探究開始
文字数 4,312文字
ニコシアの居城、すなわちシオネビュラ西神殿の屋上からは、二つの光景が見えた。
南側の練兵場に見下ろすのは、何十という数の木馬。指揮官の号令一下、近くの廊下から整列して飛び出した騎兵たちが、武装したまま順に木馬に飛び乗っていく。武装を変えたり、乗る向きを変えたりして、訓練は何度も繰り返されていた。その甲斐あって、他の騎兵にぶつかったり、木馬に乗る際に跳ね上がった足で顔を蹴られたりして怪我をする新兵の数は、この半年でめっきり減っていた。
一方、北側の市街地に見えるのは都を見捨ててシオネビュラに戻って来た学生や労働者、事業家といった人の群れだった。生家がある者はそこへ帰り、ない者は新しい家を借りるか、宿を取り、あるいは疲れて路傍に座り込む。
どちらの光景に身を置く人々にも、秋の午後の日差しとイチョウの黄色く色付いた葉が等しく降り注いでいた。その澄んだ冷気と美しさは、ニコシアの心を和らげるばかりか、一層固く強張らせていた。
今、一つの事実が彼女の頭と心を占めていた。
――星獣祭までの都の奪還は不可能。
星獣祭を過ぎれば、都は雪に閉ざされる。雪が溶ける頃には、新総督の椅子をめぐる状況はますます泥沼と化していることだろう。
屋上に誰かが上がってきた。ニコシアは練兵場を見下ろす胸壁の前から動かず、ただ目だけを動かして、近付いてくるメイファの姿を認めた。
「都の状況は?」
真意のわからない笑みを浮かべて隣に立つメイファに、ニコシアはいつも通り、いかがわしいものを見る目を向けた。
「先の総督シグレイ・ダーシェルナキ公の人気は根拠のないものではなく……」
ずっと下のほうで、指揮官の合図のもと騎兵たちが一斉に木馬から飛び降りた。鎧の触れ合う音がぴたりと揃って鳴り響く。
「軍の腐敗の空気の一掃、自由市への税制の刷新による治安の向上、衛生環境の改善」
「だが専横もひどかった。少なくとも陸軍私物化を目論んでいるとの批判には、正面から回答しなければならなかったはずだ」
ニコシアは眼下の練兵場に目を戻しながらも話を続けた。
「公爵夫人パンネラは長男アランドを
「いかにも」
「ところがアランドはとんだ腑抜けとの噂じゃないか。謀反に加担した将校や職業兵士たちは、より強い南西領を望んで命を賭けた。アランドが都の武装商人たちの無法を放置する期間が長ければ、奴の親衛隊の心も離れていく」
そうなれば、アランドは、もっとも己に貢献してくれた者たちを最初に粛清しなければならなくなるだろう。
「とはいえ」
言葉を継いだメイファの声で、彼女が笑っているのがわかる。ニコシアはその表情を見たいと思わなかった。
「もし都の武装商会の一掃をアランド・ダーシェルナキが決心したら」
「したら?」
「それはそれで、最っ低なときに最っ低な行動をするわけです」
胸壁の陰でメイファの手が動き、一枚の手漉き紙をニコシアに寄越した。それは昨晩遅くに彼女のもとに届けられた『
『官僚たちの流出は止まらず、新総督の手腕は民衆にも露呈している。城下の暴動に対し新総督は報復を宣言。民衆は若すぎる新総督を嫌悪している。海側の街道およびミナルタ製塩所の破壊によって食料事情は
南西領の都を日輪連盟に売り渡したパンネラ・ダーシェルナキ公爵夫人は、今頃連盟の首脳と共に、アランドの次に据える首を協議していることだろう。彼女は息子を愛さない。
シオネビュラ神官団はこれまでに、別の暗号文を受け取っていた。三十代に入ったばかりの新トリエスタ伯が、一軍を率いて近々都に入城するらしい。
都解放軍を名乗る手紙の差出人の素性をニコシアは知っていた。
南西領陸軍情報部特務機関室の士官で、名は確か、アセル・ロアングといったはずだ。
同じ日、シオネビュラの南神殿ではミサヤ・クサナギ二位神官将補が休戦交渉に当たっていた。彼女はわずかな従卒と歌流民の少女ゾレアを伴って、ソラート大使として南西領本土の土を踏んだのだ。
あれほど威圧的な姿勢で臨んできたソラートが、ヨリスタルジェニカを奪取して勢いづくどころか休戦を望むとは異なこと。よほど仲間が集まらなかったか、または連盟から待ったをかけられたか。シオネビュラ神官団正位神官将ヤン・メリクルは挑発的な態度でソラートの大使に臨み、ヨリスタルジェニカの神官たちはどうしたと尋ねた。
「捕虜として拘束し、相応の扱いをしております」
メリクルの頬の硬さを見つめていたミサヤは、不意に相手の目の色が変わるのを感じ取った。眼前の神官将は、ミサヤが隠そうとしていることを嗅ぎつけようとしている。
いや、むしろ知っているのではないか。
内心で動揺したのは、メリクルの次の一言のためだった。
「もしも敵勢力が不在のタルジェン島で、あなた方がヨリスタルジェニカの神官たちと同じ異変に見舞われましたら、クサナギ二位神官将補殿、あなたは帰る場所を失うわけです」
タルジェン島陥落の知らせは当然リアンセ・ホーリーバーチ中尉の耳にも入っていた。陥落せしめた南東領ソラート神官団の態度から、何らかの異常があったということは容易に想像がついた。
「行くんだね」
色を失ったリアンセの顔を覗き込みながら、ユヴェンサ・チェルナー上級大尉は悲壮な感情が伝染したかのような口ぶりで確認した。リアンセの返事は短かった。
「真実を知らなければなりません」
それだけ言い残し、彼女はとうにシオネビュラを
「コブレンとフクシャの間の町に臨時の検問ができている。そこに駐屯しているのは陸軍南部ルナリア独立騎兵大隊。今は日輪連盟軍と行動を共にしている」
そこに、カルナデル・ロックハートという名の大尉がいると教えてくれた。
「彼は私と同門で、シンクルス・ライトアロー正位神官将の友人だ」
「その人も神官の血筋の人なのですか?」
「いや、漁師の網元の息子でね。ライトアロー正位神官将が着任のためタルジェン島に向かうおり、陸路の護衛を受け持って、そのとき親交を深めたと聞いた」
「信用できるのですか」
「情に厚い男だが、今は新総督アランドの陸軍の軍属だ」ユヴェンサは眉間に皺を寄せた。「友人の苦難を気にかけはするだろう。でも、接触するならくれぐれも気をつけて」
その臨時検問にたどり着いてから、リアンセは理由をつけて隊商を離れた。街道を塞ぐ検問所は小さな町の近くに陣取り、フクシャ・シオネビュラ方面と、トレブレン・コブレン方面を隔てていた。
昼頃、人の群れを遡ったリアンセは、ようやく古い石造りの門に辿り着いた。
門の中で旅行者たちを取り調べる兵士たちとは別に、リアンセが来たフクシャ・シオネビュラ方面の門の出入り口にも、兵士が歩哨に立っていた。
「あの」
おずおずと話しかけた町娘、という風情のリアンセを、若い兵士が驚いたように注目した。兵装に身を包んで以来、恐れられることには慣れても話しかけられることには慣れていない徴収兵、といったところだろう。リアンセが口ごもる演技をすると、兵士は意外にも紳士的な口調で促した。
「何かお困りですか?」
「あなた方はコブレンを目指される南部ルナリア独立騎兵大隊の方でしょうか」
兵士は黙って眉を片方吊り上げた。
「カルナデル・ロックハート大尉という方がおられるはずです。私はシオネビュラから参りました。ロックハート大尉にどうしてもお話ししなければならないのです」
「どういった御用向きですか?」
「妹の、ナリス・ロックハートさんのご病気の件です」困りきった顔で嘘をつくのは慣れたものだった。「私はナリスさんの友人です」
兵士は浅く頷いた。
「こちらでお待ちください」
彼が門の中に消えていくのを、リアンセは秋の陽気の中で見送った。少し離れた野営地から、炊事の煙が幾筋も上っていた。
少しして、先ほどと同じ兵士が戻ってきて、門の上にいるようリアンセに伝えた。
門の三階の小部屋で、リアンセは一人待った。三十分すると、足音が階段を上がってきた。扉のない、天井の低い小部屋へと、見上げるほどの大男が頭を下げて窮屈そうに入ってきた。
黒褐色の肌。黄土色の髪。堂堂たる体躯。年は、確か二十五であったと聞く。シンクルスと同い年だ。彼こそは、シオネビュラを発つ前に素性を調べたカルナデル・ロックハート大尉だった。
鎧窓に背を向けて、リアンセは彼に歩み寄った。
「ロックハート大尉ですね」
前触れなく訪ねてきた美女に、中隊長の腕章をつけたこの男は
「オレがナリスの兄のカルナデルだ。それより妹が病気だって」
「失礼」
リアンセはカルナデルの右手を取る。重く筋肉質な手を挙げさせて、絶句を受けながら、自分の襟元へと導いた。
「あなたことは調べさせていただきました、ロックハート大尉」
小さな正方形の窓から
カルナデルは、自ら指を動かして、襟の先を確かめた。ほどなくして、彼の指先は、隠された刺繍を見つけ出した。
情報部員の鳩の刺繍だ。この襟は取り外しが可能になっていて、身の危険が迫れば即座に処分できる。
リアンセは顎を上げ、金色の瞳から放たれる鋭い光をまっすぐカルナデルの目に注いだ。目の前の大尉は驚いていたが、逃げもせず、動揺もせず、視線を受け止めていた。
「私は陸軍情報部員のホーリーバーチ中尉と申します。あなたのご友人、シンクルス・ライトアロー正位神官将について、伺いたいことがございます」