朝を裂く
文字数 3,348文字
ミナルタ旧市街は猫が多い。地球人統治時代から、潮風と猫が絶えたことがない街だ。港に近い石造りの民家から、その家に住む十歳の女の子が出てきた。寝起きで、髪も
少女は魚の頭と尾がのった小皿を左手に持っていた。魚の目はまだ充血しておらず新鮮だ。少女は、近所の老婆の家の物置にいる腹を膨らませたトラ猫のことを考えながら道を渡った。その家の親切な老婆から、もうすぐ母親になる猫の面倒をみてもいいと許されているのだ。
老婆の家にたどり着いた少女は、栗色の髪をなびかせながら、ぶどう色に塗られた鉄の門を通り抜けた。
ほどなくして、悲鳴が朝を裂いた。
※
テスは、そしてリージェスとリレーネは、娼館の物干し場に集まった。朝が来たらここで顔を合わせようと約束したのである。異変から最初の一夜が明けた。とりあえず朝日を拝めた。そのことに安堵する。快晴。けれど、なぜ朝が来ないかもしれないと昨夜は思ったのだろう? そして今、二十四時間後にも朝が来る保証はないと思っているわけは?
確かなものはない。
予感しかない。
しかも、悪いほうの予感だ。
「おはようございます、テスさん」
リレーネが行儀よく挨拶した。ああ、とテスは応じた。リージェスとテスは一度よそよそしい視線を交わしたが、それだけだった。北風が吹く。一度は短くしたリレーネの髪も、そろそろ結べそうなほど伸びていた。
後ろ髪を手で押さえるリレーネは、娼館の上のほうへと視線を動かした。顔を上げて待つと、最上階の張り出し窓が開き、女の腕が出てきて手招いた。フェンだ。人差し指を立て、屋上を指差す。
テスが先頭に立って、三人は即席の訓練所となっている屋上に上がった。
屋上は石に似た材質のタイル張りで、千年以上も昔から様々な人の足の裏に踏みしめられ、それでも磨耗していない。そのタイルを、今日また三人の旅人が踏みしめた。
シルヴェリアが待ち構えていた。布張りの椅子を出して、足を組んで座り、ドレスのスリットからこぼれる褐色の
「そこの」シルヴェリアは笑みを浮かべ、テスを顎で差した。「半月刀を抜け」
テスは黙って従った。両手に半月刀を握りしめ、庇うようにリージェスとリレーネの前に立つ。シルヴェリアが口火を切った。
「欲しいものがある」
「なんでしょうか」
シルヴェリアは掌にすっぽり収まる大きさの藁束を手に取り、ぽんぽんと投げて弄んだ。
「ソレリア民兵団じゃ。領主不在で、総指揮官もなく、シオンの戦いの残余の戦力がグロリアナに手付かずで残っておる」
藁を投げるのをやめた。
褐色の手で握りしめる。
シルヴェリアが動いた。藁束が、テスの鼻めがけて回転しながら飛んだ。バサリと音がし、藁束は両断されてテスの足許に転がった。
次の藁束を手に取る。シルヴェリアは、今度もそれを投げて弄んだ。
テスは平然と尋ねた。
「手に入れるための下地はあるのですか」
「トリエスタの生臭坊主が隠した財産を我が『剣』が手に入れられそうでのう」
ソレリア民兵団を買収したいらしい。
「殿下が『剣』と呼ばれる者は、その財をミナルタまで持ってくることができるのですか?」
「どうじゃ? ヨリス」
後ろに控えていたヨリスが、短く応じた。
「はい。落ち合うまでの連絡方法を、正確を期すため書面にて伝え申しました」
書面を用いたということは、シルヴェリアには初耳だった。
「……左様か」
それを受け取ったのは情報部のリアンセである。後始末は適切に行われるだろう。それは心配ない。だが、シルヴェリアは察した。気に入りの部下を傷つけないように言葉を選んで言った。
「うむ。まあ、結局のところ連絡をするかどうかは相手次第じゃがのう」
短い息をつき、力を抜く。
ふりをして、藁束をテスに投げつけた。
今度は矢継ぎ早に二つ。
一つ目をテスの左手の半月刀が、二つ目を右手の半月刀が叩き斬った。
藁屑が風に吹かれていった。
「……何故、私にその話を」
「私にはこの世界で起きている異変の全てを知る必要と、知る力がある。だが、都に戻るまで慎重にことを整えている時間はなさそうじゃ。武力が欲しい。早く欲しいのじゃ。わかろう?」
「はい」
「何よりも、昨日の異変でシオネビュラや月環同盟諸都市が都に興味を失っては堪らん。マリステス・オーサー、
「はい」
何かを推し量る沈黙をシルヴェリアが置く間、リージェスとリレーネは息を殺していた。
「暗殺者を狩る暗殺者か。その中でも、そなたは選ばれし精鋭。師もさぞ鼻が高かろう」
「ありがとうございます」
「じゃが」
シルヴェリアは肘掛に右肘を置き、頬杖をついた。
「半月刀はその形状からして鞘から抜くのに時間がかかる」
風が動き、言い終えた次の瞬間にはシルヴェリアは立ち上がっていた。二つそして三つ、藁束が投げ放たれた。
シルヴェリアにすら見えなかった。テスが武器を鞘から抜く瞬間は。だが、藁束は全てテスの周囲に落ちた。
一つは顔面、もう一つは右の脇腹、もう一つは後ろのリージェス目掛けて投げたにも関わらず。
今度はテスが重い沈黙を置く番だった。
半月刀を鞘に戻す。
ゆっくりと尋ねた。
「形状が何か」
シルヴェリアは頷いた。それだけだった。振り向かずに後ろの椅子に座る。
「大事な話がある」もう足を組まなかった。「コブレンの惨状についてじゃ」
テスのぼんやりした目の焦点が劇的に結ばれた。
「日輪連盟は兵器化した星獣をコブレン市街に解き放ったとのことじゃ。民間人の被った害は大きく、二次災害の火災と併せて千人に届く死者が出ておる。さらに連盟は市民に――」
テスが身を乗り出したところで意地悪くシルヴェリアは言葉を切った。
「いや、よそう。そなたは今は自警団を離れておるのであったな」
「兵器化した星獣とはどういうことですか」
テスの声が低くなる。
「言葉の通りのものじゃ。リジェクは歌流民を抱え込んでそうしたものを開発しておったが、どうもグロリアナ周辺ではそれに関わる人体実験を行った形跡があっての」
口を開いたテスだが、言葉が出ず、シルヴェリアを遮ることはできなかった。
「体内の言語子の操作による人為的な肉体変容の技術じゃが、実験の犠牲となった者は次第に皮膚から色彩が失われていく。いわゆる言語崩壊として知られる現象じゃな。そもそも不可逆の変容であるからして、恐らく治癒の方法はない」
「――コブレンで」
「リジェク神官団はこのミナルタに星獣を運び込もうとした」
シルヴェリアの鋭く厳しい声がテスを黙らせた。
「製塩所の改装工事の不自然な落札状況に陸軍情報部が気付いてな。あの反乱より
「だから」リージェスが口を挟んだ。テスに喋らせないために。「ミナルタ製塩所を破壊したのですか?」
「左様。都には結構な混乱をもたらす結果となったが」
何がおかしいのか、シルヴェリアは肩を揺すって笑った。短く、苛立った笑いだった。笑うしかない者の笑い。
リージェスは不意に覚えた共感に戸惑った。笑うしかない状況に置かれた者の笑いについて、彼はよく知っていた。
「我が妹、第二公女エーリカは都とミナルタを結ぶ道路を封鎖した日輪連盟を強く非難した。そうして私財を
「本当にそうですか?」
初めてリレーネが口を開いた。出てきた言葉はリージェスを驚かせた。
「ご自分の人気取りのためではなく、ミナルタから都へと星獣兵器を運び込ませないために封鎖したのではございませんか?」
シルヴェリアの冷たい笑みが消えた。公女殿下のお気に召す発言でなかったことは明らかだった。
リージェスが凍りついていると、少女の甲高い悲鳴が風に乗って聞こえてきた。
椅子の上でシルヴェリアが姿勢を直す。
「鉱山街の暗殺者、次はそなたが話せ」