姫歌
文字数 2,732文字
『その方に会えば、君は驚くべきものを見聞きすることになる』
狭い渓谷で渦巻く風に吹かれながら、リタことリアンセは谷底へと下り続けていた。
『その全てを私に告げる必要はない。だが重要な事柄は全て報告したまえ』
ゴンドラのケーブルが激しくたわみ、風を切る低いうなりをあげた。違和感に息をのみ、何が音をさせているかを見極めたリアンセは、次の瞬間にはフルーレを鞘から抜いていた。
蜘蛛は愛らしい星獣だ。大きさは羊ほど。全身が長く柔らかい体毛に覆われて、八つの足はその毛の中に隠れている。餌が必要ないので口もない。一見したところの印象は大きな毛玉。虫は嫌われがちな生き物だが、その嫌悪される外見的な特徴は極力排除されている。
だが、それが自ら編み出した三つ編み状のケーブルの上を強烈な勢いで突進してくるならば話は別だ。
ケープに忍ばせたダガーを左手で抜き、投げ放つ。それが蜘蛛の胴体に直撃すると、拍子抜けするほど呆気なくケーブルを離して落ちていった。が、すぐに下方のケーブルを八つの脚で掴み、体勢を建て直すのを目にすると、リアンセはフルーレを手にしたまま駆けだした。
行く手にゴンドラ乗り場があった。木の足台を踏み、ゴンドラに飛び乗る。細長い木の船は、激しく揺れながらリアンセの重みによってケーブルを滑り始めた。
スロープへと上昇していく蜘蛛と行き違いになる形で、反対側の岩肌のスロープにたどり着いた。
スロープを駆け下りる。
次のゴンドラへ。
下降していくゴンドラの中、顎を空に向ける。曇り空を背景に、尻から糸を垂らして降りてくる蜘蛛を見た。リアンセは迎え撃つ形で肘を引き、フルーレの切っ先を天に向けた。
刃を見て蜘蛛がたじろぐのではないかと僅かに期待したが、そもそも蜘蛛に目はなかった。ケーブルの振動を感知して動くのみ。だが先ほどあの蜘蛛は確かに、スロープ上のリアンセを見つけて襲いかかろうとした。
操っている者がいる。
「娘!」
誰か、若い女の声が下からリアンセを呼びつけた。
「こっちじゃ! 飛び降りるがよい!」
戦いのさなかにも関わらず、リアンセは迫る敵から目をそらし、ゴンドラから身を乗り出して下方を確認した。
蜘蛛が作る鋼のように硬いケーブルを編んで作られた、空中の足場だった。ゴンドラを上昇させるための装置のそばに、声の主が立っていた。
この強風にもかかわらず、露出の多い白い衣服に包まれた褐色の肌。
高く結い上げた、水色がかった銀髪。
明るい水色の瞳がリアンセを凝視している。
タイミングを見計らって女のそばに身を投げた。
直後、蜘蛛が無人になったゴンドラに激突。左右に揺れるゴンドラから、白い毛に包まれた蜘蛛の足が伸びた。
落ちてくる。
「加勢してくれよう」
女は背丈ほどの長さのある杖を手にしていた。色とりどりの吹き流しがついた、陸軍の指揮杖だった。
腰を落として杖をかざし、今まさに足場に降下しようという蜘蛛へと駆け寄るや、杖を上にふるって脚の関節を強打した。ほとんどのしかかるように落ちて来た蜘蛛を、女が無事回避するのを見届けながら、リアンセはフルーレを蜘蛛の体に突き立てる。体毛の奥に柔らかい肉の体が存在するのを感じ取った。
そのときには、女は蜘蛛の毛を掴んで体によじ登っていた。
杖の頭の部分を掴み、
「呼ビ求ム ソノ叫ビノ
氷トナル トキニ」
痛みによって蜘蛛をその場に縫いつけながら、リアンセは陰鬱な歌声を聞く。
ダーシェルナキ家の
「暗闇ガ 太陽ヲ
けたたましい笑い声が、下から響いてきた。女の声。それは始まりと同じくらい唐突に
「自己紹介は不要と思うが」
居丈高な声が降ってきて、リアンセは我に返った。
「南西領総督が第一子、シルヴェリア・ダーシェルナキだ。よく来たの」
「公女様」蜘蛛の上に立つシルヴェリアへと、リアンセは片膝をついた。「何故このようなところにお一人で?」
「何故だと? 自由に使える優秀な
杖の鞘の部分を投げてきた。それをリアンセが拾い上げると、蜘蛛から飛び降り、シルヴェリアは手ずからリアンセのダガーを蜘蛛の額から抜いてやった。
「すまなんだのう。おお、よしよし、いい子じゃ。自分の巣に戻るがよい」
落ち着きを取り戻した蜘蛛がケーブルを伝って去っていくと、リアンセに対しては、「立て」と命令した。
「まだ本題にも入っておらんぞ、ホーリーバーチ中尉。それともこの吹きっさらしの中で話をさせる気か?」
目線を上げたリアンセは、シルヴェリアのむき出しの腕に立つ鳥肌を見た。
「申し訳ございません。仰せの通りに」
近くのゴンドラに乗った。こちらのケーブルは傾斜が緩やかで、下降はゆっくりと進んだ。その間、シルヴェリアは一言も口をきかなかった。
スロープの中継地点が見えてきた。木製の足台は血に濡れ、白銀のケーブルも赤く汚れていた。血の出どころとなる死体が無残に横たわり、そばには長いレイピアを手に、黒髪の女が立っていた。
血まみれで、
「
ゴンドラが停止する。フェンと呼ばれた女は見せつけるように生首を掲げると、それを胴体の横に置き、着ている服で手を拭った。
「歌流民か。まあ星獣を操れるのはこやつらしかおるまいが、一人でおるのは不自然じゃな」
「仲間が潜んでいるかもしれません。急ぎましょう。お下りになりますのに、手をお貸ししましょうか?」
甘やかな声だった。肉感的な体つきの、﨟たけた女だ。三十の半ばは過ぎていようが、にも関わらず、どこか美少年のような印象を受ける。シルヴェリアはフェンの血まみれの手を見て、それを借りずにゴンドラを飛び降りた。