推測
文字数 2,283文字
雪かきされたコブレンの通りを、幌付きの荷馬車が第一城壁へと下っていく。マントを着込んだ男が荷馬車の後ろに座り、凍りついた舗道に足を垂らしていた。荷馬車からコーヒーの匂いが溢れ、風が運び去る。この手の嗜好品には地球人統治時代に品種改良されたものが多くあり、どのような環境でも実を結ぶコーヒーの品種の権利を、今の時代は王領の商会が握っている。
馬車にはもう一人男が乗っていた。灰色の顎髭を胸まで伸ばした王領の商家の奴隷で、年老いてはいるが、戦士の風格がある。腰に下げる大振りの半月刀が目立っていた。王領ではありふれた武器だ。
「一仕事終わったってのに、大人しいもんだね。えっ?」
老人は背中を向けて座っている若者に声をかけた。口を動かすと、顎髭についたビスケットの
「行きより黙り込んじまって。何をそんなに考えることがあるんだい?」
若者は心を閉ざしているが、話しかけられて無視するほどではなかった。肩越しに振り向くが、フードをかぶっているせいで顔はほぼ見えなかった。
「星獣の話がしたい」
奴隷は革袋に手を伸ばしていたが、動きを止めた。車輪が氷の塊を踏み、二人の尻が床の上で弾んだ。
少しして、奴隷は皮袋の栓を外した。中を
「そりゃ穏やかじゃないね」赤紫色に染まった歯をむき出しにして笑う。「コッチの話はどうだい?」
指で卑猥な合図をするが、応答はあまりにも噛み合っていなかった。
「通常、毒は解毒剤とセットで使う」
奴隷は真顔にならざるを得なかった。年齢に不釣り合いな気迫が若者の背から放たれていた。場の支配権は若者が握っているが、老いた奴隷は抵抗した。
「毒か。あんたそういう稼業の人?」
「あなたはコブレンがどういう街か知らずに乗り込んできたのか」
「オレはご主人様が行くところについて回るだけさ。で、毒が何だって?」
「解毒剤だ」
若者が何か喋ったような気がした。気がしただけなのか、それとも聞き取れなかったのか、奴隷にはわからなかった。
ただ、何かを言ったのだとしたら、それはとても重要な話だという直感があった。
「あん? 何? よく聞こえん」
「あまりにも簡単すぎて盲点だったんだ」
片膝を立てて座っていた奴隷は、皮袋を近くの箱に置き、立ち上がってマントの若者の後ろに立った。凍てつくコブレン市街の灰色の風景が後ろ向きに流れていく。
「俺は一人きりになって考えた」
親切にも、若者は自分の考えていることを奴隷に教えた。
「その結果、星獣兵器の歌が毒ならば、解毒剤もまた歌の中にあると考えついた」
奴隷は若者の背後に立って思案した。それ以上一歩でも近付くことを、若者の背は拒んでいた。奴隷は近付かなかった。代わりにしゃがみ込み、フードで覆われた相手の耳にできるだけ口を近付けた。
「兄ちゃんよ。あんたは自分のことを頭がいいと思ってるのかもしれんがね、世の中には言わないほうがいい物事ってのがあるんだぜ?」
「何故、俺があなたに言っていいと思ったかわかるか」
右の肩越しに、若者は後ろを振り向いた。雪まじりの風が吹き付け、フードを浮き上がらせた。紫水晶の瞳が老人を射抜いた。
一分後、もう荷馬車の後ろに若者の足は垂れていなかった。代わりに赤黒い血が小さな滝となって舗道に垂れていた。
自分の半月刀を拭き、若者は死んだ奴隷の近くで紙入れを漁った。だが、目当てのものはなかった。
王領アルタリヤの商会加入証を丸めて右手に持ち、今度は死体に歩み寄り、腰帯から旅券を奪った。
それから音もなく、舗道に飛び降りた。血の筋を描いて荷馬車が遠ざかっていく。
鉱山街の暗殺者、その精鋭の中の精鋭、紫水晶の瞳のアザリアス・オーサーは、裏道に入っていきながら天を仰いだ。
雪と雪雲の向こうに、太陽はまだあった。
※
死の、冷たい臭いがした。それもそのはず、第一城壁の内側にある保安局支部は死体置き場になっていた。
扉が焼失したエントランスには、ところ狭しと死体が並んでいる。敷くものもなく、掛けるものもない。だが死体や人体の一部が文字通り山積みにされた裏手よりはマシだ。ここにはまだ、死者を並べた生者の余裕が感じられる。
凍える寒さだが、それでも腐敗は進んでいく。床には黒い液だまりができつつあった。口を開けて仰向けになっている死者の顔は、乾いており、昼に日が当たる箇所に寝ている人ほど体の変色が激しい。
アズは受付の裏の壁に回り、そこにある階段を上った。
四階には保安員の仮眠室があった。死臭もここまで上がってこない。窓の鎧戸は閉ざされている。部屋の戸を閉めた。ほとんど暗闇となった。
「時間がおかしいんだ」
低い声で、アズは闇に話しかけた。
「雪のせいで感覚が狂ってるのかと思った。でも違う」
大きな部屋ではない。壁の両側にベッドが六台並ぶだけの空間だ。アズは腰帯に挟んでいた天籃石を手にのせた。白色光が現れた。
「ミスリルにマナを止められるだろうか」
左側の中央のベッドに人型の膨らみがあった。
「俺にはそうは思えない。どうしたらいいのか、俺には……」
返事はない。
アズは冷たい体で横たわる人の傍らに跪いた。
薄い羽毛布団の上から腹に手を添える。
その後ろ、鎧戸の向こうで、
「トビィ」
鎧戸の四辺を縁取っていた外の光は完全に消え去った。
早すぎる夜に気付きもせず、アズは手に力を込める。
「……許してくれ」
そのとき、アズと同じ紫水晶の一対の瞳が闇夜に開かれた。
(〈肆ノ歌集〉後半へ続く)