トリエスタ修道院
文字数 4,053文字
「エルーシヤだなんて」
呼ばれた気がして、長い黒髪の少女は、素足のままで林の中を泉へと歩いていった。
「よくある名前ですことよ。歌流民の女が十人いれば、一人か二人は『エルーシヤ』ですわ。セレテス卿はあの娘の何がそんなに気がかりですの?」
プリスの自宅でハルジェニクと出会う六年前、歌流民の少女エルーシヤは、こうしてゼラ・セレテスとエーリカ・ダーシェルナキの姿をじかに見た。都で行われた園遊会の場であり、セレテス子爵は長男及び次男を連れてこの場に呼ばれていた。エルーシヤが目撃したのは、十二歳のエーリカが十九歳のゼラを一目で気に入り、身分違いの年上の男を口説き落とそうとしている場面であったのだ。
エルーシヤは歌流民だ。歌うために生まれた。もっとも当時十一歳の早熟な彼女は二次性徴に伴う反抗期に差し掛かっており、何のために生まれ、何のために生きるのか、それに関して大人たちの思惑を突っぱねずにはおれぬ時期だった。
とはいえ、もしも歌うこと以外に声を発しようものならば、力を喪った役立たずとしてたちまち氏族を追われるだろう。世俗を離れ、普段はルナリア山塊を放浪して暮らす氏族の一員だ。普通の少女の暮らしがどういうものか知らないし、自分に普通の暮らしができるという自信もない。
ただ、余計な声を出さず、音も立てない習性が、このときばかりは役に立った。エルーシヤは何ら気付かれるなく、林の中に身を屈めた。
「あの少女の歌は素晴らしゅうございました。ただそれだけでございます。グロリアナでも何かの催しに召喚することができれば、領民は喜びましょう」
「歌流民などみな同じですわ。セレテス卿は彼らの歌を聞くのは初めてでございまして?」
「成人した歌流民の歌であれば耳にしたことはございます」
「では、必要となった時に、誰でもいいから子供の歌流民を呼べばいいのですわ。あの痩せっぽっちな小娘に限らず。セレテス卿、
「エーリカ殿下」咎めるような調子になる。「殿下――申し訳ございません。私は父のもとに戻らなくては」
「あら、なぜ? 今夜はお泊りになるのでしょう」
「当家は貴族とは名ばかりの、田舎の役人の家にすぎません。このような場所で殿下と二人きりでおりましたら、あらぬ誤解のもととなります」
自分で言う通り、ゼラのその発言も口調も洗練されていなかった。明らさまに傷ついた目で凝視するエーリカと、たじろいで目を泳がせるゼラを見比べて、自然、エルーシヤの顔に笑みが浮かぶ。
「万一トリエスタ伯に見咎められることがあれば、私は目も当てられません」
「トリエスタ伯など」
エーリカは、むしろ人よ集まれとばかりに高笑いを発した。
「私が一喝して差し上げますわ。もし父が私を守らないなら、私が私を守るまでのこと」
「殿下、どうかそのようなお考えはおやめください」
「あら、では卿が私を守ってくださるのかしら」
エルーシヤは話の続きを聞けなかった。遠くから世話人の呼び声が聞こえてきたからだ。
六年後、ゼラは消え、エーリカはたった一人で密かに彼を探すこととなる。
※
トリエスタ伯といえば気がかりなことがある。
「あれは私が在校中の出来事でございましたか」
レグロ・ヒューム二位神官将は、持ち前の低く響く声でゆっくり語りかけた。相手はアウェアクという名のトリエスタ修道院長で、過去には十代前半の少年少女が入学する神学予備校に勤務した経歴がある。
レグロは在校中、一度アウェアクの手によって懲罰房にぶち込まれ、三度危うくその手をすり抜けて、五度ほど完全に証拠を隠滅して欺いた。罪状は、扱える槍の長さを学友と競って天井を傷だらけにしただとか、硝石を使って花火を自作したところそれが教師アウェアクの部屋のカーテンに飛び火して危うく火事にするところだったとか(懲罰房にぶち込まれた理由はこれだった)、好色な教師アウェアクの机に偽の
「院長殿は『ゼフェルの後継』の名を覚えておいででしょう」
愚にもつかない思い出話をされるのではないかと思っていた修道院長は、肥えて余った顔の皮を僅かに震わせた。黒褐色のシミで覆われた肌である。十年ほど前までは白い髭を蓄えていたのだが、六十五歳を過ぎてからは剃ってしまったのだ。
意外な名に反応した後は、今度はその名によって、かつての教え子に向かってまたも顔をしかめた。
「忘れるわけはございませんとも、二位神官将殿。あれほど酷い顛末は、せめて私の生きているうちは二度と見届けたくないものです」
「記録されるべき騒動でした。異端宗派は数あれど、あれほどの規模にはそうはなりますまい」
「大概の異端者たちは身の程をわきまえております」
例えば、コブレンの暗殺者たちのような。
修道院長は黒檀のテーブルの向こうで、面白くなさそうに続けた。
「だから都市の営みの陰に隠れて、存在を黙認される限度を超えようとはしないものです。ところが戦争や天災が重なって、しばらくすると、ああいうのが頭をもたげてくる。当修道院としても頭の痛い問題です」
修道院長とレグロの前には白磁のティーカップがある。レグロが手土産にと持参した、無発酵の茶であった。両人ともカップに手をつけず、なみなみと注がれたままだった。窓から注ぐ日光が、テーブルに窓枠の模様をつけていた。修道院には静かな時間が流れていた。
レグロは話の内容にそぐわぬほど愉快な調子で問いかける。
「修道院長殿の仰る顛末とは、総督公の後始末まで含めてのことでございましょうか?」
「全てですとも。あの件にまつわる全てでございます」
「院長殿、あなた様でございましたら、あの結末を迎える前に自ら手を下されたことでしょう」
ゼフェル。その名は地球人が自らを神とするためにでっち上げた聖典の預言者だ。モデルとなった人物は、言語生命体が自らの野蛮さを悔い改め、再び神である地球人とともに暮らせる被造物であれと説いて回った。
『ゼフェルの後継』は反戦主義者たちだった。反戦のためなら戦争をも厭わぬ人々だった。
異端が起こることは珍しくなく、いちいち潰して回っていてはキリがないのもまた事実だ。だが二十年前のあのときは違った。長い不況と気象災害、たびたびの陸海軍の徴収で、経済基盤の弱い地方は疲弊しきっていた。様々な要因が重なって、戦争を止める能力のない神官や君侯たちへの苛立ちが募り、怒りに変わり、爆発した。
急速に影響力を増した一団を、南西領のすべての神官領を統括する南西領守護神殿は、異端と断じざるを得なかった。ときの総督はただちに異端を叩き潰すよう貴族や神官たちに働きかけた。だが、異端がはびこる地の領主たちも、神官団や修道騎士団も、のらりくらりと躱して日和見するだけだった。
総督は怒り、自ら兵を動かした。町を一つ、村を一つ、野を一つ、山を一つと、大地を異端宗派の信徒たちの血で染めながら進んだ。その残党が海辺の崖に沿って広がる小さな町に逃げ込むと、総督は従軍したトリエスタ伯に、この町に平和をもたらせ、手段は問わぬと命じた。町はトリエスタの飛び地となったのだ。
トリエスタ伯はその地に移り住み、命令通り手段を問わずに町を平和にした。疑わしきを罰するやり方で、異端の残党もそうでない者も片端から
その町で新領主への憎しみが募る頃、政争の末ダーシェルナキ家のシグレイという男が新総督の座に収まった。
シグレイは機を見てトリエスタの飛び地に兵を向けた。そしてトリエスタ伯を捕らえると、この町で流れた全ての血について責任をかぶせ、首を切ってしまった。六年前のことだ。
「おお、二位神官将殿。後からでなら。おお、後からでなら何とでも言えるのです。訓告に聞き従わなかったからと言って、どうして異端の信徒たちがあそこまでの抵抗をすると予測できたでしょう。『私なら止められた』などと言うほど身の程知らずではございません」
「『私なら止められた』。これはトリエスタ伯のお言葉でした」眉を動かすアウェアクに、一言加える。「新しいほうのトリエスタ伯です」
処刑された前トリエスタ伯の一族は、財産を失い散り散りにされたのだ。
「伯はまだお若いのです――」
「お若いトリエスタ伯が、就任直後に総督公に要求されたものをご存知ですか?」
「有名な話です。よりにもよって、十二歳のエーリカ殿下を」
「ところが今でも殿下のお心はトリエスタ伯のもとにはないようだ。トリエスタ市が日輪連盟に寝返った今も、その身を供して総督家との結びつきを強めるおつもりはないご様子で」
外で、鐘が鳴った。五時。修道院は昼休みに入った。レグロは気をそらして窓の外に目を向けた。
「すっかり引き止めてしまったようですな、二位神官将どの」
小高い丘に立つ修道院は見晴らしが良かった。トネリコの木が立つ庭。修道院を囲む低い門と、その向こうの平原。
「ええ」
レグロは微笑みながら席を立ち、窓に歩み寄った。修道院長の顔は強張っていた。
「面白いものが見えますかな?」
レグロの余裕ぶった態度は変わらなかった。
「まんまと引き止められてしまったようです」
窓の外にあるものは。
「お迎えが来てしまった」
密かに訪問したシオネビュラの神官将を捕らえるべく来る、トリエスタの十の騎兵たちの姿だった。