心の応報
文字数 6,035文字
「リージェスさん!」拡大する火災から逃れながら、リレーネは叫んでいた。「リージェスさん!」
だが、炎の中に戻っていくほど愚かではなかった。
「東の運河に逃げろ! そこで火の手が止まるはずだ」
誰かが指示しているのを他人事のように聞いた。
「ゼフェルの後継のコルが死んだぞ」
そんな囁きが聞こえてきたが、リレーネにはどうでもいいことだった。リージェスが戻ってくるなら。
月がほしいと願うのはこんなときだ。リレーネははっきり理解した。二度と手に入らぬものを取り戻したいとき、その願いが月に仮託されるのだ。
私がほしいのは……ほしいのは……月じゃない。
リージェスだ。ここまで守り導いてくれたリージェス・アークライト少尉だ。
彼はもう生きていないとリレーネは感じていた。何故感じるのかわからないが、それでも感じるのだ。
夜空を見上げる。
光を放つ天球儀。この惑星を包み込む、固く扉の閉ざされた鳥籠。その網目の向こうから、冷たい星々と赤い星雲を背景に、月がアースフィアの地表に向けて迫ってくるのを見た。
月は既に巨大だった。
明るさを増しながら接近し、ついにその灰白色の地表で空一面を埋め尽くし、天球儀と触れ合わんばかりになった。月の地表の凹凸までよく見えた。
リレーネは少しのあいだ、リージェスのことを忘れた。
「月が落ちてきますわ」
「いや」
さすがにヨリスタルジェニカの神官兵はよく訓練されていた。異変を目の当たりにしながらも、混乱に陥ることなく避難を続けている。
「あの月に実体があるのなら、既に互いの引力によってアースフィアと衝突しているであろう」
「では……」
「あの月に実体はない。それか」
シンクルスは唾を飲み、月を顎でさした。それきり月を見るのをやめた。
「……それか、あれはもう、別の宇宙なのだ」
これはリージェスの賭けが引き起こした結果だろうとリレーネは考えた。
「リージェスさんは命に換えてまで月の存在を拒みましたわ」
「恐らく、月には消えたくないという自我がある」
「月が自我を持つなどおかしな話ですわ」
「自我があるとしたら、それは一度人間として存在した影響であろうな。マナとして存在したことによって付与された性質だ」
ああ、では、マナという少女さえいなければ、月はリージェスの要請に応えて姿を消してくれただろうか?
「貴様は消えろという要請は人の心を殺す」シンクルスは言った。「殺された心は、怨念となって本人に舞い戻ってくる。そのことを我々人間は、少なからず経験しているのではあるまいか?」
「私たちはどうすれば?」
「ならば月を受け入れるしかあるまい。あれがある世界を」
心の底に寒々とした風が吹き抜けるのをリレーネは感じた。
本心から、嫌だった。
「俺たちはもう、もとの世界には戻れぬのだ」
※
そこは風向きが悪かった。
瀟洒な邸宅が立ち並ぶ地区にも火災の煙が流れ込んできていた。大通り一本隔てれば、煉瓦と木造の家が混在する燃えやすい地区だ。
大通りでヨリスは、白い息を吐きながら顔を空に向けた。血に汚れた手で前髪を耳にかけ、月がアースフィアに接近する一部始終を見ていた。
諦めのような、感嘆のようなどよめきが後ろから聞こえてきた。ヨリスもどこか感心していた。ここまでくれば、いっそ世界がどこまでおかしくなるのか見届けたいという気持ちがある。
もはや終末を叫ぶ者はいなかった。裁きもだ。死後の裁き? 誰が裁くというのか。月か。
遥か昔、月は地球から移植された際にクレーターまで忠実に再現されたと聞いたことがあるが、それは今頭上にあるまやかしの月にもあてはまるかどうかはわからない。クレーターは、あるにはある。月は平坦な灰白色ではなく、濃淡があり、熾烈な宇宙環境を生き延びてきた痕跡が刻まれていた。クレーターは天球儀の網目からアースフィアを見下ろす目のようだった。
ヨリスは、隣にいる副官ミズルカ・ディン中尉にとって驚くべきことを言った。
「今日は星獣祭の最終日か」
ミズルカは、それは今言う必要のあることかと疑問に思ってから、いいや、驚くべきではない、と考えを改めた。ヨリスは決して無駄なことは言わない。
「はい。あと二時間程度で零刻となります」
「星獣祭が終われば年が明ける」
ヨリスは後ろを振り向いた。
「アッシュナイト中尉」
今は都解放軍の、かつてはヨリス率いる強攻大隊の屈指の射手、アウィン・アッシュナイト中尉が、長弓を手に前に出た。
ヨリスは冷ややかな視線で月を串刺しにし、アウィンに命じた。
「あれに新年を迎えさせるな」
「はっ」
と反射的に返事をしたはいいものの、アウィンは途方にくれた。どうしろと言うのだ? だが結局のところ、狙撃手が呼ばれる理由など他にないではないか。
アウィンは矢筒から矢を抜いた。月が一部、ほの赤く見えた。火災が映っているのか? いや、気のせいだろう。弓を引き絞りながら、アウィンは目をしばたたいた。しっかりしろ。
月は赤くなどなかった。
矢を天空に向ける。
しかしヨリス少佐、確かに的はデカいけど、ちょいと遠すぎやしませんかね?
この場には、ヨリスとミズルカとアウィンの他には、アウィンの相棒アイオラと、月の掘り起こしに居合わせたリーン・イマエダ大尉がいた。計五人だ。
「月よ」
リーンがアウィンの隣に並び、声を張り上げた。
「可能性を選べとお前は言った」
言いたいことがあるなら早く言ってくれ、アウィンは願った。腕が震え始める前に。頼むぜ。
「これが私たちの願う可能性だ」
幸い、リーンの言いたいことは短かった。
「いなくなれ」
アウィンは矢を放った。弦が唸り、アウィンは思ってもみなかった光景を目にすることとなった。
矢は落ちることなく、天球儀、その網目の向こう、月へとまっすぐに吸い込まれていった。
魔法を目にした気分だった。
矢はすぐに目視できなくなった。本当に月にぶっ刺さったのか? アウィンは考える。まさか。
と、思考も視界も灰白色の光に塗り潰された。
「アウィン」
どれだけ経ったか、いきなり頬をひっぱたかれた。
「目を開けなさい!」
ひっぱたいたのはアイオラだった。そうされるまで目を閉じてしまっていたことに気付いていなかった。
屈辱はすぐに恐怖に近い不安に変わった。
五人は灰白色の光の中で、不安によって連帯する無力な一団となっていた。
そこには都にあるべき全てのものが存在しなかった。住居? 教会? 会議所? 冗談ではない。
広間だった。
装飾のない灰白色の床、同じく味気ない灰白色の壁。正方形の空間の右手と前面に廊下が伸びていた。アウィンはあるべきものを探した。戦闘の痕跡。死体や血痕、折れた弓矢。それから生きている人間を。ここには靴磨きの子供はいなかった。しこたまアルコールを取り込んで路上に横たわる凍死寸前の路上生活者もいなかった。馬車と御者、バターを売り歩く女、荷運び業者、デル貨十枚で体を売る男女、梅毒にかかってなお体を売る男女、性風俗の乱れを改善すべしと息巻く目つきのキツい女、成金、生垣に小便を引っかける男、壁に漆喰を塗る左官、猫好きおばさん、鳩を追い散らすガキ、そうした人間は誰もいなかった。馬糞も落ちていなければ、どこかの露店で値切りをする客と主人の攻防も聞こえてこなかった。
つまるところここは都ではなかった。
悪いことに、右の廊下から金属質の物音が迫ってくる。
足音?
ヨリスが命じた。
「走れ」
どことも知れぬ場所、いかなる罠が待ち構えるかもわからぬ前方の廊下へ先陣を切って走り始めたのはヨリスだった。遅れまじとミズルカが続く。
アウィンとアイオラとリーンは、半ば立ち竦んで互いに目配せをしあった。
「走れ!」
ヨリスが立ち止まり、再度命じた。ミズルカがヨリスに激突する。今度の命令で金縛りが解けたように体が動いた。アイオラとリーンを先に行かせ、アウィンが最後尾についた。
五人は一かたまりになって廊下を走った。
金属の足音が追いかけてくる。
最初の四つ辻を五人は右に曲がった。直後、耳をつんざく音がして、曲がり角の壁に大量の
アウィンは振り返りたい衝動を堪えてアイオラの背中を追った。
今のはなんだ? 地球兵器か? わかるのは、壁に浴びせられたのと同じ礫が人体に当たったら、ひとたまりもないだろうということだった。
美しい音色が響いた。しかも、誰もいない頭上から聞こえた。
音色のあと、男の冷たい声が告げた。
『いなくなれ』
先行するリーンが、素早く左右を見回した。それはリーン自身が放った言葉だった。
『いなくなるのはお前たちのほうだ』
なるほど、先の音色は重要な知らせが行われる先触れだったようだ。新しい報の公布を知らせる喇叭のように。
再びの右折。
両開きの扉があった。月のような灰白色の扉。ヨリスが、ついでミズルカが扉の向こうに飛び込んだ。
扉の向こう側は、広間を見下ろす吹き抜けで、壁沿いに廊下があった。右の壁に沿って一行は走る。どこへ? 知るか! 爆発音。アウィンの後ろで両開きの扉が吹き飛んだ。広間に落ちて轟音を響かせる。アウィンは背後にただならぬ熱気を感じた。服越しに背中の
「くたばれ!」
とりあえず罵った。追跡者が使っているのが地球兵器ならば、剣や弓矢が通用する相手ではないだろう。
廊下にある扉をヨリスが開き、全員が後に続いた。最後尾のアウィンは、扉を閉めても無駄ではないかと思ったが、そんなことはなかった。閉めた扉が、あの礫を浴びせられる音を立てたからだ。
リーンが走りながら言った。
「月じゃない」
扉の向こうはまた廊下。扉が並ぶ廊下。ヨリスが真正面の扉を開けた。
そこは逃げ場のない小部屋だった。
扉を閉ざし、五人は息を殺して追跡者の足音が遠ざかるのを待った。奴には俺たちの居場所がわかるんじゃないか? アウィンは恐れた。蛇のように、体温で獲物の居場所がわかるのかもしれない。それかとんでもなく耳が良くて、こちらの息遣いが聞こえているとか。
だが、幸いにして追跡者の足音は小部屋の前を素通りし、いずこかへ消えていった。
ヨリスが詰めていた息を吐いた。
「イマエダ大尉、『月じゃない』とはどういう意味だ」
「はっ。私が現場に居合わせたとき、月は……『砂の書記官』かもしれません、あるいは両者を媒介するマナかも……我ら言語生命体に対し、可能性を選択せよと言いました。まるで話者の主体性がそこにないような、他人事のように。
我らが月の存在しない可能性を望んだからといって、やり返すような……我らのほうを消そうとする存在という感触はなかったのです」
「だが現実に我らは追われている」ヨリスは自分の言葉に疑問を挟んだ。「現実?」
俺たちのかわいいお月さまは、『砂の書記官』と分離した寂しさで攻撃的になっちまったのかもしれないぜ。アウィンは思ったが、黙っていた。ヨリスが何を言い出すかのほうが重要だった。ヨリスの疑問符にはぞっとするものがあった。
「これが現実だとしたら、我々は都にいる」
ここは都だと、ヨリスは呟いた。
「そのはずだ。そして、地球兵器などない。我らを追い回す者がいるとしたら、日輪連盟の兵士だろう」
「しかし、ヨリス少佐」
アイオラが小部屋の壁に向き合って、軽く叩いてから、さも残念そうにうなだれた。
「この空間は消えません」
「それでも都だ」
「どうすればいいのですか?」
「信じろ」ヨリスは強く言った。「ここは都だと。我らは月に矢を放ったあの通りから一歩たりとも動いていない」
「ですが、見る限りここは私たちの知るどのような場所でもありません」
「ならば見えていないところが都なのだろう」
ヨリスは小部屋の扉に目をやるが、他の四人の誰にも扉を開ける勇気がなかった。これはつまり、不条理を受け入れろという話なのだ。扉の向こうが都の通りであっても、または灰白色の廊下でも、同じくらい不条理なのだ。
「イマエダ大尉」
不意に、ヨリスがいいことを思いついたと言わんばかりの口調になった。
「はっ」
「この扉を開くことができたらプリンタルトを作ってくれよう」
リーンの目に希望の輝きが宿った。そこにもアウィンは不条理を見た。マジかよ。食い意地張ってるのは知ってるけど、そこまでか?
リーンはつかつかと扉に歩み寄り、取っ手に手を置いた。
「ここは都だ……」
呪文のように呟いて、一気に扉を引いた。
宣言する。
「ここは都だ!」
扉が開かれると同時に、小部屋に熱風が吹き荒れた。
部屋の外は都で、火事だった。物の燃える音と、臭い、煙が吹き込んでくる。木造の家が焼け崩れる音が遠からず聞こえた。
目の前には熱い石畳の舗道。
と、その景色が急速に遠かった。
小部屋が延びて、出入り口が遠ざかる。
扉の向こうの景色は一枚の風景画ほどの小ささになり、熱気や臭気、火災につきものの騒音もろとも遠くなっていく。
「脱出する」ヨリスが宣言した。「アッシュナイト中尉、今度は君が先頭だ。急げ!」
アウィンは走り出した。体が動けば、全速力となるのに時間は要さなかった。訓練された軍人とはそういうものだ。学生時代、短距離走は常に学年三位以内だった。見てろよ! アウィンは足を飛ばす。だが、同じ速さで空間が延び、扉が遠ざかっているように思えた。
もっと早く! もっとだ!
自分に喝を入れるアウィンの横で、左隣の壁から人影のようなものが出てきた。アウィンは立ち止まらなかった。
だが声は聞いた。
『千年』少女の声だった。『私は砂の中で一人だった』
「何を言う?」最後列のヨリスは走りながら尋ねた。全く息が乱れていない。「貴様は『砂の書記官』なのか?」
少女の声が囁く。
『寂しい……寂しい……』
「なるほど」ヨリスは独り言を呟いた。「そうか」と。
扉が遠ざかっている気がしたのは錯覚だった。
出られる。
頬に火災の熱気を受けてアウィンは確信した。ここを出たら火災の中に飛び込むことになるわけだが、ここよりはマシだ。
走る五人の足音のうち、一人分の足音が減った。
「君たちは行け!」
直後、扉が急激に近くなった。アウィンはほとんど意識せずに熱風の中に躍り出た。
息苦しい。
そこは、確かにアウィンが月に向かって矢を放った地点だった。
「お前ら、こっちだ!」
仲間の声がした。
振り向くと、後ろの路地でお調子者のクラウス・リッカード中尉が大きく腕を振っていた。アウィンの後ろにはアイオラがいた。ミズルカも、リーンもいた。
アウィンはクラウスのもとに駆け寄った。強攻大隊時代のクラウスの直属の上官、ユン上級大尉も一緒だった。
「全員、無事か?」
クラウスの問いにミズルカが呻く。
「いない……」
火災から少しだけ離れた路地で、月と炎と天球儀の光を浴びながら、ミズルカが絶望的な叫びをあげた。
「ヨリス少佐がいない!」