保安局本部の戦い
文字数 3,404文字
都にゼフェルの後継軍の旗が翻って二時間後、椅子屋の
後ろから頭を殴られて、丁稚は痛みで我に返った。椅子屋の長男は丁稚の首根っこを掴むと、引きずるように立ち上がらせ、作業場の奥へと引き戻した。
※
満開の赤い椿の生け垣に囲まれた、南北二棟からなる半円形で六階建ての瀟洒な保安局本部は、地球人統治時代から受け継がれてきた堅牢な構造物であり、今や敷地の正面と両側面に陸軍の中隊が展開していた。
リグリーことリグレット・マレー嬢はよく応戦していた。
「貴様らと我らの戦力差は歴然だ!」
保安局の正門は緑色に塗られたアーチ型の鉄柵で、今や閉ざされて、木製の大楯と砂袋で補強されていた。その門の前で、真っ先に現場に駆けつけた陸軍の中隊長が、腰に手を当てて、ふんぞり返って声を張り上げた。明らかに彼らは、障害となる生け垣を刈り払う準備を始めていた。
「降伏して出てこい! 無益な血が流れれば、貴様らは全員最も厳しい刑に処されることになるぞ!」
その言葉を受け、華奢で小柄な体に防具の一つも身につけていないリグリーは、南棟四階の柱廊に伏せる五十の部下たちに命じた。
「撃て!」
矢をつがえた射手たちは、その日初めて陸軍の合成弓の威力を目の当たりにした。
五十の矢が正門の外に向かって射出された。恐ろしい音を立てて空を切った。
リグリーが射手として選抜したのは、みな狩りを嗜む者だ。それでも放った矢の半数は生け垣の手前に落ちるのではないかとリグリーは思っていた。
そのようなことはなかった。
矢が空を切る音が止むと、赤と緑の鮮やかな生け垣の向こうで、鎧ごと射抜かれた陸軍の兵士たちがばたばたと倒れ始めた。悲鳴が上がった。すぐに、反撃の矢が正門に向かって張り出す円形の南棟の、四階の柱廊に放たれた。
リグリーは咄嗟に建物の中に逃げ込んだ。逃げろ、または伏せろ、という命令を発する意志はあった。だが行動が伴わなかった。薄暗い屋内に逃げ込んで、壁際に
斉射の第二波がきた。とはいえ、柱廊に立っているゼフェルの兵士はもはやいなかった。屋内へと矢が射掛けられ、顔の横を次々と長い矢が行き過ぎていく中で、リグリーは壁際に立てた弩を手に取った。失地を回復する手段は抗戦より他になかった。彼女は体格的に長弓の扱いは難しかったが、弩の腕には自信があった。立ち上がり、矢をつがえると、
彼女は事切れた同志の腹に絶望的な気持ちを抱えて足を置くと、柱の陰から生け垣の間近へとよく狙わずに矢を放った――悲鳴が上がった。リグリーは矢を放った結果を見ずに屋内に引っ込んだ。
「負傷者の収容を!」
そして部屋を出て、隣の部屋へ。
その薄暗い部屋でリグリーは、もう一度矢をつがえた。巻き上げ機を巻く間、斉射は続いた――それから這うように柱廊に出て、立ち上がると、生け垣越しに目が合った兵士へと反射的に矢を放った。
矢は、兵士の眉間を貫通した。犠牲となった兵士はリグリーをじっと見つめながら後ろ向きに倒れた。
身を翻して屋内に退避したリグリーは、その場で嘔吐した。その間にも、保安局本部の東西では生け垣の除去が進んでいた。
※
保安局で戦いが始まったとき、都解放軍のアセル・ロアングと第二公女エーリカは、まさにゼフェルの後継軍の暴走をいかにして食い止めるかについて協議中だった。
「まさか今日すぐにでも奴らが蜂起するということはありますまい」
エーリカはアセルに答えて言った。
「それでも三日後には蜂起します。いずれ都の外に押し寄せるであろう月環同盟との連携を重視するあなた方は、そのときどうするおつもりですの?」
「そのときは」アセルは顔色一つ変えず言い放った。「彼らには尊い犠牲になってもらいましょう。一人でも多く同盟の敵を減らして頂ければ御の字です」
アセルは共感力が高いほうではなかった(高かったら自分の家を追い出されはしなかっただろう)。加えて多動の
アセルは言った。
「全く、彼らを戦力の一部としてあてこんだ我々が愚かでした。ご安心ください、殿下。我々は彼らを助けません。この件についてはどうか――」
「あなたは私の話した内容を理解しておられませんわ」
侍従長のララセル・ハーティは、エーリカらしからぬ物言いに驚いて目線を上げた。
「よろしいですこと? ロアング元中佐殿。私が初めに申し上げたのは、ゼフェルの後継軍たちは一般の民間人として生活する市民である、それが問題だということです。もしも彼らが蜂起すれば、申し訳ございませんが、私には弟アランドの報復を止められると言い切れません。無関係の市民を守るためにも、蜂起そのものを止めなければならない。それが、敵同士であるはずの、私たちとあなた方の共通の目的ではございませんでしたこと?」
「残念ながら、殿下、我々には――」
扉が開かれた。都解放軍が交渉に使う古い酒場に、粉雪が舞い込んだ。
戸口に立つのは元強攻大隊副官ミズルカ・ディンだった。
「緊急事態です、中佐」
ミズルカは扉を乱暴に閉めると、エーリカに形ばかりの一礼をし、大股に酒場を横切って四人が腰かける長方形の席に歩み寄った。
「ゼフェルの後継軍が蜂起しました。後継軍は既に保安局本部と陸軍憲兵隊宿舎を占領し、現在陸軍治安部隊と交戦中です」
アセルが机の上に両手を出す。リャンは立ち上がった。エーリカは僅かに顔を強張らせたが、自らを落ち着かせるようにゆっくり瞬きをした。目に見えて青ざめたのはララセルだった。
リャンがテーブルに両手をついて尋ねた。
「確かか、ディン中尉」
「はっ。中心街の各所に後継軍の旗が翻り、橋や道路を封鎖する治安部隊との散発的な交戦が発生しております」
「どうなさるおつもりですの? 中佐殿」
アセルは平常心を取り戻そうとして口走った。
「そんなものはパフォーマンスだ」
「パフォーマンスであろうとなかろうと、蜂起をお認めになるのですね?」
アセルは思い切り顔をしかめ、その顔を掌で撫でた。それから答えた。
「……先ほどはあのように言いましたが、現実的には、殿下、我々は彼らを助けなければならないのです。口でなんと言おうとも。お分かりいただけますか? 月環同盟軍が都の門を破るとき、ゼフェルの後継軍という不確定要素は我々に制御されていなければなりません」
「では、あなた方もなし崩し的に蜂起なさると?」
「あくまで彼らを我々の管理下に置く、それだけです」
「そう。では、これ以上のお話し合いは無用ですわね。私は総督府に戻ります。行きますわよ、ララセル」
「はい、殿下」
寒がりのララセルは、それを聞いて青いマフラーを首に巻きつけ始めた。主従二人が立ち上がると、着座している最後の一人となったアセルが、落ち着きを取り戻した様子で口を開いた。足でリズムを刻むのも止めていた。
「エーリカ殿下。ゼフェルの後継軍を止められるとお思いですか」
明かりのない室内で、エーリカは見下すように微笑んだ。
「私は、無益な血を流さずに済むのなら誰とでも交渉いたしますわ」