幸せな人
文字数 5,163文字
アズとトビィは岩塩道路を見下ろす民家の屋根の上にいた。
「今じゃ星獣道路だね」
二人の眼前を、星獣の列が護送されていく。護送人員は倍に増やされていた。それを襲うつもりはなかった。前回と同じやり方では襲わない。
この光景を見ずに済んだ仲間たちは
「ミスリルがコブレンの現状を知ったらどう思うだろうか」
「もう知ってるんじゃないかな? コブレンを出たところで簡単に死ぬミスリルじゃないはずだし」
「アエリエも――テスも」囁く。白い息が流れていく。「ここにいなくてよかった」
「レミたち三人がコブレンに留まったのは想定外だったよ」
トビィの声音からははっきりと落胆が感じ取れた。
「レミがコブレンにいないほうがよかったか?」
「そりゃそうだよ。そのためにわざとミスリルたちを逃したんだもの」
大事なことをあまりにもさらりと言ってのけるので、アズは危うく聞き流すところだった。
鋭い視線を左後ろのトビィにぶつける。
「なんだと?」
「そんな怖い顔しないで」
「どういうことだ。説明してくれ」
「ミスリルたちが逃げれば」トビィは肩を竦めた。「団長はアズに追跡をさせる。そこまでは想定通りに進んだ。俺はアズにレミを同行させようと思ってたんだ。レミと、もう一人は俺じゃなくて、テスを」
「どうして」
「コブレンが激戦地になるとわかってたから、かな」
「俺たちをコブレンから逃がそうとしたのか? レミとテスを……どうして?」アズは尋ねると同時に答えを見つけた。「お前、レミを……?」
「手を繋いだことさえなかった」トビィは優しく微笑んだ。「幸いな人は、残された時間がある人だよ。愛する人に愛していると言える時間がある人だ。俺はそう思う」
「トビィ――」
「幻滅した?」微笑が悪戯めいたものに変わる。「兄弟愛に
「冗談はやめろ」
アズは声が大きくなるのを抑えるのに必死だった。
「そんなわけないだろう。おかしなことを言うな」
「俺は君の兄弟でいられる?」
「ずっと一緒だった」アズはトビィの冷たい手を取った。「母の
「俺たちは幸いだ」
トビィは握り返し、そして、手をほどいた。
どちらともなく行動を開始した。道路に下り、星獣の歌がかろうじて聞こえる、その後ろを二人並んでついて歩く。歩きながら、声を揃えて歌い始めた。
星獣を止める歌を。
その歌は、抑揚が乏しく単調で、誰にでも歌える旋律だ。その旋律を、星獣の歌に合わせて少しずつ変形させていく。
歌いながら歩く双子の成人はあまりにも目立った。二人の歌と姿に魅入られた人の内、特に感覚の鋭い一人の人、その意識に新たな旋律が浮かびくる。
その人が歌い始める。
一人、二人。
和音となる。
輪唱。
対旋律。
狙い通りだ。
歌え。
※
歌には言語生命体を擬似的な眠りへ
歌は最も日常的な娯楽でありながら、最も簡単に非日常の祭りを生み出す手段でもあった。
アイマの心は、コブレン中心地にまで達する歌に対しても冷たく固く閉じていた。歌声が聞こえるほうへ行ってみたい。もし心の中に灯った光のようなその欲求に従っていれば、彼女の運命は変わっていたかもしれない。
欲求を隠したアイマが市庁舎の厨房にたどり着いたとき、料理人たちは気もそぞろで、アイマの前に毒味をすべき昼食が揃えられ、彼女が口にするや、誰ともなしに裏口から外へと出ていった。毒味の結果が出るまでに戻ってくるか、怪しいものだった。
食堂の生温かく湿度が高い空気の中、アイマは毒味者の席で口にしたばかりの昼食に目を落としていた。日輪連盟が持ち込んだ米で作られた、辛味の強い炊き込みご飯。ひよこ豆のペースト。ヨーグルトのサラダ。どれも王領の料理だ。
コブレンは、もう私と関わりのない街になってしまったのかもしれない。アイマは肩を落として俯いた。だが顔を上げる。だとすれば、コブレンから出ていくこともできるかもしれない。
開いたままの裏口から、雪と民衆の歌声が流れ込んでくる。水色の髪をした、いつもアイマに意地悪な給仕の一人が裏口そっと戻ってきたことに、竈の熾火を見つめるアイマは気付かなかった。彼女は自分の考えに心を奪われていた。コブレンを出ていくということに。
それもいいかもしれない。
名前しか聞いたことのない場所に行ってみようか。グロリアナ、北ルナリア、あるいは都、シオネビュラ。海を見てみたい。南東領に行ってみるのはどうだろう。あるいは王領は。この口慣れぬ料理がすっかり馴染みのものになるまで、王領に留まってみるというのはどうだろう。そのうちに、もしかして、結婚する相手が見つかったり。
家庭を持てるかもしれない。
そうしたら、両親のことも、弟のことも、毒殺の知識も過去のものにできるのではないか。
「私」
声を出してみるが、『私』の心を確かめることができない。ただ、鼓動が静かに加速する。
覚悟はあるだろうか。見知らぬところに行き、今の自分とは別人として生きる覚悟は。
駄目だ。心残りがある。
『悠長な毒殺だね』
ほとんど無意識に、右手が懐に入った。そこにアスターから託された小瓶がある。掌に収まる青い小瓶。
それをしみじみ眺めるアイマは、背後から伸びてきた手に強く手首を掴まれた。
瓶を落とさぬよう、咄嗟に握りしめる。
「何よそれ!」
振り向くよりも、身を捩ってその手を逃れようとした。
「離して!」
「それは何って聞いてんのよ、乞食!」
「香水です」
どうにか椅子から立ち上がり、手を掴まれたまま、アイマはできる限り意地悪な給仕から離れようとした。
給仕は離すまいと手に力を込める。
「香水だって? あんたみたいな小汚い子が?」
「離してください」
「あんた、前から胡散臭いって思ってたのよね」
「母の形見なんです!」
右手を頭上に捻り上げられて、アイマは悲鳴を上げた。
「誰かー! 誰か来て! この乞食――」
給仕が裏口を向いたその瞬間、アイマは足を上げ、相手の膝を踏むように蹴りつけた。
手が離れる。
小瓶の栓に添えられていた親指が滑り、栓を抜いた。全く意図せぬことだった。力のバランスが崩れ、瓶の口が傾く。
中の液体が給仕の顔に落ちた。
それは給仕の鼻の付け根から鼻梁を伝い、鼻の下にうっすら生えた産毛を濡らした。液体は紫色に荒れた給仕の上唇に届く。
その液を、給仕は反射的に舐めた。
アスターの渡した瓶の中身が本物の青酸であるか確かめる絶好の機会だった。だが、アイマは顔を背けた。
「まっず!」給仕が毒づく。「あんたねえ、香水だなんて大嘘じゃない。何この――」
喋っている間にも、液体は食道を通り抜けて給仕の胃に落ちていく。アイマは自分でも驚くほど冷静に小瓶の栓を拾い上げた。ガラス製のそれは、奇跡的に無事で、瓶の中身は三分の一ほど減っていた。
今度はアイマが給仕の手首を掴む番だった。
「何すんのよ」
液体が、給仕の胃のなかで、胃酸と反応する。
「こっちに来て!」
アイマは給仕の手を引いて、裏口へと駆けた。裏庭に飛び出して、ガラクタをしまう小屋がある一角へと駆けていく。わけもわからず連れられていく給仕は、急に息が苦しくなるのを感じた。
胃の中で発生したガスが肺に到達し、裏口から小屋に至る中ほどで、給仕は青ざめた顔で土に膝をついた。
街じゅうが歌っていた。
アイマは立ち止まり、腰を屈めて給仕の両脇の下に手を入れた。息苦しさに暴れる給仕の頭が、繰り返し胸を打つ。給仕はもがいていた。
全てを歌がかき消した。
もがく給仕は、小屋へと引きずられながら踵で砂に痕をつけた。その口から血の泡が噴き出てくる。
アイマは人目につかぬ小屋の裏に給仕を打ち捨てると、絶命を見届けることなく厨房に駆け戻った。
歌はアイマのことなど素知らぬふりで流れ過ぎていく。
アイマは残った小瓶の中身を、ジェレナク・トアンの皿、辛い米料理が盛られた青い小花の皿に盛大にぶちまけた。
※
『王よ あなたは水辺に佇む鹿を
愛してはならなかった
それを撃つことしか 考えられぬうちは』
歌は人の口を経るごとに反応し、変遷し、今や星獣兵器の周囲ではこのような詞を獲得していた。
『王よ あなたは野に舞う蝶を
愛してはならなかった
針で刺し 箱に収めることしか考えられぬうちは』
一つの歌が引き起こす反応は、受け手であり送り手にもなる人間の個性が多様であるほど多くのバリエーションを発生する。
毒と解毒剤は通常セットで用いられる。従って、星獣兵器という毒を解体する解毒剤は、歌の中にある。
そう考えるに至って以来、アズは解毒剤となる歌を探し求めたが、手がかりはなかった。よって考えを改めた。歌の質で対抗できないなら、歌の量で対抗すればいいのではないか。
もはやアズとトビィの二人が星獣の列の後方で歌う必要はなかった。護送部隊は立ち往生し、その北では森の恋する妖精の伝承の歌、南では運河の果ての海に関する伝承の歌が響いていた。東では、それらの歌はコブレンの労働者たちの力自慢の歌に変容しており、西では降り積む雪の子守唄となっていた。それらの歌の重量は自ら歌う星獣兵器の歌を
元は馬であった、ラクダであった、ダチョウであった色とりどりの星獣兵器の体の表面に、黒い鎖模様が浮き上がる。
ただ一人正気を保っている護送部隊の兵士が、同僚の両肩を掴んで揺さぶった。
「おい、歌ってる場合かよ!」
彼を除き、他の兵士たちもみな催眠にかかったように歌っていた。正気の兵士は同僚の肩から手を離すと、別の同僚に向き直り、頬に平手打ちをくらわせた。
「
だが、その言葉が歌の旋律と同調しつつあることに、彼自身気付いていなかった。
歌はやまない。民衆にも、兵士たちにも、忘れたいことがたくさんあるからだ。見たくないものが多くあるほど、歌への没入は深くなる。
商会議所の赤煉瓦の屋根に伏せていたレミは、膝立ちになり、腰に下げていた
護送部隊と民衆で混雑する岩塩道路を挟み、反対の建物の屋根にジェスティとアスターが伏せていた。レミの合図で二人も投石紐を準備する。
紐を回し始める。
右耳の真横で回転する石が唸り、空気をかき回した。ある瞬間、レミは右の人差し指から紐の端の輪を離し、鎖模様に覆われたダチョウ型の星獣兵器へと石を放った。
続けてアスターが、最後にジェスティが、石を放つ。
星獣はその一撃で、意外なほど呆気なく砂と化した。コブレンを一夜にして攻略した星獣兵器、多くの兵士と民間人を蹂躙し、コブレン自警団の仲間たちの命を奪った星獣兵器。
それが、なんと
レミはほとんど泣き出しそうだった。五体の星獣兵器、その全てがたかが投石で破壊されると、正気を保っていた最後の兵士もついに歌の熱狂に呑み込まれた。
顔を道の反対側に向け、そこにいる二人の仲間に頷いた。アスターとジェスティも頷き返す。歌に呑まれないよう、心の中で静かに祈りを唱えながら、レミは仲間たちに背を向けた。
平屋根の上を歩く。
隣の民家の屋根に飛び移ろうとするとき、背後に優しい視線を感じた。
「誰?」
振り返る。誰もいない。
気のせいだ。
風で乱れた前髪を払い、レミは暗殺者たちの通路を去っていく。
トビィの視線だったらよかったのに。レミの左目の端から涙が流れ落ち、それは一筋で止まった。風で目が乾いたせいだと、レミは自分に言い聞かせた。視線などなかった。あれは気のせいだ。
この歌がどのように始まったのか、レミにはわからない。だが最も重要なことがわかった。もはや星獣兵器など脅威ではないことが。
三人の暗殺者のうち、アイマの家に最初に帰り着いたのはレミだった。そのときにはもう、アイマは
彼女は砒素の大鍋の前で、竈に向き合うように横たわっていた。右手は服の襟元を握りしめ、左手は火を掴むかのように竈に伸べられていた。竈の前に敷かれていた毛布は、散々蹴飛ばされて乱れていた。
小屋中をのたうち回ったのだろう。水瓶は割れ、床のあちこちに緑色の吐瀉物がぶちまけられている。アイマは飛び出しそうなほど両目を見開いて、口を開け、絶命していた。
吹き込む風雪が、アイマの髪を乱し動かした。
生きているみたいだった。
(伍ノ歌集へ続く)