恩寵と殺害
文字数 3,763文字
船の中で決めた通り、ミスリルは仲間と別れて一人で神殿に向かった。上陸前には死んだような田舎を勝手に想像していたが、実際のタルジェン島は陽光と活気にあふれていた。港の横には塩田があり、そこで働く男女の声が、荷下ろしをする船乗りたちの声にも負けず港に聞こえてくる。坂に沿って魚やタコが干され、子供が猫を追い払う。坂の上の道を牛が行き交い、村の中心部を横切って葡萄畑の丘、レモン畑の丘、放牧地、そしてわずかな麦畑を越えればヨリスタルジェニカ神官団〈灰の砂丘〉神殿が、島の背骨を形成する山脈を背景に見えてきた。
途中、現地の民を相手に、この島はヨリスタルジェニカの支配下にあるほうが潤うのだと説く商人を見かけた。ヨリスタルジェニカの資本は西方領ライトアロー家の事業によっても支えられている。ヨリスタルジェニカがこの緑と淡水に恵まれた島で搾取を行う必要はない。けれどこの島を次に支配しようと狙うソラートはそうではない、と。
城壁の向こうの神殿は、白く眩しかった。文明退化の深度が浅い時期に建てられたのだと、見上げるほどの高さや装飾の多さから察せられる。城壁の前には水堀があり、木橋が下ろされていた。
「ちょっと失礼」
ミスリルは橋の
「この手紙をヨリスタルジェニカの正規の神官に渡してほしいんだ」
「ん? 手紙?」
衛兵はどちらも若くなかった。光を照り返す兜の下の顔は、浅黒く、太い皺が刻まれている。雇用された現地人のようだ
「ああ。できればすぐに読んでほしいんだけど」
「ふぅん、そうかね。じゃ、あんた、ちょっとおいで」
何ら警戒心を見せずに、衛兵は堀を渡るよう促した。その反応にミスリルは、ほとんど拍子抜けしてしまった。
神殿の敷地内は静寂が保たれていた。ミスリルは衛兵の詰所でちょっとした身体検査を受けたが、体の随所に隠したダガーやナイフは見落とされた。詰所で二十分も待つと、泡を食って駆けてきた神官によって神殿の控え室に通された。そこで手足を洗い、また別の部屋に通される。正位神官将様は、別の来客の応対をしている、それが終わり次第こちらに駆けつける、と聞かされ、それを伝えた神官とほとんど入れ違いに正位神官将が部屋に現れたのだった。
一階の小部屋でシンクルスとの出会いを果たしたミスリルが、これまでの経緯を丁重に説明している間に、リアンセはロザリアとともに庭を回って木陰から部屋を覗き込んだ。そして、驚きに打たれて早口で姉に囁いた。
「あの人よ。私はあの人と船でずっと一緒だったの」
その頃アエリエは既に宿を見つけていたが、すぐに使者が送られて、宿泊はキャンセルされた。アエリエとテス、そして『月』が、陽が傾き始めるまでに神殿の正門をくぐった。
コブレンから『月』を遠ざけ、しかるべき人とところに委ねることを目的とした旅は、ここまではうまくいったのであった。
※
その夜、ミスリルはシンクルス・ライトアローの私室に招かれた。昼に話してわかったことだが、彼は高位の神官にしては気さくな人物であり、恐らくは同性かつ同年代の話し相手に飢えているようだった。
「楽にされるがよい」
シンクルスはニコニコしながら小さな銀の盆を押し、それをテーブルの中央にやって中のものを取るようミスリルに促した。
「今は執務の時間ではないし、他の者たちの目もない。聞くところによればそなたは俺と同い年というではないか。どうかタルジェン島に滞在中はここを我が家だと思ってくだされ」
「しかし――」ミスリルは盆に盛られた茶色い粒と屈託のないシンクルスの笑みとを見比べて、盆に視線を定めた。「――ところで、これは?」
「チョコレートだ。見たことはござらぬか」
「話には聞いたことがございます。この菓子の原料となるカカオ豆は地下の古農場と南東領のごく一部でしか栽培されないものと伺っておりますが」
つまり、相当に高価な菓子ということだ。
「左様。俺はこれが好きでたまらぬのだ。ミスリル殿の口にも合えば良いのだが」
「身に余るおもてなしには心から感謝いたします。ですが、こちらはお気持ちだけで結構でございます」
シンクルスの顔に寂寥感に似たものを読み取って、ミスリルは言葉を続けた。
「我々は生涯を修行に捧げる身であり、必要以上のものを口にすることは戒律で禁じられておりますので」
「左様であったか。これは失礼をした」
ミスリルは黙ってシンクルスの出方を待った。
相手は神官だ。この南西領にいて、殺し屋と異端信仰の
シンクルスの唇に笑みが浮かんだ。
「俺は西方領の出身だ。南西領に赴任してからも、このタルジェン島から最も遠くへは都までしか行っておらぬのだ。よろしければ、ミスリル殿の故郷についてお話を伺えないだろうか」
「どのような話をお望みでしょうか」
「ミスリル殿が所属するコブレン自警団についてお聞かせいただきたい。その治安維持の手法を、もしかしたらこのタルジェン島にも取り入れられるかもしれぬ」
「平和な島であるようにお見受けします。地形や住居のつくりからしてコブレンとは全く違いますから、お役に立てるかどうか」
「構わぬ」
神官は目に光を
「治安維持のやり方は、他の都市と変わりません。夜警と定時巡回です」
「それが戦いや小競り合いになることは?」
「しばしばございます」
「コブレンの刺客というのは、我ら神官の世界でもひどく恐れられるものだ。それを制圧し、場合によっては摘発するとあらば、相当の力を持っておられるのであろうな」
「そのための修行でございます」
ミスリルは銀盆の上の未知の食べ物に一瞬視線を落としたが、すぐにシンクルスに目を戻した。
「しかしミスリル殿、戦いになれば敵を手にかけることもあろう」
沈黙を返す。
「俺も同じだ」
シンクルスは微笑んだ。
「戦いになれば敵を殺し、部下たちに殺せと、死ねと、命じなければならぬ。だが我々には大義がある」
テーブルの下で、ミスリルの丸めた指が反応する。
「大義とは」
「神、すなわち地球人との盟約だ。言語生命体の独立にかかる条項を守るため、地球人は神官に独立した領土と軍事力の保持を許した。地球人が神聖なものであるか否か、それどころか地球人を信仰しているかどうかすら問題ではない。我々は現に力と後ろ盾を持っている、ということだ」
挑発的な物言いの真意を
「仰る通りです」
「ミスリル殿、あなた方の神は地球人ではない。その神は、人殺しを許す神か」
「いいえ」
目の前の神官が、どこまでのことをするつもりか、ミスリルは最悪の事態まで想像した。異端信仰を口実に、口封じのために殺すのか。
「ならば、戦いで人を殺すことの許しをどこから引き出してくるのだ?」
その場合、アエリエとテス――いや、せめてアエリエだけでも神殿から逃がしてやれるだろうか。神殿から逃れても、島から、そしてこの海域から逃げられるのか。
「許しは神から引き出すものではございません」
言いながら目と声に力を込めた。すると明らかにシンクルスがたじろいだので、ミスリルは拍子抜けする。殺すことまでは考えていなかったようだ。
「許しはただ、神の一方的な
「左様であるか。そなたらの神は……まるで……地球人が信仰した、地球人の神のようであるな。それではミスリル殿、質問を続けることを許していただきたい。ミスリル殿には人を殺すことが罪であるとの認識がある。では神が許しを与えるから、罪を犯せるのか?」
この質問は罠だ、と、ミスリルは考えた。
はいと答えれば、神の恩寵を軽んじ、冒涜していることになる。いいえと答えれば、ミスリルは、さらにはコブレン自警団が、アイデンティティの足場を失う。
ミスリルは黙して答えを探した。シンクルスは、今度は口を開かずに、答えをじっと待っている。
十秒経って、ミスリルは言葉を選びながら答えた。
「私が人を殺すとき、神が人を殺すのです」
今度はシンクルスが黙る番だった。瞬きしながら答えを解釈しようとしている。
「それは、例えば聖戦――」
「いいえ」と、ミスリルは遮った。「私は神の戦士ではありません。敵に裁きを与えているわけではないのです。そこまで
「では?」
「私の信じる神は万物の創造主。悪もまた神からくるものであり、神が悪を包括しないなら、神はその神性を生きていない」
シンクルスがもう一度ゆっくり瞬きをする。
「我々は、善性やきれいな心だけで生きていくことはできません。私が私の悪性を生きるときも、神は共にいる」
己を捕らえることもできるシンクルスの前で、ミスリルははっきりと言い切った。
「それが私の神です」