歌がそれを望むなら
文字数 3,698文字
歌が聞こえる。
説教をしていた人も、喧嘩をしていた人も、がなり立てるのをやめた。清冽な歌声によって、自分が間違っていることを思い出したのだ。旧く忘れられた約束を、意識には上らない、遥か遠く、自分が生まれる前には既に交わされていた約束を思い出し、人は立ち尽くした。落ち着きを取り戻した人々のうち、ある者は家路につき、ある者は歌が聞こえる路地へと吸い寄せられていった。
耳に布切れを詰めたアエリエがその路地にたどり着いたとき、物陰で、へたりこんだ十数人のシオネビュラ市民が一人の少女を囲んでいた。
歌流民だ。
二つの建物の間から、日差しが斜めに降り注ぐ。きらめく都市の塵を浴びながら、銀髪を腰まで伸ばした少女は、美しい歌で民衆を骨抜きにしていた。その両手は教え諭すかのように胸の前で広げられていた。
少女は歌い続ける。
至福の表情だ。
座り込む人の間を縫い歩き、アエリエは少女の眼前に立った。少女は気にも留めない。
「ちょっと、いいかしら」
歌はやまない。その歌は、布切れの耳栓を貫通して心臓へと流れ落ちてくる。そして血流に乗り、全身に多幸感を駆け巡らせるのだ。ここにいれば大丈夫。この歌を聴いている限り、恐れることは何もない。恐れて何になるの? そもそもできることなんてないのに。だから、ちっぽけな使命感など忘れて、身を委ねて――。
誘惑に抗い、アエリエは重ねて言った。
「この世界で起きていることについて、あなたたちの意見を聞きたいの」
少女は旋律に乗せて息を吐ききった。
やっと、歌がやむ。
かと思えば旋律に乗せて返答が返ってきた。
「
その旋律が途切れると、人々が――目をつぶって眠っているように見える人さえも――声を揃えて唱和した。
「母様のところにお連れします」
その響きが消えぬうちに、少女はアエリエの冷たい手を取って、路地の奥へと
足早に路地を縫い、喧騒やまぬ大通りに出る。異変の日までアエリエやミサヤを探し回っていた神官兵たちは姿を見せなくなっていた。
人混みをかき分け、長い橋を渡る。
次は上り坂だ。
喧騒から隔てられた、静かな高級住宅地に辿り着いた。少女が足を止めたのは、瀟洒だが特に珍しいところのない三階建ての屋敷だった。失われた技術で塗装された壁は、千年経っても汚れることのない純白。
だが、嫌でも気がつくことがあった。
家の内側から、歌の多幸感が滲み出てくる。
その証拠に、道ゆく人はこの家の前を通り過ぎるとき、足を緩めるのだ。細めた目を屋敷に向けさえする。
屋敷の門前で、少女は耳栓を外すようアエリエに指示した。確かに無礼だろう。心細く思いながら、アエリエは耳栓を取った。冬の風が耳の中に吹き込んできた。
少女がノッカーを使うと、すぐに玄関扉が開かれた。
「おお。お帰りなさいませ、エルーシヤ様」
歌流民にはよくある名前だ。現れたこの慇懃な中年男は、歌うときにしか声を出さない歌流民たちと俗世間を繋ぐ世話人だろう。少女は世話人に向かってひらひらと手を動かした。その動きを解読し、男はアエリエに向かって頷いた。
「お上がりくださいませ。あなたが必要とする歌い手たちは、二階に上がってすぐの広間に集まっております」
燦々と光が注ぐ吹き抜けのホールに足を踏み入れれば、右手に裾広がりの白い階段があり、見上げれば、二階部分の手すりの奥に両開きの扉が見えた。
なるほど、その扉の向こうが異様な多幸感の
世話人と入れ違いに、アエリエは扉の向こう側に足を踏み入れた。
日当たりのいい広間のカーペットの上で、六人の男女が車座になっていた。アエリエが扉を閉じた瞬間、歌の
『あなたがここに来ることはわかっておりました』
その意味の、怒涛のような勢いよ! そして善意と温もりよ! 体が熱くなっていく。アエリエは半ば恍惚としていた。なるほど、熟練の歌流民が六人も集えばこのようなことができるのか。これならば――。
人を洗脳するなど容易かろう。
彼らは歌うために深々と呼吸をする。
アエリエは逆をいくことにした。呼吸を浅く早くするのだ。
『まずはシオネビュラの神官が来ました』
『次に様々な業種の
『私たちは彼らに語った、地球人たちはこの惑星を去ったことを』
アエリエは冷たく固い心で、意味だけに意識を集中した。
「何故、地球人たちが去ったということがあなた方にわかるのでしょう」
『地球人たちは、宇宙に溶けていきました』
『そのことを、リジェク神官団のもとで働いたときから我らは知っているのです』
「グロリアナの浚渫工事のこと?」
善意と温もりの圧力が、ふと弱まった。
「そこで見つけたもののことを言っているの?」
もしもアエリエとマナがシオネビュラ神官団に拘束されなかったら、ミスリルやリアンセと共に北ルナリア市長オドンナ・リューの言葉を聞いたはずであった。
オドンナは言った。グロリアナで見つかった聖遺物はただの箱。中には地球人の末路を示唆する文書が遺されていたと。
静寂の中で、誰かが階段を上がってくる。
扉が開かれた。
「本日もお会いできて光栄です、皆さま!」
屋敷を満たす多幸感の残滓にあてられてか、現れた男は涙ぐんでいた。一面の笑顔だ。
「本日の捧げ物です。うちで一番いいアヒルをしめて参りました」
感謝の歌が始まって、善意と温もりが広がった。歌に心酔するシオネビュラ市民は、車座の中央に籠を置くと、名残惜しげに振り返りながら広間を出て行った。
これだ。これがこの氏族がしていること。歌の力で市民から食料を巻き上げているのだ。この屋敷だってどのように手に入れたことか!
男が滞在した時間は短かったが、アエリエが平常心を取り戻すには十分だった。
「私は地球人の末路を聞きに来たのではありません。まして未来を知りたいのでも」
唱和。
『あなたの願いを聞かせてください』
ひりつくような視線を顔に感じた。
ここにいる六人のうちの誰でもない。歌流民たちは誰もアエリエを見てなどいない。
鏡だ。
広間の壁を飾る、大きな、錆ひとつない鏡。
あの向こうに人がいる。
脇の下に汗が滲む。
誰がいるのだろう?
この氏族の長老か。
だとしたら、その人に歌われたらおしまいだ。
洗脳される。
「太古歌のことを聞きに来ました」アエリエの口の中は乾いていた。「壊れた太陽の
『素晴らしい語歌です』
「その歌の最後では、月が重要な役目を果たすと聞きます」
『その通り』
『お聞かせしましょう』
『あなたが望むのであれば』
「いいえ」
アエリエには一つだけ、よかったと思えることがあった。この場にマナを連れて来なかったことだ。
「私は、その『月』を持っています」
歌の圧が弱まる。
「この世界の異変は『月』を通じて来ています。このままでは、私たちの世界は『壊れた太陽の王国』のように滅びてしまうでしょう」
屋敷の異変に、体が勝手に反応する。アエリエは衣服の下で鳥肌をたてていた。
視線が強まる。
「私が知りたいのは、『月』を元の世界に送り返す方法、太古歌の領域に押し戻す方法」
どこか別の部屋で、再び歌が始まった。恐らく鏡の向こうの部屋で。歌の多幸感が空気を心地よく振動させる。
「そのために、あなた方の意見を求めて参りました」
六人の歌流民たちは、心を一つに声を放つ。
『それを送り返す必要はありません』
「なんですって?」
幸せな旋律が広間を満たした。隣室と響きあっている。
『固定化を拒み、常に移り変わることこそが歌の意思であり望み。これまでも、これからも、
「どういう意味でしょうか。私には――」
『太古歌は我らの意識の深みを映す鏡』
アエリエは眉根を寄せ、こめかみをつねった。
『語歌の世界のものがこの世界に送り込まれたなら、それは我らが望みしこと』
『我ら言語生命体全てが』
「ですが、このままでは私たちの世界は壊れてしまう」
『それこそが究極の、常なる移り変わり』
「私たちが世界の終わりを望んだと?」
『あなたは壊れた太陽の語歌の結末をご存じでないようだ』
『滅びの後には再生が訪れる』
「ならば滅ぶに任せよと仰るのですか」
氏族の心は一つだった。
『歌がそれを望むなら』
歌流民とは歌に仕える民。
アエリエは、今度は右の頬をつねった。そうしないと彼らの喜びに流されてしまいそうだった。滅びという変化、それが近いという喜びに。
狂ってる。
何も言わず、アエリエは
走り去り、高級住宅地を抜けて橋を渡る。
猥雑な都市の喧騒に紛れた。
人々は、大きな不安を抱えており、ちょっとしたことですぐ喧嘩を起こす。通り過ぎる家からは、夫婦喧嘩や子供の泣き叫ぶ声がしばしば聞こえる。
怒りを抱えた人々の中で、アエリエははっきり認めた。認めざるを得なかった。
もはや時間がない。
手詰まりだ、と。