犠牲は崇高
文字数 4,978文字
都では、雪が鬱陶しく人々の肌にまとわりついていた。陸軍の荷馬車が派出事務所の裏口につけられ、運送人が食料を中に運び込む。その隙をつき、三人一組の『ゼフェルの後継』が荷台に乗り込んで、黒パンやチーズをちょろまかしていた。
ゼフェルの後継たちは、着々と蜂起の準備を整えつつあった。蒸留所の摘発以来、食糧や武具は以前に増して厳重に保管され、彼らが経営する工場や自宅は内側から要塞化されていた。
蜂起の可能性が現実的になるほどに、雪を歩くリグリーの憂鬱は深まっていく。
どうすれば、指導者コルの態度を軟化させることができる?
※
アセル・ロアング中佐は乗り心地の悪い馬車の中で、リアンセのことを考えていた。彼こそは南西領陸軍情報部特務機関局の元局長、今は
リアンセが今どこにいるのかアセルは把握していなかった。今や各地に散らした情報部員の半数が消息不明となっていた。
命を落としたのか。
息を潜めているのか。
よもや天変地異を前に指令を忘れたということはあるまい。
アセルは考えても仕方がないこととそうでないことの区別がつく人間だった。だが今は考えていたかった。何でもいいから考えていないと――馬車酔いで吐きそうだ。
ガタン! 車が跳ねる。胃液が喉までせりあがり、気をそらすものを求めてアセルは窓のカーテンを開けた。
馬車はアセルがよく知っている地区の、円形広場にいた。雪つぶてを投げ合って遊ぶ三人の子供が見えた。揃いの服を着ている。兄弟だろう。
窓を細く開けると、父親と思しき人物が三兄弟に声をかけるのが聞こえた。
「そろそろおうちに入りなさい。夕ご飯ができているよ」
「夕ご飯じゃないよ、パパ。お昼ご飯だよ」
「いいや、夕ご飯だ。ごらん。太陽があんなに傾いてるじゃないか」
「そんなのおかしいよ! まだ遊び始めたばっかじゃんか」真ん中の子が口答えした。「僕、明るい間は遊びたいよ。いつ太陽が昇らなくなっちゃうかわからないじゃんか」
「やめなさい。パパはそんな話は聞きたくない」
アセルは深々と外の空気を吸うと、同じくらいゆっくり吐き出して、カーテンを閉めた。
「
唯一の同乗者、都解放軍のリャン・ミルト中佐を相手に自嘲する。
ミルトが尋ねた。
「何がだい?」
「君は私がもう何年も独身寮に住んでいる理由を知っているな」
ミルトはアセルと同年代の将校で、ヨリスが強攻大隊にいたときは同じ連隊に属していた。ヨリスにとっては一回り年上のミルトこそが唯一の友人と聞く。
「ご家族との仲がうまくいっていないと言っていたね」
「妻は私が忙しすぎるのが大層気に入らなくてね」
ミルトは同情を示し、眉を垂らした。
「たまの休日には、妻と息子が色々な問題を私に持ちかけてくる。私は寝転んで、あくびをしながら答えたんだ。『勘弁してくれ、そんな話は聞きたくない』
そういうことが積もり積もってな」
「確かに君は疲れ切っていたのだろうね」
「ある日、十七歳の一人息子が殴りかかってきた」
ミルトは細い目を見開いた。
「それは初耳だ」
「息子は完全に妻の味方でね」
「君はどうしたんだ?」
「殴り返した。そうとも。殴り合いになったさ」
また吐き気がこみ上げてきて、アセルは再びカーテンを開けた。
「この地区だ。この地区に私の家があり、妻子が住んでいる」
「そうだったのか」
「私は自分の父とも殴り合いをしたことがあってね……すまない、寒いが窓を開けていないと吐きそうなんだ。それに喋っていないと」
「構わないよ」
「父とは、妻との結婚を反対されたときにやり合ってね。その末に妻と結ばれたんだ。まさか後になって自分が息子によって家から追い出されるとはな」
広場を横切った馬車が、細い道へとカーブする。体が斜めに傾いて、アセルは両手で口を押さえた。
「うぷ……いや、大丈夫だ。失礼」
四十代の男二人は揃って青い顔をしていた。実はミルトも馬車酔いするタイプなのだ。
「ご家族とのことは残念だが、都は君を必要としているよ」
ミルトは気分が悪いのを隠して慰めた。
「もしかしたら、世界中が」
「冗談にしてもたちが悪いぞ。我々が都を取り戻し、『月』にまつわる真相を解き明かしたとして、世界の異変を止められると思うかね?」
「止められるかもしれないし、止められないかもしれないね」止められないとミルトは思っていた。「そのときになってみなければわからないさ」
アセルは窓を細く開けたまま、カーテンを閉めた。
「ヨリス少佐はあとどれくらいで都に戻ってくる?」
「旧ミナルタとの連絡は絶えているが、ミナルタが中立破棄を宣言するまでには間に合うね」
「自信があるのだな」
「彼は私の義兄弟だ」
戦場で命を救われて以来、ミルトはヨリスを義兄弟と呼んでいた。
「私の義兄弟がいるべきときにいないなど、考えられないよ」
馬車が、
空気は喉を刺すほど冷たいが、そのほうが気持ちよかった。吐き気が回復するのを待って、アセルはレストランの戸口に歩み寄る。
扉には貼り紙がされていた。
〈本日貸し切り〉
扉を押し開く。
鈴が鳴った。
入ってすぐ右手は無人のカウンター。奥には楽団や踊り子のための舞台。左手にはテーブルが並ぶが、そこも無人だった。店内は全体的に薄暗く、ただ舞台を見下ろす吹き抜けの二階席の一部に白色光が見えた。
あらかじめ決められた合言葉を、アセルは二階席に放った。
「卵料理がほしいのだが、あるかね?」
声が冷たく響く中、後ろでミルトが扉を閉めた。二階へ上がる階段の上に人影が現れた。
女性だ。
その人にアセルは尋ねた。
「リグレット・マレー嬢はおいでか」
「私です」
女性、階段上のリグリーは足早に一階へ下りると、アセルの前に立った。
「お待ちいたしておりました、アセル・ロアング中佐。書状でのやり取りはありましたが、ようやく対面がかない光栄です」
「
元
中佐だ。君は軍人が嫌いかね」「いいえ。平和のために手を取り合えるなら、決して」
リグリーが手を差し伸べる。アセルはニコリともせずに握手に応じた。
「手を取り合えるといいのだがね」
アセルは、シルヴェリアから一つの明瞭な指令を受けていた。
『いかなる理由があろうとも、月環同盟の許可がない限り武装蜂起をしてはならない』
こういう意味でもある。
『他のいかなる武装勢力に対しても蜂起を許してはならない』
「お二階へどうぞ」
皮肉を聞き流し、リグリーは長いスカートを翻して二人を導いた。
「私のことはリグリーとお呼びください。皆、そう呼びますので」
二階の一番大きなテーブルで、三人の男女が待ち構えていた。そのテーブルが白色光の出所だった。天籃石の裸石が無造作に転がっている。
三人のうちで最も年嵩の男が立ち上がった。五十がらみで恰幅がよく、口髭を生やしている。
「私はゼフェルの後継軍の、呪つ炉の都における指導者コル」居丈高に名乗る男は、リグリーのように握手を求めはしなかった。「指導者としての仮名だ」
「私は呪つ炉都解放軍総長アセル・ロアング。お会いできて光栄です」
「同じく指導部のリャン・ミルトです」
ゼフェルの後継の幹部たちが立て続けに名乗る。アセルはそれが済むと着席し、直ちに本題に入った。
「私はずっと君たちと話をしたいと思っていた」
一同の顔に視線を巡らせる。
「私は君たちを尊敬している。本当だ。半年ほど前まで陸軍に籍を置いていた我々と違い、あなたがたは独力で一つの勢力を作り上げた。力になりたいんだ」
「どのように?」
「まずあなた方は星獣祭に合わせての蜂起を計画しておられるが、もしそれを遅らせられるなら、我々はあなた方に対し、十分な量の装備を用意できる」
「我らゼフェルの後継軍は五千の兵力を擁している」
コルの返事をアセルは鼻で笑いたくなった。下駄を履かせすぎだ。五千とは。
「無論、それに見合う装備も都の内外からかき集めている。あなた方の提案がそれだけならば、我々が乗る理由はない」
コルという人物は天性の見栄っ張りだとアセルは結論づけた。その上で、困ったように切り出した。
「その星獣祭だが、実行できるかどうかすらわからない」
リグリーが浅く頷くのを視界の端で捉えた。
「今や時間の巡りは不安定で、工場は停止し、都市機能は麻痺へと追い込まれている。しかも食料や燃料不足の問題は解決されないまま。民衆はヒステリー直前、どのような騒動が武力闘争を惹起するかわからない。コル殿、新総督の武装商人に対する粛清を覚えておられるか」
アセルは強情な面構えのコルをじっと見詰めた。
「新総督は民間人を躊躇なく巻き添えにした。あなた方が単独で蜂起すれば、
アセルが言葉を切っても、コルはすぐに返事をしなかった。ミルトが畳み掛ける。
「我ら異なる勢力が個別に蜂起したところで、個別に鎮圧される結果となることは目に見えています。元より日輪連盟軍と我々の戦力差は絶望的であり、さらにトレブレンーコブレン間道路を通じて新型星獣兵器が都に輸送されつつあります。この状況で勝利を得るには、外部から都を攻撃する月環同盟軍との連携が不可欠なのです」
「あなた方は誤解をしているが」コルが答えた。「我々は戦争をしたいのではない」
アセルもミルトも、何を言われたのかすぐにわからなかった。
「我らゼフェルの後継の理念は永遠の平和。創造主たる地球人の恩寵を受けるに値する種族として言語生命体の意識を改革するべく存在しているのです」
「コル殿、それでは都で戦力を集めて何をなさろうと?」
「第七監獄に囚われている星獣技師たちを解放し、来たる星獣祭で披露される新型星獣を我らのものとする。そしてそれを、大陸のあらゆる軍事力に対する抑止力とし、永遠の平和を実現するのだ!」
つまり、何が言いたいのだ?
アセルは精一杯に頭を回転させた。
恐らくこの男は、新型星獣兵器は大陸のあらゆる軍事力に対する抑止力になり得るほど強大無比なものだと思っているのだ。
そういうことだろう。
アセルが考えている間にもコルは喋り続けた。
「武装蜂起はそのための必要悪。その先にある永遠の平和のためならば、いかなる報復があろうとも立ち止まるわけにはいかんのだ」
「コル殿。いかにも新型星獣兵器によるコブレン陥落は衝撃的な事件だった」
アセルは優しげに諭した。
「だが、二重環状城壁を有するコブレンがあれほどの惨禍に見舞われたのは、新型星獣兵器の威力というよりも、コブレン側の指揮官カーラーン殿下の能力不足に負うところが大きい。星獣兵器は決して過大に評価されるべきではないと思うのだが、あなた方はどうしてもそれに固執されるのか」
「星獣こそは言語生命体による純然たる発明品」
コルは同じ内容を、言葉を変えて繰り返す。
「それによって永遠の平和が成される可能性があるならば、我らに捨て置くことはできない。そして星獣祭の日こそが栄光の日に相応しいのだ」
理屈が通じない相手なのだと、アセルは遅まきながら理解した。この男は自分の崇高な理念の虜となっている。
「酸鼻を極める報復がなんだと言うのだ」
「コル、聞いて」
思わぬことに、リグリーが口を開いた。
「創始者ゼフェルはこう説いたでしょう。犠牲は崇高なれど、不用意な犠牲を捧げる者は――」
「黙れ、リグリー! 貴様も腰抜けか!?」
アセルは落ち着き払って口を挟んだ。
「貴様『も』、とは」
さすがにバツが悪いのか、コルは渋面を作り、言った。
「我々の蜂起の意志は変わらない。それだけご理解いただければ十分だ」
ミルトが押す。
「不用意な犠牲を捧げるおつもりですか」
「ただ平和を成し遂げるのみ。永遠に反戦!」
一声叫んだコルは、今度はわざとらしいほど落ち着いて、この会合を締めくくる一言をゆっくりと宣言した。
「我々は、反戦を貫くためならば戦争をも