邂逅
文字数 4,556文字
「
その単語を耳が勝手に拾った。ミスリルは本から顔を上げ、乗船受付所の暗がりに目を凝らした。
「……を刺激……」
タルジェン島はごく小さな離島と聞いていたが、そこへ向かう旅人の数は予想以上に多かった。ざわめく人の行き来。板壁を挟んだすぐ外で降りしきる雨。それらの音と声の中から、ミスリルは話者の居場所を正確に見つけ出した。
「どういうことだ?」
「聞いてないのか。南東領ソラート神官団の船が徒党を組んで海賊行為をしてるって。ここらじゃその噂で持ちきりだぜ」
日焼けした、逞しい体つきの商人たちだった。
「マジかよ。陸じゃリジェクの盗賊団、海じゃソラートの海賊団ってか?」
「残念ながらその通りだ」
「でも、通るのはヨリスタルジェニカ神官団の領海だろ? あそこだって海の神官団だ。海賊退治くらい……ああ、そうか」商人は言葉の途中で頷いた。「ヨリスタルジェニカは南洋進出に忙しいんだってな」
それは、ミスリルには初耳の情報だった。南西領の南端の神官団が更に南洋に進出する。そんなことをすれば、囲いの大陸を取り巻くセイレーンの監視に引っかかりかねないし、それを機にソラート神官団とやらがヨリスタルジェニカの領海を侵犯しにかかるのも当然だ。
「で、どれくらい残虐なんだ? ソラートの連中は」
「そこまででもないさ。船を止めて通行料を払えば無傷で通すらしい。だがタルジェン島やシオネビュラの籍の船が船を止めるなんて思わないほうがいいぜ」話し相手の商人が肩を揺すって笑った。「久々に腕が鳴るなあ」
ミスリルの目は、二人の商人より更に奥、壁際へと自然に吸い寄せられていった。
こんなところで武器を研ぐとは、無神経なのか、よほど今しか時間がないのか、それともよほど自信があるのか。
どれほどの腕であろうかと、ミスリルは興味を抱いた。大きなテーブルの隅に積んだ本を一冊手に取り、受付のほうにある棚に返しに行くふりをして、男に近付いていった。その目の前に来たときに、わざと本を落とした。
「あ、すいません――」
男の背に、一本の三つ編みにした長い黒髪が見えた。男が顔を上げる。細長い一重まぶたの目から放たれる視線を己の目で受け止めた途端、ミスリルはその場に凍りついた。息詰めること数秒。脇の下に嫌な汗が滲み、鼓動が早まるのが感じられた。
駄目だ。格が違う……。
ぎこちなく目礼すると、男も目礼を返し、剣を研ぐ作業に戻った。ミスリルは本を拾い上げ、いそいそとテーブルの隅の席へと戻っていった。
テーブルにつき、次の本に手を伸ばしながら、あの男は何者だろうとミスリルは思案した。心は勝手に男がいるほうを警戒し、身構え、周囲の変化に敏感になる。もう日が落ちたにも関わらず、乗船受付所の人の出入りは落ち着く気配がない。
誰かが受付からミスリルのほうに来る。ピンクゴールドの髪を背中に垂らした若い女だった。衣服と腰に下げたフルーレが、彼女が上流階級の娘であることを物語っている。女は腰を落ち着ける場所を探していた。目があい、ミスリルはテーブルの上の本をずらして、隣に座るよう黙って促した。
「ありがとう」
都会的で、垢抜けた、華やかな娘だった。歳は自分と同じくらいだろう。ミスリルの横で、女は疲れたため息をついた。ミスリルは本のページに手を置いて尋ねた。
「一人旅か?」
女は目を動かして、金色の瞳にミスリルを映した。
「ええ」
「タルジェン島に?」
訝しむのも当然と思ってか、女は頷き、自ら話し始めた。
「妹を迎えに行くの。タルジェン島の尼僧院にいるのよ。……昔、両親に反発して家を飛び出して、以来ずっとそこにいる。あの辺りはこの頃きな臭いし、私が行けば話を聞いてくれるかもしれないから」
「そうか」と、ミスリルは声に同情を滲ませた。「それは心配だな。でも一人旅は無茶じゃないか? あんた、名前は?」
「リタよ。リタ・クラント。都から来たの。あなたは?」
リタことリアンセ・ホーリーバーチ中尉に、ミスリルは答えた。
「俺はミスリル。コブレンから来たんだ」
「そう、よろしくね、ミスリルさん。読書家のようだけど、何を読んでいるの?」
問いかけながら背表紙に目を走らせる。ここ港町ミナルタの交易の歴史や人の往還の記録が主で、今開かれているのは、版画入りの写本だった。
「今読んでるのはこの地域の伝承とか、風俗とか。こんな旅をすることはそうそうないから知っておきたくてね」
「あら」燃えたぎる太陽、人を焼き尽くす太陽の絵に、リアンセは目を
ミスリルは頷く。
「同じ語歌でも中身は地域によって違う。特にコブレンに伝わっているのとは随分違う」
「コブレンにはどう伝わっているの?」
「地球人は神として言語生命体のために身を滅ぼしたりはしないさ。コブレンに伝わる歌はこう。地球人と言語生命体は、果てなき昼の都で共に暮らしていた。けれど地球人は言語生命体の野蛮さを嘆き、己の神に慈悲を求めた。神は地球人を哀れんで惑星アースフィアから連れ出した。そしてアースフィアから
黙っているリアンセの前で、ミスリルはページを
「特にここ。供儀の娘エルーシヤの話なんて全く伝わってない。この手の伝承は往々にして教訓物語として着色されがちだけど、俺の知ってる話ではセイレーンについては触れられていないんだ」
「それはコブレンに海がないからじゃないかしら。海を見たことがない人々の間で自然に抜け落ちていったのだとしたら不自然じゃないわ。むしろ気になるのは、地球人が完全にアースフィアから去ったっていうくだりね。あまり聞かないパターンよ」
コブレンという都市は、異端宗派の巣窟だ。地球人崇拝への嫌悪が強い。だからこそ、アースフィアから創造主
「ああ、言われてみれば……」
「少なくとも南西領じゃ、この本にあるお話のほうが一般的ね」
「いずれにしろひどい話だな。ここから何を学べと?」ミスリルは描かれた太陽に指を添えた。「リタなら何を学ぶ?」
「徹底した神の不在を。アースフィア人は地球人と同じものを欲しがったのよ。自分たちを憐れみ、代わりに死んでくれる神を。でも自分を憐れむ者はただの愚者として無駄死にし、何も得られなかった」
「ひどい呪縛だ」
「呪縛?」
「神の……たとえそれが地球人であっても……神の慈悲が与えられないのは言語生命体が野蛮だからとか、そういう理由が自分たちの側にあるのならまだ救いはあるさ。でもこの話ではそうじゃない。言語生命体とはただ奪われるだけの存在。何も手に入れられない存在。地球人が去ってから何世紀もその価値観を刷り込まれて来たのなら、教訓話なんかじゃなくて、ただの呪縛だよ。それに」
ミスリルは言葉を切り、新しい本を読んだときにしてしまいがちなように、喋りすぎていないか、相手が興味を失って飽き飽きしていないか確認した。リアンセはそのミスリルを、目に好奇心を浮かべて見返した。
「それに?」
「……それに、欲しかったものが代わりに死んでくれるだけの神なら
だがそうはならず、悲劇だけがあって、結局何も得られなかった。
会話が切れたとき、
受付と待合を仕切る書棚。その手前に座り、剣を研いでいた黒髪の男が、三人組の男たちに因縁をつけられているようだった。
「あーあ……」
このような場所で刃物をちらつかせるなど、喧嘩を売ってくれと言っているようなものだ。
ミスリルは音を立てずに立ち上がった。人々の頭越しに、何が起きているのかよく見えるようになった。
黒髪の男には、いつの間にか女が寄り添っていた。
「ギィ、やめてちょうだい」それから、「あなたたち、お願いだからこの人を怒らせないで」
その頃には、沈黙は待合全体に広がっていた。だから、黒髪の男が「黙れ」と言うのもしっかり聞き取れた。
「私の妻に指一本触れるな」
「リタ」ミスリルは男たちから目をそらさずに呼びかけた。「俺から離れるな」
一触即発の空気。それは硬い物音で破られた。黒髪の男が動き、遅れてどよめきが起きる。何かが人々の頭越しに回転しながら飛んできた。それが鞘に入ったままのダガーであると見て、ミスリルは手を伸ばし、受け止めた。
腰を抜かしている持ち主を一瞥し、ミスリルはリアンセと共にダガーを
「面白いもの持ってるな」
民兵たちの視線がミスリルに集まる。
場の緊張を、間の抜けた笛の音が壊した。
呆気にとられる人の群れと、たどたどしい旋律。
誰が吹いているのか、ミスリルは見なくてもわかった。
曲は、南西領に広く伝わる雪ツツジの歌。
誰かが笑い混じりに声をあげた。
「おい、なんでこの真夏に雪ツツジなんだよ」
緊張の後の笑いは、たちまち場を沸騰させた。
その笑いが収束してから、テスは鳥笛を吹くのをやめた。私服の民兵たちにゆっくり問いかける。
「雪ツツジの歌の大意を知ってるか」
それは、『私は沈黙を好む』。
民兵の一人が舌打ちする。ミスリルはダガーを投げて返した。黒髪の男とその妻は、何も言わずに雨の中へと出て行った。平穏を取り戻した人混みの中を、テスとアエリエがミスリルに向かってくる。
リアンセは問いかけた。
「それで、あなたは何者なの?」
「ただのコブレンの労働者さ」
「つくならもっとマシな嘘をつくことね。あなた教育レベルが高すぎる」
「待たせちゃったわね、ミスリル」
アエリエが合流した。
「やっと空いてる宿が見つかったわ。あんまりいいところじゃないけど……この人は?」
リアンセは口を開く。だがミスリルが先に答えた。
「この人もタルジェン島に行くところなんだ。都から一人旅だってさ」
「あまり安全とは言えないわね」アエリエは親切心から言った。「船はとれたの? まだ泊まるところを見つけてないのなら、私と同室するのはどうかしら」
「ありがとう」愛想笑いを浮かべ、リアンセは提案を受け入れた。「お言葉に甘えさせてもらうわ」