海戦/タルジェン沖の海戦
文字数 4,125文字
夜のいつ頃とも知れぬ時間、リアンセは夢を見た。早く終わってほしいと願っていた。それが夢であり、しかも、安らぎを与えてはくれぬ夢だとわかっていたからだ。
西方領ザナリス。そこはリアンセの故郷で、煉瓦造りの瀟洒なホーリーバーチ邸の玄関口からシンクルスとロザリアの声が聞こえていた。二人はこれから果てなく遠いところに旅立つようであった。ほんの少し出かけるようなふりをして、二度と帰ってこないつもりなのだ。
リアンセは喉が渇いていた。洗濯物のはためく庭で、井戸を汲み、
喉の渇きは本物だった。船室の天井には、紐でくくった天籃石の裸石が吊り下げられ、その振れ幅の大きさから、船が揺れていることがわかった。起き上がり、ベッドに座り込む。物がない部屋で、リアンセの太く濃い影が、右に左にと長さを変えながら揺れ動いた。
部屋の戸の向こう、廊下を人が走り回っている。兵士たちだ。
今度こそ水を後回しにしなければならぬようだった。夜に、これほど兵が慌ただしくするのなら、事情は一つしかあるまい。
リアンセは手荷物入れから手櫛を出し、丁寧に髪を
甲板は帆が畳まれ、全ての明かりが消されていた。空は曇天で、しかもうまい具合に黒雲で、天球儀の光を消していた。先行するのは三位神官将ニコシアの旗艦。戦隊は縦隊をとり、突破の構え。海戦が始まるのだ。
シオネビュラ艦隊は総数十五艘。うち九艘がタルジェン島の島民を乗せた疎開船だ。
それなのに、ニコシアは、この隠れる場所のない沖で戦を交えようというのか。
甲板の弩兵たちは、リアンセの
号令もない。リズムを取るための太鼓や笛の音もない。ただ死の似姿となった艦隊が、黒い海を滑る。風は微風だった。心地よいほどだった。甲板にひしめき合う兵士たちの、体臭と体温がなければ。
闇を凝視すれば、彼方の光が目に届く。リアンセは陸軍の諜報員だ。海戦に臨場した経験はない。それらの光を見ても、敵の規模と距離とを目測できなかった。ただ、あるときそれらの光が乱れ、一斉に揺れ動いた。
甲高い
気付かれたのだ。
シオネビュラ艦隊は、
円陣だわ、と、リアンセは思った。防御の陣形。光が大きくなってくる。果たして舳先を外に向け、円陣を組む船の一団が目視できるようになった。
まだ弩は届かない。
ニコシアの旗艦が先立って、大胆にも敵の衝角に船の脇腹を晒しながら、円陣の外を周回し始めた。シオネビュラ艦隊の縦隊は、自然と横隊に変わった。波は、比較的静かだった。揺れもさほどではない。漕ぎ手たちの勢いばかり激しく、しぶきが甲板を水浸しにするほどだった。
リアンセは敵の船を数えようとする。一、二、三……七、八、九……十五……十七……。
もう、この円陣を一周しただろうか? 円陣の内側には敵艦隊の旗艦がある。そこにはためくはソラート神官団の旗印。ならば交戦は不可避。
最初の接近が起きた。水をかき分けて、先頭のニコシアの旗艦が舳先の向きを変えた。リアンセにはその意味がわかった。二周目に入ったのだ。低くどよめく、海の亡者のような喧騒。長い緊張の中で、頭に奇妙な情景が浮かんだ。それは
目眩を堪え、歯ぎしりをしたそのときに、澄んだ歌声が、まっすぐ耳に届けられた。
『太陽ヨ、ドウカ
私ニ昇ッテクダサイ』
思わず声の主を探した。
『ソノ美シイ
私ニ向ケテクダサイ』
その人は、
歌流民だ。
『私ガ波間ニ沈ム日モ
故郷ヲ照ラシテイテクダサイ――』
三周め。ついぞ、互いの弩が届く距離に入った。
もうリアンセには妄想も雑念もなかった。戦闘意欲だけがある。
これが歌流民の歌の力。
戦闘あるのみ。
弩の強靭な発射機構から放たれた矢が、甲板に突き刺さり、木屑を飛ばした。
目の前で兵士がくぐもった声をあげ、倒れた。リアンセは彼を顧みることもなく、ただ彼と場所を変わるべく、音を立てて落ちた巻き上げ器つきの弩を拾い上げた。矢を発射位置につがえながら、リアンセは故郷の屋敷、その煉瓦の壁にしみこむ日の光の温もりを思っていた。
――私が波間に沈んでも、太陽は故郷を照らしてくれる……。
四周目。もうリアンセにはニコシアの狙いがわかっていた。敵にもわかっているはずだ。だがどうしようもないのだ。
シオネビュラ艦隊が一周するたびに、ソラート艦隊の円陣は内側へと縮まり、身動きがとれなくなっていった。船腹はこすれ、櫂はもつれあった。あの喧騒は苛立つ漕ぎ手たちの声か。円陣の内側から、空を切って何かが放たれた。
リアンセは周囲の兵士とともに、射撃をやめて身を屈めた。
重いものが帆柱に直撃し、船が大きく
艦載
湿った木の裂ける音が耳を
帆柱が海に落ちる。
水柱が上がり、頭から海水をかぶった。船は今度は反対側に傾き、リアンセは甲板の端から端まで転がっていきそうになった。漕ぎ手たちが船の平衡を取り戻そうともがいている。水浸しの甲板で、潮水を口いっぱいに味わいながら、リアンセは無意識に掴まるものを探した。
左手が柔らかいものに触れた。
帆桁から転落し、首をおかしな形に曲げて横たわる歌流民だった。
顔を上げれば、へし折れた帆柱の鋭くささくれ立った断面が見えた。それがはっきり見えるほど、周囲はうっすらと明るくなっていた。
夜明けが来た。
立ち上がる前に、ニ度目の弩砲がシオネビュラ艦隊のどこかを直撃した。横隊の後方、タルジェン島の疎開船があるあたりだ。
夜明けの風が吹いた。硫黄の臭いがした。追い風になる位置まで来て、ニコシアは初めて船を止めた。彼女の船の船首楼にはサイフォンが積まれている。
炎は船首から船首へと、海を突っ切った。
真正面にいた敵兵たちが、ねっとりと揺らめく炎の中で黒い影となり、くずおれた。あの火は水では消えない。海面でも燃え続けるのだ。火を吐きながら、ニコシアの船はゆっくり進む。火災の起きている船が一つ、二つ、三つ。
サイフォンが静まった。移動によって風の当たる角度が変わったからだ。
突破が始まった。火災を尻目に、ニコシアの軍船が
リアンセは甲板の手すりを掴み、身を乗り出し、暗い雨の海を見下ろした。それから敵船の甲板に飛び移った。先に突入した兵士たちの奮戦によって既に敵は駆逐されていたので、弩で迎え撃たれはしなかった。
甲板には血溜まりができ、その色を、雨が薄く伸ばしていた。
そこかしこに亡骸があった。自ら海に飛び込んだ者たちの手が、水面を叩く音が響いていた。甲板の下からは、命乞いをする漕ぎ手たちの叫び声。
突入は続く。
円陣は崩れた。突入が起きた円の反対側では、どうにかして逃げ出そうと奮闘するいくつもの船の様子が窺えた。彼らは各々のもつれた櫂をほどくか、あるいは櫂を捨てて漂流するしかない。それか、戦闘の熱に浮かされた男たちに斬り殺されるかだ。
ソラート側の動きを見極めるべく船尾に向かったリアンセは、海に浮かぶ男たちの眼差しに会い、凍りついた。
救いを得るあてのない兵士たち。鎧を着たままもがき、圧倒的質量の水に体温を奪われていく。
けれど、悲惨はここだけで起きているのではない。
これと同じことが、大陸じゅうで起きる。
広すぎる戦域。ゆえに決定的勝利の機会のない、果てない消耗戦。
日輪連盟。月環同盟。戦いに
だが――リアンセにはわからない――それは、何年先になるのだ?