになっている。そうすれば、もしも陸軍がロアング中佐を討ち取っても……わかるね?」
「なるほど。新総督は存在しない『魚』を恐れ続けざるを得ないわけか」
「ご名答。このことは我々だけの秘密にしてくれ。だが、まずは再会を祝おうじゃないか」
四人は互いに目配せをしあい、グラスに口をつけた。ワインは古く、酸っぱかった。
またもヨリスが口火を切る。
「野良の歌流民がいるな」
今度はミルトとアウィン、アイオラの三人が目配せをした。アイオラが尋ねる。
「どういうことでしょうか、少佐」
「歌に扇動されている民衆を見た。私も歌の力に抵抗しなければここにたどり着けなかっただろう」
「扇動だと?」
「無害なものだ。神がどうとか、生きて死ぬ意味がどうとかいう……」ヨリスはもう一口、安いワインを味わった。「ナイーブな悩みだ。だが切実な様子だった」
「神、ね」
「コティー中尉、アッシュナイト中尉。君たちは神の存在が民衆の意識に上ったことについてどう思う」
「どうとは……」アウィンは口籠る。「この場合の神というのは、言語生命体の創造主である地球人のことでよろしいでしょうか?」
「いいや。恐らくは地球人の創造主であり信仰の対象であった唯一神のほうだろう」
「唯一神信仰は言語生命体にも認められていた時期がありますね」と、アイオラ。「今は異端信仰として細々と生き延びているだけですが。私たち言語生命体は、千年前の文明退化と同時に神から切り離された存在です。地球人からも、唯一神からも」
「だが唯一神という概念自体は
「恐らくですが、少佐、民衆は神という概念を持ち出さなければならないほど……」
アイオラは言葉を探す。ヨリスは切れ長の目を元部下に向けた。
「続けろ、コティー中尉」
「神を持ち出さなければならない……そう……民衆には新総督も、日輪連盟も見えていないのでしょう。月環同盟も……都解放軍も、ゼフェルの後継軍も眼中にない……恐れながら少佐、何も見えていないのは民衆ではなく我々のほうかもしれません。我々、武器を手に戦っている者のほうが」
「そうかもしれないな」
俺たちは現象を見ている、とヨリスは考えた、だが意味は見ていない。不安定な天の巡り、新しい命が生まれないこと、それらの指し示す意味を。
「もしかしたら我々は」
全員が緊張して、ヨリスの言葉を待っていた。
「空間的にでも、時間的にでもなく、本質的に神から引き離された存在と成り果てたのかもしれないな」
それは、どこか心を寒々しくさせる言葉だった。
「意味とはなんだ?」
ヨリスはふと、自分の掌に目を落とす。
「我々は意味を求める。日常の些事や職務上のことは当然として、生きることや死ぬことに対してさえもだ。それは何故だ?」
「それは、言葉に意味があるからかと」
思いもしないアウィンの言葉だった。全員の目が一斉にアウィンに向けられた。アウィンは驚いたらしく、萎縮して続けた。
「いえ、深く考えた上での発言ではありませんでした。申し訳ございません」
「謝る必要はない。しかし、いかにも我々は言葉でものを考える。意味の探究がその性質から来ていると考えるのは面白い発想だ。私にはなかった」
「マグダリス、君はどうも件の歌流民に影響されているようだね。だが有意義な思索だ。世界は何故あるのか?」
「世界の意味を
「一つ確認させてもらおう、マグダリス。君は、人や世界に意味が『ある』という前提に無意識のうちに立っているね?」
「……ああ」ヨリスは認めた。「もし我々に生きる意味などないのなら、意味という概念を持たず、生きる意味などないのかもしれないという可能性に想到することさえなかっただろう。ならば、仮に生きる意味がないとしても、我々の存在には意味の受け皿たり得る可能性があるはずだ」
そう言って、歌の影響を洗い流すように、ヨリスはワインを喉に流し込んだ。
ミルトはボトルを寄越したが、二杯めを飲むつもりはなかった。
※
西の山の端にかろうじて引っかかっていたような残照が、次第に赤みを増してきた。太陽が、持ち直したように空に戻ろうとしている。空は今や瀕死の病人だ。良くなったり、悪くなったりを繰り返し、日に日に悪いほうへと傾いていく。
その先は、死だ。
戦いやんだ保安局本部を望む塔の上で、エルーシヤは膝を抱えていた。彼女は何も変わっていなかった。空腹で、ふらつき、泣いていた。ただ、自分で創った歌を、呟くように口ずさむ。
『神様 勇気ト善意ヲ私ニクダサイ』
西から昇る太陽に、あかぎれだらけの手を伸ばす。
『生キテ死ヌ 意味ノタメニ……』
そのとき、強い風が上空の雪雲を吹き散らし、周囲が明るくなるのを感じた。太陽は動いている。雲は割れなかったが、朝日を浴びることはなかったが、それでもエルーシヤは希望を感じた。大丈夫、日はまた昇る。
だが、エルーシヤが昇る太陽を目にするのはこれが最後となった。