罠にかかった鼠(ねずみ)

文字数 4,386文字

 三日前の雪が嘘だったかのように、首都トゥクースは朝から晴れ渡っていた。
 どこまでも青いその空のように、王宮内を歩くロキュス・セディギアの顔色は明るい。
 懐には、三回に二回は鼻先で扉を閉め、外出の誘いなどは聞いていない振りをする、メテラ姫からの手紙が入っている。

「メテラ様より、こちらをお預かりしております」
 昨日、ひと仕事終えたところで。
 王宮使用人から声をかけられたときには、イタズラではないかと疑ったのだが。
 封を開けてみれば自筆と思われる字で「明日は庭でお待ちしております」と記されていた。

(貢ぎ続けた甲斐があったな。姫などといってもただの女、ということか)

 わずかに口の端を上げたロキュスは、浮かれた様子で王宮庭園へと足を向けた。

(本当に、私くらい幸運な男もそうはいないだろうな)

 一年前を思い出しながら歩くロキュスの足取りは軽い。
「将来有望な秘書を探している」
 セディギア当主から声をかけられたときには、正直、耳を疑った。
 自分の家はセディギア家の傍系で、一族が取り仕切っている交易に細々と関わっているにすぎない。
 だというのに、当主の側仕(そばづか)えに取り立てられ、さらに王家の姫のお相手まで申しつけられたのだ。
 ジェラインの秘書になって以来、周囲が自分を見る目の変化を肌で感じている。
 それはもう、戸惑うほどの露骨さで。
 
 濃淡のある金褐色の髪を得意気になで上げたロキュスは、焚火(たきび)に暖められた東屋(あずまや)に座る”姫”を目にして、パチパチと瞬きを繰り返した。
「ごきげんよう、メテラ様。……今日はその、ずいぶんと素敵でいらっしゃいますね」
 姫の微笑に目を奪われて、ロキュスの足は東屋(あずまや)手前で一瞬止まる。
 
 相手を命じられたメテラは聞いていた話とは違い、いつ会っても地味な装いをしている、口数も少ない少女だった。
 だが、今日のメテラは違う。
 華やかな空色の宮廷服を着こなし、冬の寒さにも負けずに咲く、一輪の花のようだった。
 柔らかく羽織った純白の肩掛けが、よりいっそう姫を清楚に見せている。
 いつもは無造作に縛っただけの髪も優美に編まれ、その胡桃(くるみ)色の後れ毛が掛かる胸元は、焚火(たきび)の炎が映るかと思うほど滑らかだ。

「髪も、とてもお可愛らひ、ゲホン!」
 いつもは思ってもないほめ言葉でさえ、すらすら出てくるというのに。
 焦るロキュスに、メテラが向かい側の席を手で示した。
「こちらへどうぞ」
「……失礼、いたします。あ、そうだ、これを」
 ロキュスから差し出された小箱を優雅な手つきで受け取ると、メテラは手ずから茶を注ぐ。
 そこで初めて、顔見知りの使用人たちがいないことに、ロキュスは気がついた。
御付(おつき)の者たちは?」
 セディギアの命を受けて、アッスグレン家経由で雇われている使用人たちは、自分の協力者でもある。
 落ち着きないロキュスを見て、クスリと笑ったメテラが上品に口元を押さえた。
「私自身でおもてなしをしたかったものですから。さあ、召し上がってください」
「いただきます」
 洗練された手つきで、ロキュスは茶を口に運ぶ。
「いつもとは風味が違いますね。……いい香りだ……」
「薬草茶です。心を(ほど)き、体を温める効果があるとか。今日も冷えますから」

(うん、おいしい。確かに温まる。……体の芯から熱くなるような……)
 
 今まで(かたく)なだった少女の柔らかい笑顔。花の香りのする茶。
 ……人目のない、東屋(あずまや)

 それらすべてが、ロキュスをいつにない気持ちにさせる。
「焼き菓子もいかがですか?」
「……これもまた、不思議な味ですね。甘くて、ほろ苦い」
「お口に合いましたか?美味しい物をいただくと、心が素直になりますよね。……素直に、望みを口に出しても許される気ががいたします」
「……望みを、素直に……。メテラ様は、何かお望みのことがおありですか?」
「自由になれたらと」
 華やかに(ほころ)んだ紅い唇を、ロキュスはうっとりと見つめた。
「メテラ様のその願い、セディギア家の力で叶えて差し上げますよ」
「そうですね。セディギア家ほどの、名家の方ならば」
「ええ!もちろん」
「では、セディギア家の

を、ご紹介いただけますか?」
 艶やかな唇をほころばせるメテラに、ロキュスが顔色を失くす。
「……は?あの、私も、セディギア一族ですが」
「存じております。ですから、ご本家筋に近い方を。ロキュス様のお家は……」
 メテラはあからさまに残念そうな顔を作った。
「レーンヴェストと縁を結ぶには、少し家格が」
「ぶ、無礼なことをっ」
 ロキュスが乱暴に立ち上がる。
「レーンヴェストだと?王家の血など、その身に一滴も流れていないくせに!」
 (こぶし)を震わせ怒鳴るロキュスを、メテラは残念そうな顔で見上げた。

(怖がりもしないのか。馬鹿にしてっ)

 手応えのないその態度に、ロキュスの(いきどお)りがさらに(あお)り立てられていく。
「ふしだらな血を引くお前に、情けをかけてやったというのにっ」
 息を荒げながら、飢えたような形相(ぎょうそう)で近づいてくるロキュスに、メテラが思わず後ずさった。
「逃がすかっ。なにが”正式な申し込みをしてから来い”だ。お高くとまりやがって!あばずれのクセにっ」
 身をよじり(のが)れようとするメテラを体全体で押さえ込み、ロキュスは宮廷服の襟ぐりに手をかけ、引き裂いた。
 (さら)された白い素肌がロキュスの劣情を(あお)る。
 焚火(たきび)(あぶ)られた背中が焼けるように熱い。
 呼吸を熱く乱したロキュスの手が、メテラの胸元に伸ばされた。
「そこまでに、してください」
 穏やかだが、断固とした声がしたと同時に、ロキュスの右首筋に冷たく硬質な物が当てられる。
 ぎょっとして振り返れば、褐色の肌をした少年がロキュスを見下(みお)ろしていた。
「誰だお前は。どこの外道(げどう)だ!誰に剣を向けているのかわかっているのか?私は、私はセディギアだぞ。無礼な奴め!」
「無礼はお前だ。セディギアの末席風情が、王子に対して不敬な!」
 額にかかる金髪も美しい少年が、ロキュスの左首筋に剣を当てる。
「王子?」
 首の両側の刃に冷や汗を流しながらも、ロキュスはせせら笑った。
「ああ、知っているぞ。お前は外道(げどう)の隠し子だろう?王子などであるものかっ。セディギア兵!この無礼なガキどもを切り捨てろ!」
「セディギア兵ってのは」
 庭の奥から、冷たいほど凛々しい声が近づいてくる。
「こいつらのこと、かねぇ!」
 長い黒髪をひとつに束ねた女性が、両手に引きずっていた軍服の男たちを、東屋(あずまや)に向かって放り投げた。
「王宮に家兵を忍ばせるとは、穏やかじゃないね。そっちの始末はすんだか!」
 女性が声を投げた奥庭からは、鈍い音とうめき声が間断(かんだん)なく聞こえている。
 その音がやんでしばらくのち、深紅の髪を高く結った少女が姿を現した。
「数が多かったから、向こうに積み上げてきた。……!」
 東屋(あずまや)の隅で震えているメテラを見た鮮緑(せんりょく)の瞳に、怒りが走る。
「レヴィア」
 紅毛(あかげ)の少女は褐色の少年に、その肩羽織を外すよう身振りで伝えた。
「恐ろしかったでしょう、メテラ姫」
 肩羽織で(くる)んでもらったメテラの瞳が丸くなる。
「あなた……」
「お久しぶりです。トカゲです」
 イタズラそうに笑う少女の腕のなかで、メテラはじっとその鮮やかな緑の目を見つめた。
「メテラ、大事ないかい?(おとり)など頼んで悪かったね」
「お兄さま」
「リズワン、ロキュスの捕縛(ほばく)を」
「く、クローヴァ殿下……」
 東屋(あずまや)に入ってきた人物に腰を抜かして座り込んだその男を、リズワンが容赦なく縛り上げていく。
「おや、僕を知っているんだ。僕はお前を知らないけれどね。ロキュスとやら、妹にしでかした罪は、きっちりと償ってもらうよ」
「あっはははっ、妹ですか!」
 きつく(しば)られながらも、ロキュスは大声で(わら)った。
「知らないとはお幸せですね!その女には、レーンヴェストの血など流れていないのですよ。ふしだらな、」
 ギラリと光る刃が風を切り、ロキュスの鼻を切り落とす手前でピタリと止まる。
「!」
 冷えた紺碧(こんぺき)の瞳に見下ろされたロキュスは青ざめ、口を閉じた。
「そのような戯言(たわごと)を信じるとは、お幸せなのはお前の頭だ。メテラはレーンヴェストの血を引いているよ。確かに、ヴァーリ王の娘ではないけれど」
 顔を伏せてしまったメテラにちらりと視線をやって、クローヴァは続ける。
「だが、メテラの父親は陛下の従弟(いとこ)にあたる方だ。僕の大伯母様の息子、デシーロ・タウザー。今は亡き、タウザー家当主の長男だ」
 弾かれたように顔を上げたメテラに、クローヴァは優しく微笑む。
「アッスグレン家の令嬢アネルマと恋仲だったが、事故で命を落とした。その後アネルマは失意のうちにレーンヴェストに差し出され、陛下は親友でもあったデシーロの忘れ形見を、喜んで王家へ迎えたのだ。お前が無体(むたい)を働いてよい存在ではないんだよ。兵士!」
「はっ」
 黒の覆面(ふくめん)をしたダヴィドが音もなく現れ、クローヴァの横に膝をついた。
「この哀れな男を地下牢へ。セディギアには、”ロキュス殿は体調を崩されたので、王宮で療養させます”と伝えてくれ」
(かしこ)まりました」
 ぐったりとうなだれた青年が、ダヴィドによって引っ立てられていく。
「ご無沙汰しております。メテラ様」
 剣を収めた金髪の少年が、不安そうに少年たちを見回すメテラの前にひざまずいた。
「私はカリート・タウザーと申します。幼いころではありますが、お目にかかったことがございます」
貴女(あなた)従弟(いとこ)だよ。父親同士が兄弟なんだ。それから、僕らの弟」
 クローヴァは褐色の少年の肩に、優しく手を置く。
「レヴィア・レーンヴェスト」
「あの、はじめ、まして。……メテラ姉、上」
 レヴィアはたどたどしくも、目をそらさずに挨拶をした。

(ああ、この子が……)

 異国の風貌の濃い少年をメテラはぼんやりと見つめる。
 
 褐色の肌。
 黒い髪に黒い瞳。
 可憐な少女のような風貌(ふうぼう)ではあるが、確かにそこにはヴァーリ王の面影を感じる。
 王が下賤(げせん)の者に産ませた子供がいたとカーフが言っていたけれど、レヴィアにかしずく者たちを見れば、ただの出まかせだったらしい。
 そして、その子は焼打ちで死んだというのが、(もっぱ)らの(うわさ)だったけれど。

(生きていたんだわ。でも、今までどこに……)

 その存在を無い者とされてきた王子。
 長く王宮を留守にしていた家庭教師。

 メテラの頭のなかで、散りばめられていた断片がピタリとはまっていく。
「……カーフは、あなたのところに行っていたのね?」
 震える声で尋ねられたレヴィアがこくんとうなずいた。
「意地悪、されたでしょう」
「……姉、上も?」
「カーフめ」
 労わり合う視線を交わす姉弟の後ろで、クローヴァがギリっと奥歯を噛みしめる。
「ふたりへの仕打ちには、きっちりと責任を取らせよう。カリート、アルテミシア、リズワン。僕たちに力を貸してくれるだろうか」
「殿下の仰せのままに」
 クローヴァから名を呼ばれた三人はその場で深く頭を下げた。
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