嵐のあとで
文字数 3,194文字
「こっちだ!頑張れ!」
黒い小さな頭がちらりと動いて、細い腕が懸命にアルテミシアに伸ばされる。
「諦めるなっ」
手を伸ばしたアルテミシアの指先を、小さな手がかすめた。
だが、暴れ噴き上がるようなうねりが、少年の体を飲み込んでいってしまう。
「ロシュ、頼むぞ!」
叫び、アルテミシアは小さな体を追って泳ぎ始めた。
(もう少しっ)
水をかく手をかすめた布の感触を頼りに、アルテミシアは手探りでその端を探し当て、握り締める。
そして、死に物狂いで手繰 り寄せた。
(よし!)
捕まえた小さな体を胸に抱えるが、泳ぐ態勢を整える間もなく、激流がふたりを押し流していく。
荒波にもみくちゃにされながらも、アルテミシアはロシュの作り出した堰 を横目で確認して、背を向けた。
「ぐぅっ」
積み上げられた岩に強 か横腹をぶつけて、アルテミシアからうめき声があがる。
それでも片腕でしっかりと子供の体を抱きしめ、奔流 に抗った。
だが、急流は容赦もなく、岩にしがみつくアルテミシアの指を引きはがしにかかる。
「……くっ」
顔を上げても泥水は顔を叩き、呼吸を阻む。
もうここまでかと、アルテミシアが諦めかけたとき。
ザバリ!!
ロシュがアルテミシアの襟 をくわえ、その体を激流から引き上げた。
『いい子ねっ、最高よ!』
息を切らせたディアムド語でほめられて、ロシュの緑目が得意そうに輝く。
『もう少し頑張れる?そのまま支えていて』
その願いどおり、ロシュは少年を抱え、引き上げるアルテミシアを助けた。
じゃり場まで来ると、アルテミシアは軍服の上着を抜いで、その上に少年を寝かせる。
(出会ったころのレヴィアくらいかしら)
まだ幼さを残す少年は、目を閉じてピクリとも動かない。
アルテミシアは少年の呼吸を確認して、すぐにその胸の中心部を、組んだ両手で押し始めた。
「にーちゃ、にーちゃん!」
上流から女の子が走り寄ってくる。
「げほっ」
少年が勢いよく濁った水を吐き出した。
「げほっ、げほっ、ぐぅ」
「よく頑張ったな」
体を横向きにさせて背中を擦 ると、少年の潤んだ目がアルテミシアを見上げる。
「もう大丈夫、大丈夫だから」
少年の呼吸が安定してから、アルテミシアはその背に腕を回して、ゆっくりと起き上がらせた。
「こんなところに、子供だけでどうした」
少年にぴったりと寄り添っていた、小さな女の子が首を傾けた。
「森にね、あのね、コケモモがあってね。おかーさん、もーすぐおたんじょーび」
身振り手振りの女の子の説明を、アルテミシアは相槌を打ちながら聞く。
「うん、そうか。おかーさんのために、コケモモを集めにきたのか。急な雨で滑りでもしたか?よしよし、驚いたな」
雨に濡れた小さな頭をアルテミシアがなでると、女の子は輝く笑顔を浮かべた。
「テーニャぁ!」
「あ、おかーさんだっ」
遠雷が残る平原の向こうを指さして、女の子が立ち上がる。
「おかーさん!」
「テーニャ!」
雨に濡れぼそった女性が、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
「馬鹿っ!」
一目見て状況を察したらしい女性は、泣きながらふたりの子供をその胸に抱きしめる。
「もお、何をやってるのっ。ふたりだけで外に出たらダメでしょう!」
「怒らないでやってくれ」
顔を上げた女性の目に、微笑むアルテミシアが映った。
深紅の髪から滴 る雫さえ美しいその笑顔に、女性がはっと息を飲む。
「お誕生日おめでとう。子供は、みんなおかーさんが大好きだ。急な雷雨は不運だったな」
アルテミシアにつられるように微笑み、女性は立ち上がって深々と頭を下げる。
「トーラの竜騎士。スバクルを救ったあなたが、私の宝物も助けてくださった。頂戴したご恩は忘れません」
「私を知っている?」
目を丸くするアルテミシアに、女性は笑みを深めた。
「私は、あの新しい街で働いております。あの街であなたを知らない者は、あなたに感謝しない者はいないでしょう。カーヤイ公が”無二”と称 える竜騎士」
「……そう、だったのか」
(これほど市井 の民が知ってくれているなんて……。ラシオンは本当に誠実ね。……ちょっと軽い人だけれど)
トーラ王国とスバクル領主国に、新しい風を呼び込んでいる立役者のひとりは、間違いなくラシオンだ。
この紛争で何があったのか。
誰が何を守り、どう戦ったのか。
できうる限りの真実を、ラシオンは機会を見つけては、自国民に伝え続けている。
竜騎士と知っても、これほど親しくしてくれる女性にアルテミシアの胸が熱くなった。
「本当にありがとうございます」
「騎士として当然のことをしたまで、……ん?」
袖 を引っ張られて、アルテミシアは視線を落とす。
「竜のお姫さま」
少年の黒い大きな瞳にレヴィアを思い出して、アルテミシアの鮮緑 の瞳が知らず笑んだ。
「私は姫じゃないぞ。騎士だ」
「でも、すてきな女の人は、みんなお姫さまだって、お父さんが言います。お父さんのお姫さまは、お母さんだって」
「フェドっ」
母親が慌てて、息子の口をその手で塞 ぐ。
「ははっ、そうか。フェドのお父さんは、お母さんが大好きなんだな」
「はい」
フェドはしっかりした足取りで立ち上がり、アルテミシアの前に立った。
「助けてくれてありがとう、お姫さま。このご恩は忘れないし、必ずお返しいたします。お名前を教えてください」
少年が伸ばしてきた冷たい手を、アルテミシアは両手で包み込む。
「私はアルテミシアだ。フェドの気持ちは嬉しいが、恩返しなんかいらないぞ。いつか、フェドが大切な人を守ることができたら、それで私は、十分に報われるんだから」
「はい!」
フェドの瞳がキラキラと輝いた。
「僕も、アーテミッシャさまのように、誰かを助けられる人間になります。……アーテミッシャさまは、もうトーラに帰っちゃう?」
スバクル訛 りでの呼び方が、ますます誰かを思い起こさせて。
ふと、アルテミシアはあることを思いつく。
「いや、もうしばらくいるよ。……ちょっと我慢だぞ」
ロシュの頭から漆黒の羽を一枚引き抜くと、アルテミシアはフェドの目線に合わせて腰を曲げた。
「”新しい街”に戻ったら、療養所で診てもらうといい。フェドに似ている、腕の良い医薬師がいるから。アルテミシアからの紹介だと伝えてくれ」
「ですが……」
漆黒の羽根を握った息子とアルテミシアを交互に見やる母親に、戸惑いが浮かぶ。
「あんな立派な療養所に、私たちが行ってもよいのでしょうか」
「まだ正式に開所はしていないけれど、ゆくゆくは、誰でもが診察を受けられる場所になる。ラシオンがそう望んでいるんだから、遠慮はいらない」
顔を輝かせる母親に、アルテミシアは申し訳なさそうに眉を下げた。
「まだやることが残っているから、送っていけなくてすまない。フェドたちだけで帰れるか?」
「とんでもありません。ご厚情をありがとうございました。あとは母親の役目です」
母親は微笑むと、自分の服の下に巻いていた薄手の肩掛けを取り出して、フェドとテーニャにぎゅっと巻き付ける。
「準備がいいな。さすがおかーさんだ。……え?」
母親はもう一枚の肩掛けを引っ張り出すと、中着 姿になっていたアルテミシアに羽織りかけた。
「美しい竜騎士が、少しでも温まりますように」
「……ありがとう」
濡れぼそって冷えた体に、じんわりと母親の心遣いと体温が染みわたっていく。
「では、これで失礼いたします。本当にありがとうございました」
街へと帰っていく母子 を見送るアルテミシアの背を、ロシュが促 すように突いた。
「クルルっ」
『そうね。私たちも帰らないと……』
そうは思うが、堰 に打ちつけた場所が、さきほどから鈍い痛みを訴えている。
この状態では、長くロシュに乗るのは厳しい。
『でも、もう一度お墓に行きたいの。お願い、ロシュ。さっきはちゃんとお参りできなかったから』
アルテミシアは横腹の痛みを逃がしながら、鞍 にまたがった。
黒い小さな頭がちらりと動いて、細い腕が懸命にアルテミシアに伸ばされる。
「諦めるなっ」
手を伸ばしたアルテミシアの指先を、小さな手がかすめた。
だが、暴れ噴き上がるようなうねりが、少年の体を飲み込んでいってしまう。
「ロシュ、頼むぞ!」
叫び、アルテミシアは小さな体を追って泳ぎ始めた。
(もう少しっ)
水をかく手をかすめた布の感触を頼りに、アルテミシアは手探りでその端を探し当て、握り締める。
そして、死に物狂いで
(よし!)
捕まえた小さな体を胸に抱えるが、泳ぐ態勢を整える間もなく、激流がふたりを押し流していく。
荒波にもみくちゃにされながらも、アルテミシアはロシュの作り出した
「ぐぅっ」
積み上げられた岩に
それでも片腕でしっかりと子供の体を抱きしめ、
だが、急流は容赦もなく、岩にしがみつくアルテミシアの指を引きはがしにかかる。
「……くっ」
顔を上げても泥水は顔を叩き、呼吸を阻む。
もうここまでかと、アルテミシアが諦めかけたとき。
ザバリ!!
ロシュがアルテミシアの
『いい子ねっ、最高よ!』
息を切らせたディアムド語でほめられて、ロシュの緑目が得意そうに輝く。
『もう少し頑張れる?そのまま支えていて』
その願いどおり、ロシュは少年を抱え、引き上げるアルテミシアを助けた。
じゃり場まで来ると、アルテミシアは軍服の上着を抜いで、その上に少年を寝かせる。
(出会ったころのレヴィアくらいかしら)
まだ幼さを残す少年は、目を閉じてピクリとも動かない。
アルテミシアは少年の呼吸を確認して、すぐにその胸の中心部を、組んだ両手で押し始めた。
「にーちゃ、にーちゃん!」
上流から女の子が走り寄ってくる。
「げほっ」
少年が勢いよく濁った水を吐き出した。
「げほっ、げほっ、ぐぅ」
「よく頑張ったな」
体を横向きにさせて背中を
「もう大丈夫、大丈夫だから」
少年の呼吸が安定してから、アルテミシアはその背に腕を回して、ゆっくりと起き上がらせた。
「こんなところに、子供だけでどうした」
少年にぴったりと寄り添っていた、小さな女の子が首を傾けた。
「森にね、あのね、コケモモがあってね。おかーさん、もーすぐおたんじょーび」
身振り手振りの女の子の説明を、アルテミシアは相槌を打ちながら聞く。
「うん、そうか。おかーさんのために、コケモモを集めにきたのか。急な雨で滑りでもしたか?よしよし、驚いたな」
雨に濡れた小さな頭をアルテミシアがなでると、女の子は輝く笑顔を浮かべた。
「テーニャぁ!」
「あ、おかーさんだっ」
遠雷が残る平原の向こうを指さして、女の子が立ち上がる。
「おかーさん!」
「テーニャ!」
雨に濡れぼそった女性が、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
「馬鹿っ!」
一目見て状況を察したらしい女性は、泣きながらふたりの子供をその胸に抱きしめる。
「もお、何をやってるのっ。ふたりだけで外に出たらダメでしょう!」
「怒らないでやってくれ」
顔を上げた女性の目に、微笑むアルテミシアが映った。
深紅の髪から
「お誕生日おめでとう。子供は、みんなおかーさんが大好きだ。急な雷雨は不運だったな」
アルテミシアにつられるように微笑み、女性は立ち上がって深々と頭を下げる。
「トーラの竜騎士。スバクルを救ったあなたが、私の宝物も助けてくださった。頂戴したご恩は忘れません」
「私を知っている?」
目を丸くするアルテミシアに、女性は笑みを深めた。
「私は、あの新しい街で働いております。あの街であなたを知らない者は、あなたに感謝しない者はいないでしょう。カーヤイ公が”無二”と
「……そう、だったのか」
(これほど
トーラ王国とスバクル領主国に、新しい風を呼び込んでいる立役者のひとりは、間違いなくラシオンだ。
この紛争で何があったのか。
誰が何を守り、どう戦ったのか。
できうる限りの真実を、ラシオンは機会を見つけては、自国民に伝え続けている。
竜騎士と知っても、これほど親しくしてくれる女性にアルテミシアの胸が熱くなった。
「本当にありがとうございます」
「騎士として当然のことをしたまで、……ん?」
「竜のお姫さま」
少年の黒い大きな瞳にレヴィアを思い出して、アルテミシアの
「私は姫じゃないぞ。騎士だ」
「でも、すてきな女の人は、みんなお姫さまだって、お父さんが言います。お父さんのお姫さまは、お母さんだって」
「フェドっ」
母親が慌てて、息子の口をその手で
「ははっ、そうか。フェドのお父さんは、お母さんが大好きなんだな」
「はい」
フェドはしっかりした足取りで立ち上がり、アルテミシアの前に立った。
「助けてくれてありがとう、お姫さま。このご恩は忘れないし、必ずお返しいたします。お名前を教えてください」
少年が伸ばしてきた冷たい手を、アルテミシアは両手で包み込む。
「私はアルテミシアだ。フェドの気持ちは嬉しいが、恩返しなんかいらないぞ。いつか、フェドが大切な人を守ることができたら、それで私は、十分に報われるんだから」
「はい!」
フェドの瞳がキラキラと輝いた。
「僕も、アーテミッシャさまのように、誰かを助けられる人間になります。……アーテミッシャさまは、もうトーラに帰っちゃう?」
スバクル
ふと、アルテミシアはあることを思いつく。
「いや、もうしばらくいるよ。……ちょっと我慢だぞ」
ロシュの頭から漆黒の羽を一枚引き抜くと、アルテミシアはフェドの目線に合わせて腰を曲げた。
「”新しい街”に戻ったら、療養所で診てもらうといい。フェドに似ている、腕の良い医薬師がいるから。アルテミシアからの紹介だと伝えてくれ」
「ですが……」
漆黒の羽根を握った息子とアルテミシアを交互に見やる母親に、戸惑いが浮かぶ。
「あんな立派な療養所に、私たちが行ってもよいのでしょうか」
「まだ正式に開所はしていないけれど、ゆくゆくは、誰でもが診察を受けられる場所になる。ラシオンがそう望んでいるんだから、遠慮はいらない」
顔を輝かせる母親に、アルテミシアは申し訳なさそうに眉を下げた。
「まだやることが残っているから、送っていけなくてすまない。フェドたちだけで帰れるか?」
「とんでもありません。ご厚情をありがとうございました。あとは母親の役目です」
母親は微笑むと、自分の服の下に巻いていた薄手の肩掛けを取り出して、フェドとテーニャにぎゅっと巻き付ける。
「準備がいいな。さすがおかーさんだ。……え?」
母親はもう一枚の肩掛けを引っ張り出すと、
「美しい竜騎士が、少しでも温まりますように」
「……ありがとう」
濡れぼそって冷えた体に、じんわりと母親の心遣いと体温が染みわたっていく。
「では、これで失礼いたします。本当にありがとうございました」
街へと帰っていく
「クルルっ」
『そうね。私たちも帰らないと……』
そうは思うが、
この状態では、長くロシュに乗るのは厳しい。
『でも、もう一度お墓に行きたいの。お願い、ロシュ。さっきはちゃんとお参りできなかったから』
アルテミシアは横腹の痛みを逃がしながら、