新しい歌
文字数 3,044文字
都で一番高い建物の時計が零刻を指すと、こんなときでさえ、鐘つき男は正確に鐘の音を都の中心地に鳴り響かせた。三つか四つのときに鐘の下で拾われた捨て子で、それから六十年というもの、腰が曲がった今になっても毎日同じ鐘をついているのだ。
太陽は東から這い上がってきて、その方角の空を朱に染めていた。最初の朝陽が差したとき、時が来たことをゾレアは悟った。
まだ混乱し怯えている人々の意識が鐘の音に集中すると、バルコニーの下に広がる市街が静まり、鳩が一羽、総督府の上を飛んでいった。運河の先へ、シオネビュラの方角へ、海があるほうへと。
鳩を見てゾレアは、何を歌えばいいかわかった。
好きに歌えばよかったのだ。何も気負うことはなかった。
ゾレアは存分に、新年の冷たい空気を吸い込んで、吐いた。心臓が熱く静かに脈打っていた。
今度は歌うために空気を吸い込んだ。
『さまよえる翼ひとつ 滅びの海を
ゾレアは鳩を指した。鳩が消えていった、その先で、いよいよ曙光が差した。
『創世の余波が 歌を
深い嘆きの淵が 歌を
清い恵みの雨が 歌を』
昇る太陽にあわせて、ゾレアは少しずつ指を上げていく。
『月が 石が 森が 歌を
星が 風が 水が 歌を
日が 里が 都市が 歌を』
朗々と、そして堂々と、ゾレアの歌は夜明けに響き渡る。
その声が聞こえる者位置にいる者はみな、総督府のバルコニーを見上げた。声が聞こえない位置にいる者も、何かが起きている気配を察してそちらに顔を向けた。
それから夜明けを見た。
『家が 井戸が 車輪が 歌を
槌が 火が 鉄が 歌を
窓が 鳥が 木漏れ日が 歌を
花が
人が、人が、人が、歌を』
陥落したレライヤ城砦の陰からいよいよ太陽が顔を現した。
『人よ、人よ、人よ、歌を!』
都じゅうの鐘が鳴り響いた。勝利の喇叭が吹き鳴らされる。勝ったのだ、全てに勝ったのだ! 太陽を指すゾレアは興奮に打ち震えた。
夜は明け、戦争は終わった。本当に終わったわけではないが、まず一区切りだ。
都の人々は生き続けるための活動を開始していた。善い活動ばかりではなかった。火事場泥棒は既に仕事を開始していたし、椅子屋の丁稚だった少女もその一人となっていた。彼女は奉公先の椅子屋からありったけ現金を盗み出し、目下逃走中。
月が欲しいと願った少女は、もはやそれが手に入らぬことを理解していた。今はただ、生きるのだ。目の前の現実を生きるために、できる全てのことをする。
善いことだけをして生きていけるわけではない。
きれいな心のままで生きていけるわけでもない。
それでも昇りくる太陽を快く思うのなら。その感性を誰かと分けあって生きることができるなら。分かち合える誰かと出会えることがなくても、誰かがいるというその可能性があるのなら。
この世には、無意味な生も、無意味な死もないのだろう。
「誰かが人民を指導しなければなりませんわ」
戦いの疲弊から立ち直ったエーリカがララセルの手から手綱を取った。
「総督府に戻りましょう。私が直々に治安維持の指揮を執ります」
馬に乗る。
「エーリカ様、少し休まれたほうがよろしいのでは?」
「何を言うのですか、ララセル?」
エーリカは馬の横腹を蹴った。
「私たちはここからが本番なのですよ」
※
時計塔の最上階へ上り詰める梯子の下まで来て、ミスリルは恐怖に捕らわれた。マナが梯子の上にいなかったら、俺はどうすればいいんだ? 次はどこを探せばいい? いつまで探せば見つかるんだ?
既に夜は明け、大時計の文字盤の裏側から水色に澄んだ冬晴れの空が見えた。冷たい風が吹き込んできた。ミスリルは立ち尽くした。
「どうしたの?」
リアンセは目で促した。さっさと上れば?
「可能性が問題なんだよ……」
「はい?」
ミスリルは、マナに買い物の仕方を教えてやったときのことをぼんやりと思い出しながら言った、あれはマナをコブレンに連れ帰って間もない頃だった。マナに合う靴を買うために、ものの長さの測りかたを教えてやった。身の回りのことはなんでも教えてやらなきゃいけなかった。服の着かただって。なんてったって俺の娘なんだぜ?
「可能性なんだよ。誰が母親かってこと。それが問題なんだよ」
リアンセは真顔でミスリルの出方を待っていた。
「頼む」
ミスリルは両手を組んで額の高さに掲げながら頭を下げた。
「マナの母親になってくれ」
躊躇はなかった。一秒でも早くこの問題を片付けたいのだから。ミスリルは優柔不断なのは嫌いだった。
「お願いだ。一生何でも言うことを聞く」
幸いにも、リアンセも決断が早かった。リアンセは目をそらしてため息をつき、わざとらしいほど大袈裟な口ぶりでミスリルを許すことにした。
「仕方ないわねぇ」
ミスリルは急に自分が臆病者になったように思った。梯子に歩み寄ったのが、ミスリルではなくリアンセだったからだ。
「マナ!」
梯子の上の暗がりへと首を仰け反らせ、口に右手を添えてリアンセは呼ばわった。
「パパとママが迎えに来たわよ! 出てらっしゃい!」
何の反応もない。
結局、ミスリルが先に梯子を掴んだ。
結果を受け入れるということをフーケ師は教えてくれた。結果が全てだ。が、まずは結果を見ることだ。どこを探せばマナに会えるのか、いつまで探せばいいのかは、梯子の上にある結果を見てから決めればいいことだ。
育ててくれたフーケ師に、ミスリルは心の底から感謝した。
梯子を上り切る。
暗い。
そこはがらくた置き場だった。きっと何百年も昔に取り外されたらしい時計の部品や、空になった油の瓶、工具、ボロ切れが散乱する、そんなところ。
そんなところに、背中を向けて人が横たわっていた。
少女。
痩せた体に、つぎ当てだらけの衣服をまとった、薄着の――。
少女は肩まで伸びた髪を床に垂らしていた。
その髪は、琥珀色をしていた。
リアンセがミスリルのあとから来て、様子を確かめた。ミスリルは少女に歩み寄る。
「……マナ?」
膝をつき、ずしりと重い人間の体を腕に抱き上げた。少女は眠っていた。その前髪をかき分けて人相を確かめると、ミスリルは叫んだ。
「マナ!」
「私のおかげね」
澄ました様子でリアンセが言うが、ミスリルは聞いていなかった。腕の中で、マナが微かに身じろぎし、目を開けた。
円窓から注ぐ光を浴びて、マナは目を開けた。
金色の瞳だった。
「……ミスリル?」
「よう」力が脱けていく。ミスリルはかろうじて微笑んだ。「パパとママが来たぜ」
マナは眠たげに目をしばたたいた。見下ろす二人、ミスリルとリアンセに視線を巡らせて、体に力を入れ、床に座り込んだ。
「夢を見ていたの」
「どんな夢だ?」
「たった一人でさまよってた。誰にも必要とされずに」
ミスリルは父親らしいことをしようとし――マナの頭を撫でてやろうかと考え――結局、手を握った。
「俺にはお前が必要だ。お前にいてほしい」
「私はここにいるよ。私がいる現実をミスリルが選んだんだもの」
「お前はある」ミスリルはマナを抱きしめた。「お前はお前になっていけ」
円窓から素晴らしい太陽を望むことができた。リアンセは目を細めた。
我々は新しく生まれ変わることが必要だ。
そう言ったのは、生臭坊主のアウェアクだった。そうね。リアンセは心の中で死者に語りかけた。あんた、一つだけ正しいことを言ったわ。
私たちは新しくなる。
今日、ここから。