経済の毒
文字数 2,222文字
アランドに総督は務まらぬと断じられたらしい。
陸軍情報部特務機関という面従腹背の連中が、
十月に入ってすぐ、都を巻く谷に架けられた橋のいくつかが破壊された。橋は、冬越しの燃料を運ぶ道路だ。冬への暗い恐れは、少しずつ都市を麻痺させた。燃料不足から活動が不活発になる工場や工房が増え、労働者たちは静かに職場を離れ始めた。
次に都に入ってこなくなったものは塩だった。塩漬けが作れなくなることから、冬季の飢餓が
いずれにしろ、都の経済に毒が注がれたことには違いなかった。アランドに背いた南西領陸軍の将兵や、月環同盟軍との決戦に備え、大量の武具・防具が必要とされる時期に、都の鍛冶屋街は静まり返っていた。
そして十一月も間近という今日、いよいよ下町のしがない絵描きのハルジェニクの耳にも、ミナルタの製塩所が停止したという話が飛び込んできたのだった。
「誰なんだ?」プリスの自宅でソファにふんぞり返り、ハルジェニクは眉間に皺を寄せて声に出した。「誰がこの混乱を引き起こしてるんだ?」
別にプリスに尋ねたわけでなく、ただ本当に口に出しただけだったのだが、何かがプリスの癇に触ったらしく、小卓を挟んだ向かい側から彼女の声が鋭く飛んできた。
「はあぁ!? 知らなよ! 私が糸引いてるって言いたいの!?」
ハルジェニクもカッとなり、背もたれから背を起こして早口でまくし立てる。
「言ってないだろそんなこと一言も! いちいち怒るなよ!」
ハルジェニクも怒り返すと、
「何よ! 怒んないでよ!」
クッションが顔面に飛んできた。
「やめなよ」
諦めきった口調でヴァンが間に入った。
ハルジェニクはヴァンの顔面にクッションを投げた。特に理由はない。ヴァンの隣では歌流民の少女エルーシヤが、何がそんなに嬉しいのかニコニコと微笑んでいた。都じゅうの苛立ちに対してすら無頓着のように見えた。
暗殺者に命を狙われ、プリスとヴァンに助けられて以来、ハルジェニクは
「塩は」気まずくなって、ハルジェニクは深呼吸した。「海側の街道が破壊されたなら、山側のコブレンから岩塩を買うしかないな。カーラーンのコブレンから」
カーラーン・ダーシェルナキがコブレン入城を果たしたとの報が都に届いてから、一週間が過ぎていた。
コブレン攻囲軍に向けて都から増援を差し向けるべきときに、城下では武装した商会が支配力を強めていた。利益のためなら誰とでも取引する商人たちは、結託して商材の塩や燃料の価格を操作し、
商人たちの暗躍でたびたび暴動が起きたが、アランドは、日輪連盟に加盟した手前、商人たちへと軍を差し向けることができなかった。
果たしてどのような勢力の介入で、日輪連盟の商人たちは積極的に都の治安を悪化させているのか。連盟にしろ、それに見せかけた月環同盟の仕業にしろ、アランドの無能を民衆に印象付けるには十分な騒動であった。城下の暴動という、新総督が軍事力を行使する口実が目の前にありながら、手をこまねいているのだから。
「日輪連盟は、カーラーンの軍隊をさっさとコブレンから追い出すよ」
ヴァンが断言した。
「連盟軍はコブレンで冬を越すつもりだったはずだもの。あそこは雪山で、野営できる環境じゃないからいつまでも攻囲していられないよ。都から増援が来なくても、どんな手を使ってもコブレンを奪い取らないと」
「どんな手を、って、どんな手だよ。コブレンは二重城壁で守られてる。そう簡単には
「どんな手かは知らないけどさ……」
ヴァンの隣で、少女が口に手を運ぶ。音もなく、だが少々はしたなく、指の隙間から大きな口を見せてエルーシヤはあくびをした。裸足の少女はあいもかわらず場違いな存在だが、不思議とこの場の三人の心を軽くするのだった。
「その女の子は――」ずっと気になっていたことを、ハルジェニクはいよいよ尋ねることにした。「どうしてここに来たんだ?」
エルーシヤに直接尋ねないのは、そうしても彼女は答えないからである。世話役を失った歌流民相手では、簡単な情報のやり取りすらうまくいかない。
プリスは真顔で「その子に尋ねたら?」
「いや、でも」
「歌流民は歌うときにしか声を出さないって」ヴァンがいたずらっぽく口を吊り上げて笑った。「でもね、歌うときには声を出すんだよ」
それで、ハルジェニクも納得した。
「そうか。
待っていたかのように、エルーシヤは胸に大きく息を吸う。ややあって、澄んだ歌声が放たれて、彼女は自らの奇妙な道中を歌い始めた。