正当性と被虐愛
文字数 6,604文字
「市の財産がですね」
北ルナリア副市長ジェレナク・トアンの杖が、コブレンの
「
ガツッ! と音をたて、もともと亀裂が入っていた石畳は半分に割れた。
「現金、貴金属、宝石類、手形、帳簿、穀物、一切です。一切合切です!」
この男らしい
第二公女エーリカ・ダーシェルナキとトアンの間を、降りしきる雪の幕が遮っていた。もちろんコブレンの
多くの家は壁のどこかしらが打ち壊されて内部が剥き出しになり、また別の家は内側から焼き払われていた。黒い煤が窓から伸びて外壁の色を変えているため、コブレンの戦いが行われた日の風向きがよくわかった。知りたくもなかったが。
「至らぬ弟のしでかしたことは、いかにも新総督の顔を汚す当家の恥……」
エーリカは眉をひそめながら、心の中ではこう悪態をついていた。
カーラーン。生きて会えたらお前の出来損ないの頭を肥溜めにぶちこんで窒息死させてやる。首を洗って待ってろ。
「
「
トアンは市場を見下ろす集合住宅を大仰な手振りで示した。
「殿下のお慰めを」
「慰めるですって?」
そこには死者しかいなかった。コブレンの戦いから一週間が過ぎたが、戦闘に巻き込まれた市民の遺体は打ち捨てられたままだった。日輪連盟の将兵たちも、敵味方の兵を埋めた後は、葬儀を続けようと誰も言い出さない。
市民の埋葬は市民の手に
エーリカは頭上の死体からトアンに目を戻した。
「お
「加害者ですと」
「あなた方の部隊は投入した星獣を制御できませんでした」
「何を仰います」
「副市長殿」
エーリカの声が低くなる。
「
「殿下、いかにも私は民衆の
反対に、トアンの声は高い猫なで声に変わった。
「私は、かの前トリエスタ伯の末路をこの目で見ておりましたので」
エーリカは心の中で舌打ちする。失言だった。トアンは勢いづいて尋ねてきた。
「ところで殿下、そのう、現在のトリエスタ伯が殿下とのご結婚を望んでいらっしゃるというお噂をかねがねと伺っておりますが」
「あら、婚約の件でしたら既に成立しております」
エーリカは毛織りの手袋を取り、
「おや、まあ、これは」
トアンは本当に驚いていた。
「存じ上げませんでした。これは大変、失礼をば」
「祝福は結構ですわ」
「そうはいきません、殿下。いやはやしかし、私のもとにはお招きはおろか、
「北ルナリアの兵を率いて戦地におられたゆえ、当然のこと。私は人を招くどころか、式を挙げる必要すらないと考えておりましたの。この戦時に私めの結婚祝いに駆けつけるよりも、諸侯や資産家の方々にはするべきことがあるはずですわ」
これはトリエスタ伯オロー家の
私の男はゼラだけなの。
ゼラ・セレテスだけよ。
「挙式は星獣祭の最終日でございますわ。内々の式です。それで、副市長殿」
エーリカは従卒から手袋を受け取り、はめた。
「本来保護すべきであったコブレンの市民に対し、あなたは指揮官の一人としてどのような補償をご提案なさるおつもりなのかしら」
「正直に申し上げますと、殿下、現在のところ私には何の考えもございません」
エーリカは微笑みながら、トアンの瞳を冷たい目でじっと見つめた。
「というのも、市民への補償が喫緊の課題であるとは、私にはとても思えないのです。星獣の暴走は敵軍及び市内の武装勢力が引き金となった偶発的な事故でございますから、戦後の処理の課題として保留されて
「あなたの言う戦後が訪れるまで、星獣を他の都市にも解き放つおつもりでございますね?」
「我ら日輪連盟軍への断固たる抵抗を表明する者たちも、この新しい星獣たちを目にすれば、考えを変えることは間違いありません。そのほうが戦争は早く終わり、無用な死者を出さずに済むというものです」
「それは
トアンが眉を上げ、下げた。その後ろを象の星獣が兵士たちにひかれて行った。象牙の歌を歌いながら。
「……醜悪な」
「殿下にはお気に召しませんかな?」
「見えたのですわ、星獣が人を統治する未来が。あれは人には制御できません」エーリカは右の肩だけを竦めた。「今まさに、私たちは地球人と同じ
「どのような意味ですか?」
「地球人と言語生命体が同じ科学力を有していた時代にさえ、地球人たちは特別な方法で我々の先祖を治めておりました。おわかりになりませんか?」
「わかりませんな」
「強い武器の価値を裏打ちする、唯一神の被造物としての正当性です。地球人にしか持ち得ない正当性」
強い風が吹き、エーリカの首を温める毛皮が口に入った。エーリカは唇の右端についた毛を取り去り、風に乗せて飛ばした。
「その正当性を盾に、地球人は宇宙艦隊をアースフィアの宙域に展開した。それは今なお私たちの恐怖」
「地球人統治時代の晩年には、言語生命体に対しても唯一神信仰が解禁されたと聞きますが」
「そもそも唯一神のもとの平等という理念を抱えた一部の地球人のみが」
今度は左から強風が吹き、唇の左端に毛皮がこびりつく。
「……一部の地球人のみが、言語生命体とともに、地球環境化された惑星アースフィアに移り住んだ。それがこの星の歴史の始まりでした」
「ですが差別は繰り返され、平等は神とともに遠ざけられ――」
エーリカは唇の左端から毛を取り去ると、その手を天に向けた。雪雲が隠す天球儀、さらにその奥の、いつ大陸を焼き尽くすかも知れぬ宇宙艦隊がある場所を。
だが今見えるものは雪と雪雲だけだった。
「ですが、私たちの先祖は決然と『平等』を選び取りました。武器を握りしめ、私たちの創造主である地球人を神の座から撃ち落とした」
手を下ろす。つむじ風の中で、エーリカの両手はそれぞれ反対側の肘を握りしめた。
「あなた方が歌う星獣による統治を始めれば、まさにその歌う星獣の存在によって玉座から撃ち落とされることになりますわ」
「いやいや、私たちは何も神になろうとしているのではございません」
「開発競争が起きます」
エーリカは断言した。
「必ずや、敵勢もあれと同じものを手に入れます。大陸が荒野となり果てるまで、試作と投入が繰り返し行われることに。このようなことを言わなければならないのは悲しいことですわ。副市長殿、ある一つの点においてのみ地球人は我々に正しいことをした。再発明の禁止です。あれは――」
「殿下! 殿下! あれは再発明による産物ではございません! 我ら言語生命体が、歌という独自の文化から生み出した純然たる発明品ですぞ」
笑い始めたトアンの後ろから、まだ象牙の歌が聞こえていた。市内の巡行だ。遠ざかっていく。
エーリカは本音をぶちまけたくなった。
笑ってんじゃねえよ、殺すぞ。
「あれが? あのような醜い兵器が我々の純然たる発明品であると? 副市長殿は本気でそのようにお考えで?」
だが、もちろんぶちまけなかった。
地球人が言語生命体の神ではなかった時代が確かにあったのだ。連中もまた、自分たちと同じく人だった時代が。
倫理の背後にある神=地球人を失ったとき、言語生命体には新しい倫理と価値観が必要だった。それに
素晴らしい時代が来るはずだった。
なのに結局、先祖たちは地球人が去った『囲いの大陸』で、再び地球人たちを神の座につけた。いなくなった地球人を。
その果てに創り出したものが、あれ。
エーリカはふと疑問を抱いた。
「……とにかく
「お待ちください、殿下」
予期せず呼び止められた。
「以前、北ルナリアで星獣の歌に『伝染』した自警団員の件について報告が済んでおりませんので」
それで、一度は背を向けたエーリカも、改めてトアンと向き直った。
北ルナリアで会ったアズとトビィとレミの三人を、もちろんエーリカは覚えていた。ある条件と引き換えに違法に住みつくことを許可した貧民たちは、洗濯物に見せかけた信号ではっきりこう伝えたのだ。
『男が一人、核心部の紋様と物理接触した。伝染の可能性高し』
トアンが羊皮紙を差し出した。アズとトビィの人相書きだった。
「市街戦の日に、確かにこの二人を見たという市民はいるのですが、
「逃げおおせたのかしら」
「むしろ彼らと戦って逃げ出したという商人の話を聞いたのですが」
トアンは顔をしかめた。
「二人のうちの一人は殺した、とのことです。なにぶん同じ顔ですので、伝染したほうかそうでないほうかはわかりませんが」
「死体は?」
「見つかっておりません」
「逃げ出した人ではなく、他の人の話を聞くことはできないかしら。死んだというほうの死亡確認をしたのはどなた? そもそも確実に息の根を止めたのかしら?」
「聞くことはできません。逃げ出さなかった者は皆殺しの
「あら、そう」
苦々しい思いが顔に出るのをエーリカは隠さなかった。よく訓練された武装商人の部隊が、しかも新型兵器の星獣たちを従えた部隊が、皆殺しに? 相手は二人か、せいぜい三人だというのに。
「もし仮に、の話ですが」
「
「生き延びたほうが伝染したほうであれば、彼は星獣の歌を聞いたはず。そのときに、どうすればいいかわかったはずです」
促さずとも、トアンは喜んで話した。
「彼自らが星獣となり果てるとき、変化する総質量を補うために兄弟の亡骸を
エーリカは羊皮紙に目を落とす。
ああ、二人とも、せっかくの美形なのに。
もったいない。
「よくわかりましたわ、副市長殿」
羊皮紙を突き返しながら、エーリカは無愛想に言った。
「あれが発明品か再発明品かなど、実にどうでもいい問題でした。問題のうちにも入りませんこと」
「殿下」
その呼びかける声で、エーリカははっきりとわかった。トアンはリジェク神官団と共に準備を始めるのだ。第二公女エーリカと
「地球人による再発明禁止は正しいことだったと、本当にそのようにお考えですか?」
「これから正しくなりますわ」
「すなわち我々言語生命体は野蛮であり、発達した文明を持つに値しない存在であると」
「そのような被虐愛はしばしば気味悪く感じられますわね」
エーリカは自分の馬に近付いた。
「理由は簡単。その思考には、どのような時流や個人の状況にも訴えかける力があるからですわ。屈従を余儀なくされた際に、自分の側に非があるという考え方の甘美さに飛び付かずに済ますのは至難の
トアンから顔を背けぬまま手綱を取る。
「
「語歌の世界では、天球儀は我らの生命維持に必要だから語られるのですぞ」
しつこく話しかけてくるトアンに首を振る。
「それは、果てなき昼の王国だの、明けない夜の王国だのが歌われる場合のみですわ。確かにそれらのお話の世界では、天球儀は光と熱を循環させるシステムとしてアースフィアに必要な存在」
クソ
エーリカの内なる声が毒づいた。
天球儀。お前の存在意義なんて、昼と夜が正しく巡るこの世界には存在しないのに。一体どういうつもりで私たちの頭上に輝いているの?
あるいは。
あらゆる象徴に意味があるのなら。
私たち自身が求めているの?
天球儀を。
私たちには必要なの?
あの鳥籠が。
「では、今度こそご機嫌よう。どうか最後に覚えてらして。システムでも、物でも、被造物は人に
侍従長ララセル・ハーティは、エーリカより六歳年上の二十四歳。一年前、好色な姉のシルヴェリアが唾をつける前にエーリカが専任護衛に指名した。エーリカとしては助けたつもりである。
ララセルはエーリカが日頃望んでいる通り余計な挨拶を一切せず、エーリカに語りかけた。そのためトアンの存在を無視する形となった。
「お話し中でしたでしょうか」
だが、それでいいのだ。この男には。ララセルもわかっている。
「終わりましたわ。構わなくてよ」
ララセルは風雪で青白くなった顔を寄せ、エーリカの耳に囁いた。
「日輪連盟軍の偵察部隊がカーラーン・ダーシェルナキを捕捉しました。現在カーラーンは残余の兵を率いて裾野の森林をミナルタ方面に移動中」
ミナルタか、とエーリカは噛み締める。シオネビュラ方面に抜ければ待ち伏せがいると読んだのだろう。
「わかりました。ハーティ大尉、あなたはあなたのルートで巡視を継続なさい。指揮所で落ち合いましょう」
ララセルを去らせ、今度こそ騎乗する。が、馬の首を返すとき、しつこいことにトアンがもう一度口を開いた。
「地球人から自立できない我々、という以外に、天球儀を全く新しい象徴にする解釈も可能であったかもしれませんが」
エーリカは、馬上から、荒れ果てた市場に立つトアンと彼の護衛たちとを無言で見下ろした。
「
馬の腹を軽く蹴る。
あえて返事はしなかった。