出立
文字数 2,600文字
まず、空が砕け落ちた。次に急速に日が暮れた。二度と太陽は昇らぬのだと叫んだ人がいた。が、太陽は昇った。三度昇った。
「都の様子はどうじゃ?」
脇息にもたれて寝そべるシルヴェリアが、大あくびの後に尋ねた。
「
その後ろに足を崩して座り、長い銀髪を梳いてやりながら、フェンは唇をシルヴェリアの耳に近付けて答えた。
「散発的にヒステリーが起きるものの、鎮圧するほどのものではありません。大衆は、混乱する以前に、一連の現象をどう受け止めるべきかわからないのです」
「まあ、そんなものかのう」
ミナルタでは終末を悲観する人々の集団自死事件があったが、大多数の人間は、これまでの日常が続く
「そんなものですよ。我らとて、もうすぐ世界が終わるから戦争をやめようなどとは思わぬではありませんか」
「なるほど、その通り。ヨリスや」
呼び出されて以来、ずっと部屋の隅で気配を消していたヨリスが前に歩み出た。
「はっ」
やっと呼び出しの用件を伝えられるのだ。
「聞けば、日輪連盟に属する南部ルナリア独立騎兵大隊がこの旧ミナルタに身を寄せているそうではないか」
「それは事実でございます」
月環同盟側に寝返るつもりであろうとヨリスは踏んでいた。
「お気に召さぬのであらば、指揮官の首を獲って参りましょうか」
「冗談で言うておるのか?」
「半ばは」
ご命令とあらば実行する、という意味だ。
シルヴェリアは顔の前で手をひらひら振った。
「まあ、急がずともよい。件の大隊の指揮官には我が『剣』が目をつけておる。そなたには別のことを頼みたい」
「何でございましょう」
「ヨリスよ。そなたは都へ戻れ」
無表情のヨリスが、一度素早い瞬きをする。シルヴェリアは身を起こした。胸に流れる銀髪を背中に払ったとき、常に浮かべている気まぐれで残忍な笑みは消えていた。
かつての一個師団長、シルヴェリア第一公女殿下は冷厳たる声で親衛隊の士官に命じた。
「ヨリス少佐。貴官は直ちに都に戻り、アセル・ロアング中佐率いる都解放軍と合流せよ」
それが意味することを、シルヴェリアは明言した。
「会戦は近い」
必ずや都を奪い返すと。
そう言っているのだ。
「出立の
そして我がほうが都へ攻め入る際は、解放軍が都の門を内側から開くのじゃ」
「承知しました」
「支度にかかれ」
本当に必要なことに、シルヴェリアは多くの言葉を費やさない。言われたことが全てだ。
が、珍しいことに、去ろうとするヨリスをシルヴェリアは引き留めた。
「待て」
「何でございましょう」
「忘れておったわ。そなたには供をつける。二人分の水と食糧を準備せよ」
「供、とは」
「すぐにわかる」
ヨリスは改めて敬礼し、娼館の、シルヴェリアの居室を後にした。
支度といっても知れている。最低限の着替えと金品は常にまとめてあるからだ。そこに保存食と水を足すだけで足りる。三十分もすればこの娼館を出て行き、今後足を踏み入れることはないだろう。
部屋を出れば、階段の踊り場で、ヨリスを待ち構える人物がいた。
ヨリスは階段の途中でその人を見下ろし、静かに声をかけた。
「よく戻ってきたものだ」
シルヴェリアに協力するか、コブレン自警団の命令を優先するか、その人には選択肢が与えられていた。緑髪の青年テスは、踊り場から顔を上げて答えた。
「戻らぬものと思っておられましたか」
その通りだった。だから、数日前の夜明けにこの娼館に姿を見せたときには本気で驚いた。とうにどこへなと消え失せたものと思っていたからだ。
ヨリスは階段を下りきって、テスの前に立った。そのとき理解した。供となるのはこの男だと。
「私に用があるのか」
「はい」テスは一度、きっちりと頭を下げた。「今一度、手合わせを」
「時間がない、と答えたら、君は私が逃げたと思うか」
テスは返事に窮した。窓から差す光がテスの茶色の光を鮮やかに照らした。
「冗談だ。受けて立とう。だが時間を無駄にできないのは事実だ。やるなら今ここで、だ。構わないか」
踊り場は狭い。大人が五人も立てばいっぱいになるし、両手を伸ばせばすぐに壁と手すりに手がぶつかる。
それでもテスは了承した。
「ありがとうございます」
ヨリスは南西領陸軍の白い
それが段差の一つに落ちた瞬間、二人は互いの懐に飛び込んだ。
武器を抜く時間もない。
一秒後には両者とも動きを止めていた。ヨリスはテスの喉首をつかみ、テスはヨリスの鳩尾に左の拳を当てていた。テスは拳に、軍服の下に隠された薄いプレートを感じていた。これが決着だった。
「無効打か……」
呟くテスの首から手を離さずに、ヨリスは尋ねてみた。
「この状態から、どうすれば君は私に勝てると思う」
返事はすぐ。
「あなたが私の首を締める前に、私が体をひねりながらあなたの額を打てば勝機はございましょう」
「試すか」
「いいえ」
テスは喉にヨリスの手の感触を覚えながら首を振った。
「手の内を明かした以上、通用しますまい」
言い終えた瞬間、アズの声がテスの頭を打った。
『諦めるな!』
それは、少年の頃しばしば道場でかけられた言葉だった。
息をのむ。
諦念と、自分に対する失望の霧が晴れた。だが、そのときにはもうヨリスはテスに興味を失っていた。手套を拾い、自分の部屋へと廊下を渡っていく。
窓の向こうは曇り。山影は雲に隠れ、街の印象は平板で陰鬱だ。
ヨリスがリレーネの部屋の前を通るとき、リレーネは冬の空に目を向けて、歌いながら髪を梳いていた。ヨリスは知らないが、それは『壊れた太陽の語歌』の終局だった。
『大口ヲ開ケタ過去カラ 後悔ガ無限ニ押シ寄セル
心ハ砕ケ ソノ残響ハ失ワレ
思イ出ハ 暗夜 全テノ死者ノ懐デ
青ク 明滅シテイマス』
リレーネの部屋の窓からは、北風吹きすさぶなか行われる橋の架け替え工事が見下ろせた。
監督は叫んでいた。
「手抜きは許さんぞ! 何が起きてもこの仕事がなくなるなんてことはないんだ! 完成するまでずっとだ!」