メイファ・アルドロスという女
文字数 5,538文字
コブレン自警団は運営資金の大部分を、他の暗殺組織を抑圧し、締め上げることによって得ていた。
暗殺者たちが誘拐され、拷問され、殺され、その屍が下水路に投げ捨てられる一方で、極秘裏に栽培された薬物は焼き払われ、脅迫によって市民から巻き上げられた金の大部分が持ち主に返還され、誘拐された少女は親もとに返され、辻斬りは防がれ、打ち捨てられた屍は野に見出されて丁重に弔われる。
そうした仕事を請け負う特殊部門の団員たちと一般の団員たちの区別は、市民の目にはつかない。市民たちはコブレン自警団の団員を誰であれ恐れ、どこか遠巻きにしつつ、その存在が自分たちにもたらす恩恵を理解していた。
鉱山街の日暮れの気配は、平地よりも早くくる。
九時。閉門の鐘が鳴り、一日がゆっくり終わっていく。まだ十分に明るいうちに、旅人たちは宿に落ち着き、市民は
十一時。
空が薄紫に暮れ、西の山の
中肉中背。その身の丈にぴったり合う、上等な仕立ての若草色のマント。袖口から伸びるしなやかな指の肌の色は
「ワレ信ズ 不滅ノ光
時ノ
黒髪をみずら結いにし、優しい丸みを描く顎はやや上方を向いている。少し細いが小さくはない両目には、抑えていながら、しかしはっきりと、笑みが宿っていた。
女はステンドグラスの体を持つ
猪よりもずんぐりし、馬より背が高く、象より少し短い鼻を持つ体毛のない生き物の両目はくるくる回る六芒星。
女は歌う。歌い続けて人を待つ。
掃き寄せられた陽光の名残は峻険な山並みへと運び去られる。
空は色みを変えていき、その藍色の濃さを背景に、我が物顔の星が一つ、また一つ。茜の残光が消え去るや、天球の回転が、赤々とした星雲を連れてきた。
何も知らずにミスリルとレミが自警団の正門を出たのはその頃。同時に裏の巡回路を回るのはテスとアエリエ。
二十人もの見習いを引き連れ、鈴を振り鳴らし、歌い、街の影を払い、しかし夜の影を払うことはかなわず、進み続けた一行はついぞ鏡の広場でその女と出会うのだった。
※
遠い昔、神は地球人を創造し、地球人は言語生命体を創造した。言語生命体の上に創造主として君臨することで、地球人は神になろうとしたのだ。
支配と抑圧。抵抗と戦争。血みどろの世紀を経て、言語生命体たちは地球環境化されたこの惑星アースフィアを勝ち取った。ないし、惑星アースフィアに閉じ込められた。
地球人との協定に基き文明退化が推し進められる一方、言語生命体たちは、地球人たちが予期しなかった技術を進展させた。
歌を操り、自我の薄弱な獣の体内の言語子に働きかけて、星獣へと作り変えること。
体内の言語子の変質が制御不能な場合、それは言語崩壊と呼ばれる現象を引き起こす。
ひとたび言語崩壊が引き起こされれば、もとが人であれ獣であれ、言語子を補おうとして同胞の血肉を欲し共食いになる。そうして不気味に結合し、バケモノの姿で固着する。
言語崩壊によって生み出されたこのバケモノは、言語子操作によって生み出された星獣と区別して、
※
とにかく、ミスリルの眼前には透き通るステンドグラスの星獣と女がいた。
その横腹にうごめく赤、青、緑の三角形のモザイクと、回る六芒星の
二人で茶会でもできそうな見事な
その光景の異様さゆえ、引率のミスリルも、またレミも、しばし態度を決めかねた。巡回者の一行に気付かぬわけでもあるまいに、女は歌い続ける。
ミスリルはまず、十代前半から半ばまでの見習いたちに目配せし、動くなと合図した。彼らを背後にかばい、ハンドサインを見せつける。
『いざとなったら逃げろ』の合図だった。
「おい」
態度を決めたミスリルが、低い声で乱暴に呼びかけながら星獣へと足を踏み出した。レミが息をのみ、何か言おうとした。ミスリルは歩み寄りながら、腰帯に挟んだダガーの柄に左手を置く。だが星獣がひとたび牙を剥けば、そのような武器には意味はない。
ミスリルの前進を受けて、女は歌をやめた。初めから巡回者たちの出方を待っていたのだ。
歌がやめば、周囲の沈黙はひたすら重い。天籃石の光の届かぬ四方の暗がりにはいくつもの目がある。
それには既に矢がつがえられていると考えたほうがいい。
レミが動く気配。
ミスリルは素早く右腕を突き出して、『来るな』のハンドサインを見せた。
おびき出されたにしても、矢を受けるのは俺ひとりでいい。その覚悟を知らせる。
「しっつれ~い」
ミスリルとは対照的に、女はどこまでも愉快そうだった。
「コブレン自警団の方ですね、
「探し物って?」
問うミスリルの
女の唇の端が、左右対称に釣り上がる。笑う両目には隠しようのない不穏があった。
「運河に捨てられた哀れな男を殺した犯人です」
視界の左端で、どこからともなく人影が、広場に飛び降りてきた。
「その人に何もするな!」
声でわかった。
裏の巡回路を担当するテスだった。
テスは早口で言い、といっても、彼の早口は他の人間の普通の喋り方と同じ早さでしかないのだが、音もなく駆け寄って光に身を晒し、女ではなくミスリルに話し続けた。
「わからないのか?」
ミスリルは、テスにちらりと目を向けた。それを受けてテスは続ける。
「その人がマントの下に着ているのは神官服だ!」
その一言はミスリルを新たな緊張で貫いた。
今度は右側から、新たな人影が歩み寄ってくる。
「さっきの歌は
アエリエだった。声は涼やかで、言いようもなく張り詰めていた。
ミスリルは目を星獣の鞍に立つ、メイファと名乗る女に戻した。
「今朝がた殺された男はトリエスタの民兵でして」
その声音は、場の空気にも、話の内容にすらも関わりなく、歌うように楽しげであった。
「さる神官団から盗品回収の任を請け負っていたのです」
メイファは右手を水平にあげた。芝居がかった動作でその手を腹へ。腰を九十度に曲げて深々と一礼。そした再び直立すると、若草色のマントを脱ぎ捨てた。
「いかにも、私はシオネビュラ神官団二位神官将補メイファ・アルドロスでございます。以後、お見知り置きを。また会いましょう。何度でも探しに来ますよ」
テスの見立て通りだった。マントの下から現れたのは、マントと同じ若草色の
「その盗品は、人や星獣の多いところにあるべきものではありませんので」
メイファは鞍に
全ての気配が消えてから、ミスリルは自分がある種の硬直に陥っていたことに気がついた。
解き放たれたように息を吸い込み、決断した。
「テス! 俺と一緒に来い! アエリエとレミは後を頼む!」
誰にも反論を許さずに、地を蹴り走り出した。暗がりへ。塀に手をかけ、飛び乗り、そこから民家の低い屋根に飛び乗る。屋根から屋根へ。倉庫の屋根へ。工場の塀へ。工場の屋根。製粉所の屋根。製粉所の水車から果樹園の柵へ。
ともに果樹園を駆け抜けながら、テスがゆっくりと尋ねた。
「ミスリル。戻って何をするつもりだ?」
「決まってるだろ」
ミスリルは早口で、しかし決意に満ちて冷静だった。
「あの客人を締めあげる!」
息
東棟の玄関を通らず、昨夜のようにアーチの通路も通らず、建物の外壁に沿って敷地の北へ。
客人は北の離れの小塔に泊まっている。
裏には菜園が広がり、普段は鶏を放している。もちろん今はみな鶏舎におり、塔の入り口の階段で、リージェスが一人頭を抱えていた。
咄嗟の判断でテスは建物に張り付くように背中をつけ、姿を隠した。ミスリルはそのまま突っ走った。
リージェスが顔を上げた。
「……なんだ?」
ミスリルは速度を落とさなかった。
リージェスが腰を浮かす。
「おい――」
驚くリージェスに行動を許さず、ミスリルは扉を蹴り開けた。ホールに蝋燭の灯りがあるのは、世話をするための見習い団員が塔に留まっているからだろう。
リージェスの大声の制止も意に介さず、ミスリルは奥の階段を三階まで駆け上った。
客室の木戸をまたしても蹴り開ける。
若い娘の歌声が少し聞こえ、絶えた。
ベッドに腰掛けていたリレーネが、怯えた顔でミスリルを凝視した。
ミスリルは『それ』を見ても怯えなかった。
自警団から貸し出された来客用の部屋着をまとい、リレーネは数秒前までくつろいでいたのだろう。
リレーネの揃えた両膝。
その上に、夜空から盗み出されたようなひと抱えほどの大きさの満月が、浮遊していた。
遅れて階段を駆け上がってくるリージェスの足音にも、ミスリルは蒼ざめた球体から目を離さない。
リレーネが震える足で立ち上がった。直後、背後に迫っていたリージェスが何者かに押し倒される音と気配。
室内に一歩踏み込みながら、ミスリルは視界の端で、リージェスを組み敷くテスの姿を確かめた。リレーネは言葉もなく後ずさる。部屋は狭く、逃げ場はない。
さらに、後から誰かが駆けてきた。
「ミスリルさん?」
驚きを込めたその声で誰かを判断し、月からも、リレーネからも目をそらさずに、ミスリルは命令を下した。
「ジェスティ、その男から武器を剥ぎ取れ」
「その必要はない」
リージェスが答えた。
「見られたからには抵抗はしない。ましてあんたらの拠点で暴れるつもりはない」
「武器を剥ぎ取れ」
命令を重ねる。
「はい、ミスリルさん」
銀髪の少女は忠実に、床に組み敷かれたままのリージェスから剣を取り上げた。身体検査をして、ナイフやその他の武器を探る。
ジェスティは十六歳。見習い期間は十七歳で終わる。特殊部門に配属されてほしいとミスリルは頭の片隅で思った。彼女は賢いし、戦闘訓練の成績も優秀だ。何より度胸がある。室内の異様な『月』を
ジェスティが没収したサーベルとナイフとを床に並べ終えると、ミスリルはようやくリレーネに声をかけた。
「聖遺物を盗んだな」
「盗んだのではありません!」
リレーネと、
「盗んだわけじゃない」
リージェスが同時に答えた。
忌々しげにそれを破ったのはリージェスだった。
「その娘から離れろ」
「そのざまで脅迫するつもりか? いい根性してるよな」
「それが答えか」リージェスも引き下がりはしない。「
「その呼び方やめてもらえませんかね、『お客様』」
「事実と何が違う」
「争いあうしか能のないザコどもと一緒にするなってことさ。金持ち喧嘩せずって言うだろ? 余計な血を流したとあっちゃコブレン自警団の名折れだ」
テスが拘束を緩めたようだ。リージェスの体が床を打つ音。振り向くと、リージェスは膝立ちになり、テスとジェスティに警戒されながら緩慢な動作で立ち上がった。
賢明にも彼は、二人の暗殺者と一人の見習いを刺激しようとはしなかった。両手を上げて室内へと進み、先ほどまでのリレーネと同じようにベッドに腰掛けた。
「聖遺物を盗んだんじゃないなら」ミスリルの呼びかけに、リージェスは疲れた濃緑の目を向ける。「これは何だ?」
「見ての通りだ」
疲れていても、頭ははっきりしているようだ。彼は正気のまま答えた。
「見ての通り、俺たちは月に