寄り添う想い-1-
文字数 3,894文字
小さな滝が落ちる泉で、アルテミシアは無心に泳ぐ。
ここはレヴィアと遠乗りしたときに見つけた、ふたりだけしか知らない場所だ。
澄みきった水が刺すように肌を冷やす。
何も考えたくなかったから、息苦しさを感じるまで潜った。
「ミーシャ」
息継ぎに水面に顔を出したとき、突然の声が耳に飛び込んでくる。
「風邪、ひくよ?体を拭 く布は、持ってきた?」
いつの間に来ていたのか。
目を向ければ、岸辺にレヴィアが佇 んでいた。
アルテミシアは衣服を脱ぎ捨てた岩場まで泳ぎ、無言で泉から上がる。
「ジーグがいたら、怒るよ?」
レヴィアが背中を向ける気配に、苦々しく説教するジーグの声が重なり聞こえてくるようだ。
――どうしてそう無頓着なのですかっ!――
(うん、言いそうね。でも、髪で全身隠れるんだから、何の問題もはず)
心の中で言い訳をしながら、アルテミシアは木に掛けておいた布を頭からかぶって、服を身につけていく。
「よく、ここがわかったな」
「わからなかったよ。ミーシャと一緒に行った場所、全部、探したんだ。途中にキイチゴの藪 があってね。お土産にしたかったんだけど、もう全部、食べられちゃったみたい。持ってこられなくて、ごめんね」
レヴィアは戻ってきたアルテミシアの頭から布を外して、雫の落ちる長い髪を包み込んだ。
水気を拭 っていく優しい手つきに目を落とすと、レヴィアの手の甲や指には無数の傷ができている。
顔を合わせたこともなかったアルテミシアに届けられた、真っ赤なキイチゴ。
もう一度生きようと思わせてくれた、あの甘酸っぱい味がアルテミシアの舌によみがえってくる。
「ふふっ……ふ」
ため息とも笑いともつかぬアルテミシアの声に、レヴィアは手を止めてその顔をのぞき込んだ。
「疲れた?」
「……くしゅっ」
返事の代わりに、アルテミシアは小さなくしゃみをする。
「ほら、こんな季節に泳ぐから。……あっちで、休もう」
泉を囲む岩場の向こう、陽射しが降り注いでいる草地をレヴィアが指差した。
燦燦 と陽光が降り注ぐ草地に、アルテミシアはひざを抱えて座り込む。
「くしゅ!」
再びくしゃみをするアルテミシアの隣に座ると、レヴィアはおずおずとその肩に手を回した。
「えと、嫌、じゃない?」
寒気 が戻った夜の畑でくれた、あの温もりを返したいとレヴィアは思う。
けれど、治療や手合わせ以外でアルテミシアに触れることには、いつだってためらいを感じる。
アルテミシアの笑顔に、ごまかしなどないと思う。
けれど、万が一にも不愉快に思われたくないのだ。
嫌われるのが怖い。
指先を震わせるレヴィアの腕にすっぽりと収まったアルテミシアが、若草色の瞳を上げた。
「嫌なわけがない。でも、傷は痛まないか?」
ただレヴィアを案じているアルテミシアのまなざしが嬉しい。
その瞳に映る自分が嬉しい。
「大丈夫。かすり傷、だったよ」
「それならよかった。……はっ、くしゅん!」
「まだ寒いの?えっと、じゃあ」
レヴィアはアルテミシアの背後に回ると、両手と両足の中にその体を閉じ込める。
「ああ、うん。……温かい」
湿った長い髪がレヴィアに触れないように体の前にまとめて、アルテミシアはその胸に背中を預けた。
じんわりと伝わってきたレヴィアの体温が、凍えたアルテミシアを溶かしていく。
「……フロラは落ち着いた?」
「うん。お礼を言って、謝りたいって。ヴァイノも話をしたいって」
「謝罪など必要ない。怖い思いをさせるなんて、謝るのはこっちだ」
「ミーシャは、悪くない」
レヴィアの腕に思わず力が入った。
「ミーシャがやらなければ、僕がやってた、よ」
「お、一端 のことを言うようになったな」
アルテミシアが首を回して、笑顔でレヴィアを振り仰ぐ。
「殿下、だからね」
「ははっ、そうだな!立派な殿下だ」
アルテミシアの肩に入っていた力が、陽気な笑い声とともに抜けていった。
「ふわぁ……。ちょっと眠くなってきた」
「少し、寝たら?起こしてあげる、よ」
「ん。ありがとう」
しばらくすると、アルテミシアはレヴィアの腕に頬を埋めるようにして、くったりともたれかかってくる。
「……ミーシャ……?」
レヴィアの囁 き声には、穏やかな寝息が返ってくるばかりだ。
滝が落ちる音に紛 れ、時おり小鳥の鳴き声が聞こえるほかは、静寂に包まれている。
春が往き過ぎようとしていた。
色濃く葉を茂らせる森の木々の間を、夏の気配を含んだ風が通り抜けていく。
アルテミシアに風が当たらないように、レヴィアは深くその体を胸に抱き込んだ。
眠るアルテミシアの口元がわずかに緩み、レヴィアの腕に頬ずりするような仕草をする。
(……わぁ……)
怪我の手当てをしたヤマネコが、初めて手ずから餌 を食べてくれたときの、あの感動。
それと似た、もっと甘やかな気持ちがレヴィアを満たしていった。
◇
「起こしてくれるって言ったじゃないか!」
「……ごめん……」
小走りで急ぐアルテミシアの背中を、レヴィアは必死で追いかけている。
日向 でアルテミシアを抱えているうちに、レヴィアもうっかり寝込んでしまったのだ。
日暮れ間近の山道を、ふたりは速度を落とさずに足を進める。
「ジーグが怒ってるな」
「……うん」
「ふたりともお説教だな」
「……うん」
やっと歩調を緩めたアルテミシアをちらりと横目で確認すると、いたずらそうな笑みがレヴィアに返された。
だが、案の定。
急いでロシュとスィーニに餌 を与えてから屋敷に戻ると、ジーグが腕を組んで待ち構えていた。
「ヴァイノとフロラも心配していました。ヴァイノなどは、”自分のせいで副長が出て行ったらどうしよう”と涙ぐんでいましたよ」
「おやおや」
お説教が何ひとつ効いていない主 に、ジーグは深いため息をつく。
「……どちらへいらしていたんですか」
「ちょっと、頭を冷やしに」
「レヴィアはどうした。お前らしくもない」
珍しく険しい目をジーグから向けられ、レヴィアの視線がおろおろと揺れ動いた。
「えっと、一緒に、お昼寝、しちゃって……」
「昼寝?」
ジーグの眉間に深い溝が刻まれる。
「レヴィは悪くない。いろんな場所を探してくれたんだ。疲れもする」
「では、悪いのはリズィエですね」
「そうだな、私が未熟だった。巻き込んで悪かったな、レヴィ」
渋面を作るジーグを前にして、ペロリと舌を出してふざけるアルテミシアはイタズラ子猫のようで、レヴィアは思わず吹き出してしまった。
「ミーシャは悪くない、よ」
「あの……、副長は、ミーシャというお名前ですか?」
かつての使用人休憩室の片隅 で、アスタはリズワンの耳に口を寄せて囁 く。
しばらく行動をともにするようにと、リズワンから申し付けられたアスタが休憩室に連れてこられたところに、旅装束 を脱いだアルテミシアが戻ってきたのだ。
「どう、して?」
レヴィアがさっとその背にアルテミシアを隠す。
「私が連れてきたんだ。実はな……」
全身の針を逆立てたハリネズミのようになっているレヴィアに、リズワンが経緯を説明する。
「そう、なんだ」
聞いているうちにレヴィアの針は収められていったが、向けられた冷たい警戒は、強烈な印象をアスタに刻みつけた。
「本名は違う。レヴィア坊がディアムド語を苦手としていたときに、トーラ訛 りでああなったらしい。少しディアムド語を習っておけよ。でないと、お嬢が本名を明かしたときに坊と同じになるから、すねるぞ」
「すねる?……どなたがですか?」
怪訝そうな淡墨 色の瞳に、リズワンが「ククっ」と笑う。
「坊が」
「……え?」
アスタが知る限り、レヴィアは感情の起伏が激しい人間ではない。
ヴァイノがどんなに無礼な態度をとっても、いつも穏やかに笑っているだけだ。
「すねる」など想像がつかない。
しかし……。
「とにかく、あまり所在不明になるのはおやめください」
「はいはい」
「はい」
諦 めを帯びたジーグの説教の締 めに、アルテミシアとレヴィアの返事がそろった。
ジーグが大きなため息を吐き出し、行方知れずになっていたふたりは、また顔を見合わせて笑っている。
(殿下は、こんなにも表情豊かな方なんだわ。それに副長も……)
なるほど。
これはラシオンもレヴィアもかばうはずだ。
屈託なく笑っている素のアルテミシアは、自分と何も変わらない、ひとりの少女でしかない。
(このおふたりが、剣を取って私たちを守ってくださった)
「副長」
アスタがリズワンの横から一歩進み出た。
「先ほどは、本当にありがとうございました。二度と皆さんの足手まといにならないように、頑張ります。あの、私のような者が弓兵 になりたいなどと、身の程知らずだとは思いますが……」
不安そうに、だが、直向 に訴えるアスタに、アルテミシアは花のような笑顔を見せる。
「身の程知らず、などと言うな。自分の命の価値は自分で決めるものだ。それに、リズが弟子にするなんて、それだけですごいんだぞ」
淡墨 の瞳を銀色に輝かせたアスタにもう一度微笑んで、アルテミシアがレヴィアをのぞき込んだ。
「アスタは私の妹弟子になるんだから、姉妹の契 りでも交わそうか!レヴィ、果実酒を作っていただろう?おススメはどれ?」
「えー、俺もお嬢と兄妹 の契 り交わしてぇな。あ、駄目か!」
ラシオンが大げさな態度で嘆くふりをする。
「兄妹 になったら、恋人にはなれねぇもんな!」
「……キイチゴの果実酒がある、けど」
「へえ、そりゃ美味そうだ。契 りは交わさねぇけど、俺にもくれよ」
「あげない。絶対に」
「え!何でだよ?!」
唖然 とするラシオンに返事もせずに、レヴィアは不機嫌にそっぽを向いた。
ここはレヴィアと遠乗りしたときに見つけた、ふたりだけしか知らない場所だ。
澄みきった水が刺すように肌を冷やす。
何も考えたくなかったから、息苦しさを感じるまで潜った。
「ミーシャ」
息継ぎに水面に顔を出したとき、突然の声が耳に飛び込んでくる。
「風邪、ひくよ?体を
いつの間に来ていたのか。
目を向ければ、岸辺にレヴィアが
アルテミシアは衣服を脱ぎ捨てた岩場まで泳ぎ、無言で泉から上がる。
「ジーグがいたら、怒るよ?」
レヴィアが背中を向ける気配に、苦々しく説教するジーグの声が重なり聞こえてくるようだ。
――どうしてそう無頓着なのですかっ!――
(うん、言いそうね。でも、髪で全身隠れるんだから、何の問題もはず)
心の中で言い訳をしながら、アルテミシアは木に掛けておいた布を頭からかぶって、服を身につけていく。
「よく、ここがわかったな」
「わからなかったよ。ミーシャと一緒に行った場所、全部、探したんだ。途中にキイチゴの
レヴィアは戻ってきたアルテミシアの頭から布を外して、雫の落ちる長い髪を包み込んだ。
水気を
顔を合わせたこともなかったアルテミシアに届けられた、真っ赤なキイチゴ。
もう一度生きようと思わせてくれた、あの甘酸っぱい味がアルテミシアの舌によみがえってくる。
「ふふっ……ふ」
ため息とも笑いともつかぬアルテミシアの声に、レヴィアは手を止めてその顔をのぞき込んだ。
「疲れた?」
「……くしゅっ」
返事の代わりに、アルテミシアは小さなくしゃみをする。
「ほら、こんな季節に泳ぐから。……あっちで、休もう」
泉を囲む岩場の向こう、陽射しが降り注いでいる草地をレヴィアが指差した。
「くしゅ!」
再びくしゃみをするアルテミシアの隣に座ると、レヴィアはおずおずとその肩に手を回した。
「えと、嫌、じゃない?」
けれど、治療や手合わせ以外でアルテミシアに触れることには、いつだってためらいを感じる。
アルテミシアの笑顔に、ごまかしなどないと思う。
けれど、万が一にも不愉快に思われたくないのだ。
嫌われるのが怖い。
指先を震わせるレヴィアの腕にすっぽりと収まったアルテミシアが、若草色の瞳を上げた。
「嫌なわけがない。でも、傷は痛まないか?」
ただレヴィアを案じているアルテミシアのまなざしが嬉しい。
その瞳に映る自分が嬉しい。
「大丈夫。かすり傷、だったよ」
「それならよかった。……はっ、くしゅん!」
「まだ寒いの?えっと、じゃあ」
レヴィアはアルテミシアの背後に回ると、両手と両足の中にその体を閉じ込める。
「ああ、うん。……温かい」
湿った長い髪がレヴィアに触れないように体の前にまとめて、アルテミシアはその胸に背中を預けた。
じんわりと伝わってきたレヴィアの体温が、凍えたアルテミシアを溶かしていく。
「……フロラは落ち着いた?」
「うん。お礼を言って、謝りたいって。ヴァイノも話をしたいって」
「謝罪など必要ない。怖い思いをさせるなんて、謝るのはこっちだ」
「ミーシャは、悪くない」
レヴィアの腕に思わず力が入った。
「ミーシャがやらなければ、僕がやってた、よ」
「お、
アルテミシアが首を回して、笑顔でレヴィアを振り仰ぐ。
「殿下、だからね」
「ははっ、そうだな!立派な殿下だ」
アルテミシアの肩に入っていた力が、陽気な笑い声とともに抜けていった。
「ふわぁ……。ちょっと眠くなってきた」
「少し、寝たら?起こしてあげる、よ」
「ん。ありがとう」
しばらくすると、アルテミシアはレヴィアの腕に頬を埋めるようにして、くったりともたれかかってくる。
「……ミーシャ……?」
レヴィアの
滝が落ちる音に
春が往き過ぎようとしていた。
色濃く葉を茂らせる森の木々の間を、夏の気配を含んだ風が通り抜けていく。
アルテミシアに風が当たらないように、レヴィアは深くその体を胸に抱き込んだ。
眠るアルテミシアの口元がわずかに緩み、レヴィアの腕に頬ずりするような仕草をする。
(……わぁ……)
怪我の手当てをしたヤマネコが、初めて手ずから
それと似た、もっと甘やかな気持ちがレヴィアを満たしていった。
◇
「起こしてくれるって言ったじゃないか!」
「……ごめん……」
小走りで急ぐアルテミシアの背中を、レヴィアは必死で追いかけている。
日暮れ間近の山道を、ふたりは速度を落とさずに足を進める。
「ジーグが怒ってるな」
「……うん」
「ふたりともお説教だな」
「……うん」
やっと歩調を緩めたアルテミシアをちらりと横目で確認すると、いたずらそうな笑みがレヴィアに返された。
だが、案の定。
急いでロシュとスィーニに
「ヴァイノとフロラも心配していました。ヴァイノなどは、”自分のせいで副長が出て行ったらどうしよう”と涙ぐんでいましたよ」
「おやおや」
お説教が何ひとつ効いていない
「……どちらへいらしていたんですか」
「ちょっと、頭を冷やしに」
「レヴィアはどうした。お前らしくもない」
珍しく険しい目をジーグから向けられ、レヴィアの視線がおろおろと揺れ動いた。
「えっと、一緒に、お昼寝、しちゃって……」
「昼寝?」
ジーグの眉間に深い溝が刻まれる。
「レヴィは悪くない。いろんな場所を探してくれたんだ。疲れもする」
「では、悪いのはリズィエですね」
「そうだな、私が未熟だった。巻き込んで悪かったな、レヴィ」
渋面を作るジーグを前にして、ペロリと舌を出してふざけるアルテミシアはイタズラ子猫のようで、レヴィアは思わず吹き出してしまった。
「ミーシャは悪くない、よ」
「あの……、副長は、ミーシャというお名前ですか?」
かつての使用人休憩室の
しばらく行動をともにするようにと、リズワンから申し付けられたアスタが休憩室に連れてこられたところに、
「どう、して?」
レヴィアがさっとその背にアルテミシアを隠す。
「私が連れてきたんだ。実はな……」
全身の針を逆立てたハリネズミのようになっているレヴィアに、リズワンが経緯を説明する。
「そう、なんだ」
聞いているうちにレヴィアの針は収められていったが、向けられた冷たい警戒は、強烈な印象をアスタに刻みつけた。
「本名は違う。レヴィア坊がディアムド語を苦手としていたときに、トーラ
「すねる?……どなたがですか?」
怪訝そうな
「坊が」
「……え?」
アスタが知る限り、レヴィアは感情の起伏が激しい人間ではない。
ヴァイノがどんなに無礼な態度をとっても、いつも穏やかに笑っているだけだ。
「すねる」など想像がつかない。
しかし……。
「とにかく、あまり所在不明になるのはおやめください」
「はいはい」
「はい」
ジーグが大きなため息を吐き出し、行方知れずになっていたふたりは、また顔を見合わせて笑っている。
(殿下は、こんなにも表情豊かな方なんだわ。それに副長も……)
なるほど。
これはラシオンもレヴィアもかばうはずだ。
屈託なく笑っている素のアルテミシアは、自分と何も変わらない、ひとりの少女でしかない。
(このおふたりが、剣を取って私たちを守ってくださった)
「副長」
アスタがリズワンの横から一歩進み出た。
「先ほどは、本当にありがとうございました。二度と皆さんの足手まといにならないように、頑張ります。あの、私のような者が
不安そうに、だが、
「身の程知らず、などと言うな。自分の命の価値は自分で決めるものだ。それに、リズが弟子にするなんて、それだけですごいんだぞ」
「アスタは私の妹弟子になるんだから、姉妹の
「えー、俺もお嬢と
ラシオンが大げさな態度で嘆くふりをする。
「
「……キイチゴの果実酒がある、けど」
「へえ、そりゃ美味そうだ。
「あげない。絶対に」
「え!何でだよ?!」