黒き星の剣士
文字数 6,078文字
今度はニコシア・コールディー三位神官将が会議室への一番乗りを果たした。二位神官将レグロ・ヒュームと補佐官メイファ・アルドロスが後に続く。
勝利の後の沈黙は、重く苦しかった。メリクル正位神官将は十三時の鐘が鳴っても姿を見せなかった。太陽はとうに沈んでいる。その内に、メイファがヤスリを取り出して、爪の手入れをし始めた。心に余裕を持つのは結構なことだが、ニコシアにとってはただただ目障りだった。
硬い足音が迫ってきて、扉が開かれた。補佐官を伴って現れたメリクル正位神官将は、部下たちを制するようにまず口を開く。
「戦利品の分配も決まらぬうちからこのような報告をしなければならないのは残念だが」
彼は自分の席へと円卓を回ったが、椅子に座ろうとはしなかった。
「都で起きたクーデターの噂が確かな事実であることを確認した」
誰も口をきかず、メイファがヤスリを懐にしまう、その衣擦れの音だけがした。メリクルは苦い声で付け足した。
「日輪連盟の本命は我々ではなく、都のほうであったようだな」
メリクルの告げるところによれば、シオネビュラが夜を徹して出陣の
一夜明けても軍部内の混乱は鎮まらぬままだったが、十七歳の新総督アランドは日輪連盟盟主への接見を求める親書を王領に向けて送り出した。
その日から、シオネビュラは外交力を駆使してほうぼうを駆け回ることとなった。シグレイを失った南西領へと、日輪連盟がいよいよ本格的に軍勢を送りにかかることは、火を見るよりも明らかであった。
※
「この革命こそは!」
黒髪が街を洗う。それは死をもたらす黒い星。星は、饐えた臭いを放つ老いた弁者の前を流れた。誰もそれを気に留めなかった。
「終わりの始まりなのだ」
老人は片隅の木箱に上がっていた。木箱には
「裁きの日は近い。王と神官、公爵そして貴族たちは一線を越えたのだ」
「出たぜ、終末ジジイ」
老人の向かいの安酒場は、出入り口が開放され、秋風吹きすさぶテラス席にさえも、顔を汚した労働者たちがあふれていた。
薄い雲が破れ、月光が路地に差した。その光の清らかさは、酒場の灯が照らすことのなかった老人の目を群衆の前に晒し出した。白内障が進行して濁った
酔客が老人に野次を飛ばす。
「珍しいことじゃねえだろうが。戦争や革命が何べんあったと思ってんだ? この千年の間によう」
「この戦は明らかに、これまでのものとは違う」
老人は威厳を持たせようとして声を低めたが、聞き取りにくくなっただけだった。
「かくも堂堂と、王や他の公爵家の軍隊が領内に招じいれられたことがあっただろうか! 攻め込まれるのでもなく、通過させるのでも……招じいれられたのだ!」
黒髪が街を洗う。それは黒曜石の星。星は、傷ついた兵士たちのための暗がりへと流れた。裏通りへ入り込めば、そこは呻きに満ち、壁際で死か回復のいずれかを待つ男たちへと、なお老人の声が響いてきた。
「愚かな淫婦の手によって我が領土は売り渡されたのだ! 南西領は王領に、西方領に、南東領に切り売りされるだろう――
声が聞こえなくなる場所に着く頃には、星は人となっていた。暗闇の中で血と膿にまみれた布を踏みつける湿った音が、彼が神秘と神性から引き離された生身の人間であることを
足音の主は正確に路地を抜けて、目指す通りに出た。安酒場の壁に取り付けられた天籃石が、男の姿を浮かび上がらせた。
その長い黒髪は、一本の三つ編みに編まれ背中に垂れていた。黒いマントの上からでも、細身の体の引き締まった様子が見て取れる。顔が天籃石に近付けば、肌は
男は酒場に入った。中には歌も音楽もなく、夜闇に勝るほど濃密な陰気さがそこに立ち込めていた。四、五人の客が背中を丸めていた。みな老いさらばえて、死が来るまでの退屈を、酒で紛らせているのだった。
カウンターの奥には灰色の髪の店主がいたが、男が目の前に立っても、顔を上げようとさえせず言い放つ。
「グラスは自分で取ってくれ」
男は店主に囁きかけた。よく通る、低い声であった。
「『ハル』に会いたい」
途端に警戒心に満ちた目が四方から男に投げかけられた。背中を丸めて酒樽に座っていた店主も、それを聞き、顎を上げた。
「旦那、ヤク中には見えんね」
男はカウンターの奥に手を
店主はさも驚いたというように目を見開き、黙ったが、他の誰にも見られぬ内に胡桃の殻を懐に押し込んで、曲がった腰を酒樽から浮かせた。
「最初からこうしていればよかったんだ」
男は答えず、カウンター席に座った。
「『ハル』には何て言えばいい?」
「マグダレナの代理の者だと言えばそれでわかる」
灰色の毛が飛び出す鼻をこすって、店主はカウンターの奥の木戸から出ていった。
そして沈黙が戻る。油断のならない、それでいて、眠たくなるような沈黙であった。男は耳をそばだてる。表で
気配を消すことに関する男の能力には驚嘆すべきものがあった。彼は椅子に腰掛けて以降、文字通り微動だにしなかった。呼吸の有無さえ疑わしいその顔は、天籃石の白色光のもとにあっても二十代の半ばか後半に見え、既に三十五にもなっていようとはこの場の誰にも想像し得なかっただろう。客たちはすぐに新参の男の存在を忘れた。男は椅子から垂れるマントの裾を揺らがすこともせず、ただ瞬きのために睫毛と瞼だけを動かして、店主が戻るのを待った。
店主は、出ていったのとは違う木戸から戻ってきた。店の奥の木戸を開き、その向こうに見える階段を指した。一人で行けということだ。男は音を立てず椅子を下りた。
階段の上は、通りをまたぐ形で伸びる廊下によって向かいの建物と連結されていた。渡った先のどの部屋に目当ての相手がいるのかは自然とわかった。一つだけ半開きの戸があって、天籃石のランプが戸口に吊り下げられていたからだ。
男は木戸を引き、部屋に滑り込む。別の男の声が、真っ暗な部屋のどこからか迎え入れた。
「お前は死ななかったのか、マグダリス・ヨリス」
そこに酒の臭いはなかった。あるのは絵の具の材料となる顔料の臭いで、狭い部屋はほとんどキャンバスで埋め尽くされていた。鎧戸の外れた窓の横には脚が外れて傾いた小卓があり、様々な太さの絵筆が散乱している。
小卓の前にはソファがあり、男がだらしなく身を沈めていた。眠っていたのだろう。目をこすり、男は続けた。
「本来だったら今頃は、シルヴェリア公女殿下のお
「私はシルヴェリア殿下を探しに来たのではない」ヨリスという名の少佐は冷静に言葉を返した。「例の案件が片付いたわけではないからな。『グロリアナ製』は手に入ったか」
絵描き崩れの男は、絵の具で染まった両手に己の顔を沈めて答えた。
「先に言っておく。あれは薬物じゃない」
私服の将校の気配が近付いてきたかと思いきや、ソファを素通りして後ろの棚に向かうので、絵描きは慌てて顔を上げ、腰を
「おい――」
ヨリスは立てかけてあった二、三のキャンバスを放り投げ、戸棚を開け放った。
そこには薬物の原料となる樹皮や葉、根、種子の類が、種類ごとに分けて収められていた。
「何だよ、答えが気に入らなかったのか!?」
前回来たときにはなかった品物が戸棚にないか、ヨリスは自分の目でじっくり確かめていた。それからソファの男に目を向けた。闇に慣れ、相手の顔が多少はっきり見えるようになっていた。
茶色の髪はボサボサで、少なくとも
「俺はこの見通しの立たない依頼のために薬の売人にまでなったんだ。ただの画家なんだぞ、俺は――」
「だが、君の絵は売れないときた」
絵描きは反論できず、顔をしかめた。
「君のために助言しよう。これを機に西方領に戻ったらどうだ。シルヴェリア殿下の先行きがわからぬ以上、もはや危険を冒す必要もあるまい」
「西方領に? 俺に死ねって言ってるのか?」
「君は自分を買いかぶりすぎているな。アーチャー家の誰が君に暗殺するほどの価値を見出しているというんだ? ハルジェニク・アーチャー」
神官たちの間で知らぬ人のない、裏切り者の名であった。アーチャー家は王家を巻き込んでまでライバルのライトアロー家の失脚を
その後シンクルスは若くしてヨリスタルジェニカの正位神官将となり、ハルジェニクは故郷を追われて南西領の都の片隅で落ちぶれている。
窓の外で女が悲鳴をあげた。私刑の規模が広がり、暴動に発展しかけているようだ。
ハルジェニクの目から力が抜けた。体の向きを前に戻し、長々と息をつく。
「六年前の、グロリアナの浚渫工事……」
浚渫して埋め立てた地を、リジェク神官団が買い取った。リジェクの動きには南西領陸軍も注目した。
だが、練兵場を作ってグロリアナの人間を雇用すると約束したリジェクはそれを履行せず、一年で土地を放棄した。
「グロリアナが受けた打撃は大きかった。だがリジェクは妙に潤ったようだ。その理由をお前らは探していた。……といっても、当時お前はまだ強攻大隊の指揮官だったか。詳しくは知らんだろうな」
「詳しくないのは君も同じはずだ。そうでないなら続きを言うがいい」
「歌だ。リジェクの奴らが売りさばいてるのは
窓の向こう、火の手が上がり、ハルジェニクの頬を朱に染めた。
「治安部隊が動くぞ。逃げたほうがいいんじゃ」
喉に硬いものが触れて、ハルジェニクは浮かべかけた皮肉な笑みを引っ込めた。
刃と鞘が触れ合う音はしなかった。にも関わらず、ヨリスのサーベルの切っ先が喉仏に触れていた。根本が
「急がねばならん。無駄口は困る」
「わかった」急激に口が渇くのを感じながら、ハルジェニクは頷きもせずまくし立てた。「話す。話すから剣を収めてくれ」
ヨリスが要望通りにすると、ハルジェニクはまるで貴人を前にしたかのようにソファで姿勢を正した。口調は変わらなかったが。
「リジェクの奴らが手に入れたのは技術だ。生き物を星獣に変えるような」
「それは広く歌流民の秘技として知られているが?」
「歌流民の奴らも協力しただろうさ。一時期大量の歌流民を抱え込んだって話もあったからな。それに奴らが手に入れた技術はそれだけじゃないって話だ。星獣を
ハルジェニクの目線が窓に流れた。
「ところで今は、星獣を化生へと堕落させる地球技術の産物が南西領に持ち込まれてるじゃないか」
彼は月を見ようとしたのだと、ヨリスは理解した。
「俺はリジェクに行った」
炎の他に見るものがないと知り、ハルジェニクは目を室内に戻す。
「最高のヤクの噂を追って。だが調べがついたのはそこまでだ。現物を……と言っても、現物が歌い手なのか譜面なのかは知らないが、それにたどり着くことはできなかった」
「死体は見たか?」
「は?」
「中毒死した者を」
ハルジェニクは浅く頷く。
「特徴は?」
「……肌が、黒く……」
「君が知っている言語崩壊の徴候と一致するものか」
「俺が知ってる言語崩壊だと? 知らないな。俺は化生も、言語生命体が星獣になる過程も見たことがないね」
「とにかく、リジェクでは奇妙な死が流行している」
「そしてそれは従来の薬物によるものではないってことだ。次は何を調べればいい?」
「君の役目はこれまでだ」
ハルジェニクは目線を上げてヨリスの無表情を伺った。
「あんたはどうする気だ?」
「何であれ、『それ』が都に蔓延するのを防がなければならない」
「どうするんだ? リジェクの奴らがその技術をもう日輪連盟に売ってたら? 連盟が敵地でそれを広めない理由はないぞ」
「ならば供給を絶てばいい」
「公女の命令だろう。その公女に義理立てする必要はないってあんた自分で言ったはずだが?」
ヨリスは左手を腰帯に差し込み、巾着を取り出しながら答えた。
「命令は命令だ」
軍人らしく言い放ち、中身の詰まった巾着を小卓に置く。貨幣の音がした
「もう一つ助言しよう。『月』に関して二度と言及するな」
「俺とあんたの間でもか?」
「忘れろと言っているんだ」
それきり背を向けて、ヨリスは部屋を後にする。暴動は広がりつつあるようで、ヨリスは怒号から隠れて闇に紛れていく。黒髪とマントが翻り、すぐに見えなくなった。
炎に向かって吹き付ける風は強く、冷たかった。暦は九月の半ばとなっていた。鉱山街コブレンでミスリルとリレーネが出会ってから、