対峙
文字数 4,004文字
その男が眼前に立っただけでリアンセはガチョウ料理を全部吐きそうになった。
色魔だわ。
偏見かもしれないと思いつつ、確かにそれは直観だった。
目眩を隠して立ち上がる。
そう。色魔。女の体に対しては興味津々なくせに、女は大嫌いで、その気になれば力でねじ伏せられると思っているような奴。私の大切な人は、この男のような輩に滅茶苦茶にされた――こことは違うアースフィアで――。
それでもリアンセは、その男、バレル・ギルモア大佐に向かって口を開くまでに正気を取り戻した。
私は今、何を考えていたの
?「ようこそおいでくださいました、ギルモア大佐殿」
レストランの個室の入り口で、手を後ろ手に組んで、レナを従えたギルモアは威圧気味に応じた。
「私の副官が失礼をしたようだね」
「互いに自分の身を守ろうとしたまでのことでございます」
「もう一人の男はどこへ行ったのかしら?」
左小指に副え木をしたレナが、いつもの微笑そのままに、脅すように尋ねた。リアンセは極めて丁寧な口調でこれに応じた。
「黙りなさい、微笑みクズ」
これにはギルモアも凍りついた。
「私は第一公女殿下つき情報士官。スノーフレーク少尉、あなたを飾る装身具の数と交換頻度があなたの収入に対して不釣り合いであることを私は知っております」
「ホーリーバーチ中尉、何故君は私の部下の私生活に口出しをする?」
「これは大佐殿」リアンセはピンクゴールドの
「君はどういう権限を与えられて私を呼び出したのだ?」
ギルモアとリアンセは向かい合って座り、レナはテーブルに背を向けて、戸のない個室の出入り口の見張りについた。
「殿下はとても気位の高いお方ですので」リアンセは嫌味ったらしい笑みを浮かべた。「私は殿下の
「もう一人、男がいると聞いたが」
「殿下のもとへ連絡に送り出しました。大佐殿をおもてなしする準備が必要ですので」
「その準備を君が台無しにしないことを祈るよ」
「それは大佐殿次第です」
リアンセはギルモアの目を凝視した。そこには敵意と畏怖の間を行き来する心がはっきり見て取れた。リアンセは残酷な喜びを感じた。彼女は自分の残酷さを愛していた。戦いの中で形成された性質だからだ。生きてきた証だ。
「我が大隊は、道中、コブレンから森林地帯を越えて来られたカーラーン殿下に小隊を差し向けて食糧と物資を援助した。大隊それ自体以外に、他に我らに差し出せるものがあるならはっきり言って頂きたい」
「大佐殿の援助を、シルヴェリア殿下はお喜びにはなりません。シルヴェリア殿下はカーラーン様を愛してはおられないのです」
心には味覚がある。リアンセはギルモアの動揺を味わった。甘美だ。
「真実を差し出されることです、大佐殿。シルヴェリア殿下は常に真実をお喜びになる」
「何の真実だね? 近頃の天の巡航について? 新しい命の誕生に関する不愉快な現状について?」
ギルモアは茶化すふりをしながら話を逸らそうとしている。いいだろう。
「私たちの世界は、どうしてこんなにリアリティを失ってしまったのでしょうね」
当然ながら、ギルモアは答えあぐねる。
「結局のところ、私たちは誰も、この世界がどういう場所か知らなかったのです。明日には火で水浴びができるようになっているかもしれない。そういうわけのわからない世界と毎日顔を突き合わせることを、私たちは余儀なくされている。『毎日』という言葉すら、もはや意味を失おうとしているのに」
「何を言いたいのかわからんね」
「ではこうしましょう、大佐」
ここぞとばかりにリアンセは、ぞっとするような薄笑いを浮かべた。
「新しい世界の話をするよりも、古い世界の精算をするのです」
しばし、決闘の直前のような空気が流れた。
ギルモアが口を開いた。牙を剥いて身構えたと言ったほうが正しい。彼が意外ときれいな歯をしていることにリアンセは気がついた。
「私に答えられることなら、聞いてくれたまえ」
「まず、大佐殿がシルヴェリア殿下への手土産として兵力を統合しようとなさったソレリア民兵団ですが」
何故ソレリア民兵団と連絡を取り合っていたことを知っている、などという間抜けた質問はさすがになかった。
「この総指揮官ゼラ・セレテス子爵に対し、革命以前から、情報部はある疑惑を抱いていました。
ギルモアが
「あなた方の大隊が日輪連盟を追われた理由ですよ」
ギルモアは緩慢な動作で紅茶を飲み、また空咳をした。軍服の袖口にある糸屑に目を留め、つまんで床に捨てると、結局こう返事をした。
「情報部を相手に隠し立てが通用するとは思うまい」
リアンセは頷いた。お噂通り、賢明な方ですこと。
「大佐殿。ことの始まりとなったグロリアナの浚渫工事を手掛けた事業家のご息女、セレスタ・ペレ氏が亡くなられたことはご存じでしたか?」
「白々しい。君が殺したのだろう。ミュゼも、クロヴァーもだ。違うかね?」
「彼女らの無惨な死に様について、喜んでお話しする準備ができておりますが」
ギルモアが、それこそ西から昇る太陽を見るような目でリアンセを見た。
「お望みでないならよしましょう。ただ、私は殿下から、大佐殿については聞きたい話がある、と伺っているのです」
今やギルモアの伏せられた目には、ありありと失望が見て取れた。失望なさい、とリアンセは思う。そう、あんたの価値はそれだけよ。
「お聞きください」と、畳み掛ける。「大佐殿は、クロヴァーのように告発しようとした町民を
「何が望みだ?」
「まず、あなたがゼラと共謀して架空の取引をしたものの形状と性質は?」その質問に、リアンセは補足した。「月間同盟内での争いもあります。この情報に価値を認める者がいるうちに話してしまうがよろしいでしょう」
「ものは楽譜だ」
あまりにも予想通りだったので、リアンセはむしろ驚いた。
「他には」
「他とは」
「歌流民は譜面を用いません。全ての歌を
「そういうものがあるとはセレテス子爵も言っていた。だが全ての譜面にそれが添付されているかどうかはわからない。長大な歌だからね。だが歌流民の感性を
「その予想は誰のものですか?」
「リジェク神官団二位神官将の発言だそうだ。セレテス子爵からの又聞きだ」
「あなたとセレテス子爵は、架空の取引にあたってその材料をどこに送付していたのですか?」
「シオネビュラのどこかだ。セレテス子爵は決して私に明かそうとしなかった」
「あくまで取引の主導はセレテス子爵が握っていたと」
「そうだ」
「大佐殿、セレテス子爵をこの場にお呼びすることはできますか?」
「スノーフレーク少尉」ギルモアは副官に呼びかけた。「聞いていただろう。セレテス子爵との合流地点に行き、この場にお呼びしろ。くれぐれも怪しまれないように」
「了解しました」
意外にも素直に、レナは姿を消した。
人払いは完了だ。
「架空に取引された分をどの程度リジェクが取り戻したか、おわかりですか?」
二人きりになると。ギルモアの態度が若干和らいだ。
「一部を残して全てだと、大隊副長シラー大尉を通じてリジェク神官団は伝えてきた」
「その一部はどこにありますか?」
「私はその問いに答えられない。ゆえに野営地を捨て、ここに来た」
「何故答えられないのですか?」
「知らないからだ。他にあるかね?」
この男は恥じているのだ、自分のしたことを自分で知らないということを、とリアンセは把握した。
「手土産には足りませんかな?」ギルモアは居直るような態度を見せた。「一個騎兵大隊の兵では?」
「とんでもございません。貴重な兵力です。殿下はさぞお喜びになるでしょう」
「それ以上のものを求めているのは君かね」
「殿下が喜ばれるのは兵力のみ」
「どういう――」
「あなたが引き連れてきた部隊は、あなたではなく殿下
ギルモアは、今度こそ牙を剥いた。顔を赤く染め、言葉もない。
「重ねてお伝えしますが、大佐殿、シルヴェリア殿下は真実をお喜びになります」
「私には弁護人を雇う権利がある」
「はい?」
「私を
リアンセは直接それには答えなかった。
「情報部が循環取引の可能性に気がついたのは、ゼラの
「何を言い出すんだね? 答えになっていないじゃないか」
「かねてよりグロリアナは貧困化していた。ゼラが小細工に集中するため蟄居を決め込んだ頃、その弟のテオではなく、病とはいえまだ存命だった領主でもなく、町議会議長クロヴァーを無視し……都に直接グロリアナの異状を訴えた領民がおりました」
「それで?」
「その領民は、一家もろとも姿を消してしまいました。もう生きてはいないでしょう」
リアンセはギルモアの運命を決める質問を発した。
「どう思われますか?」
「どうとは?」
ギルモアは明らかに質問の重要性を理解していない。
「この一家についてどう思いますか?」
「不憫だね」気のない様子で答えた「同情するよ」
言い終えると同時にリアンセの右手が左手の袖口に入る。
ダガーが飛び、ギルモアの喉にまっすぐ吸い込まれた。