嵐の中

エピソード文字数 2,752文字

 不意に冷たい風を(ほほ)に感じ、アルテミシアは顔を上げた。
 ふと振り返ると、森向こうの空の上に、黒い雲が湧き上がっていた。

「急な風が吹いたら気をつけろよ。スバクルの嵐はすげぇからな」
 脅かすようなラシオンの言葉を思い出す。
「ちょっとの先も見えない雨になるんだぜ。んで、ぱっと止んじまうんだ」
 
 黒雲は瞬く間に膨れ上がり、平原へと広がってくる。
 帝国においても、南部マレーバ領辺りでは雨量は多いと聞くが、首都アマルドやサラマリス領では、そんな天候に遭遇したことがない。
 空模様のあまりの急激な変化に、アルテミシアは呆気(あっけ)に取られて空を眺め続けた。
 上空はあっという間に黒く染めあげられ、稲光(いなびかり)がそこここで生まれている。
 美しいような、恐ろしいような。
 アルテミシアは落ち着かない気持ちで、空を見上げ続けた。
 一瞬の雷光が空を引き裂く。
 ぽつり、と大粒の雨がアルテミシアの(ほほ)に当たった、と思った次の瞬間。
 滝のような雨がいきなり落ちてきた。
 バリバリっ! ドォンっ!
 一際(ひときわ)大きな閃光(せんこう)が空を走り抜け、間髪入れずに雷鳴が(とどろ)いた。
 世界は一瞬だけ稲妻に浮かび上がり、また激しい雨に暗く閉ざされてしまう。
 不安そうなロシュをなだめながら(くら)に飛び乗ると、アルテミシアは急いで丘を下った。
―雷が鳴るときに、(ひら)けた場所にいてはなりません。窪地(くぼち)を探して身を低くしていなさい―
 ジーグの教えだ。
 街へと至る道は平原のただ中にある。今は戻らず、この嵐をどこかでやり過ごそう。
 騒乱の際、即席の塹壕(ざんごう)を作らせた場所がある。まだ残っているのなら、そこにいるのが一番だろう。
 記憶をたどってロシュを走らせていると、濁流がごうごうと音を立てて流れる川と出合った。
 これがラシオンが言っていた、最近、治水工事が終わったという新しい街への水路か。 
 この激流では、ロシュでも渡ることは難しい。橋を探そう。
 目も開けていられないほどの豪雨と耳をつんざく雷鳴の中、アルテミシアは川に沿ってロシュを走らせ続けた。
 
 石積みの橋が見えてくる。
 アルテミシアがほっと一息ついたとき、雨音に紛れて、子どもの甲高い声が耳に届いた。
「にーちゃん!にーちゃん!」
 上流の川岸に、幼い女の子の姿が見える。襲いかかるような豪雨のなか、小さな(こぶし)を握りしめて、濁流に向かって叫んでいた。
 女の子の視線をたどると、激しい川波に何かが浮き沈みしている。目を凝らしてみると、それは小さな黒い頭だった。
 アルテミシアはロシュの手綱(たづな)を引いて合図を送り、土手を駆け下りた。
 水際までくると急いで(くら)から飛び降り、迷わず激流へと走り込む。そして腕を振って川中を示し、豪雨に負けない鋭い指笛を響かせた。
 指示を受けたロシュは濁流をかき分け歩き、岩をくわえては流れの中へと投げ始める。
 荒波にもまれ、流されてきた太い木も、ロシュの頑丈な(くちばし)は楽々とくわえ上げた。
 流木は濁流の中に矢のように投げ込まれ、水飛沫(みずしぶき)を上げながら、積み上がった岩々の間に、はまり込んだ。
 ロシュは次々に、岩や木の根を放り積み上げ、瞬く間に(せき)を作り上げていく。
 その間、アルテミシアは濁流の中を進み続けた。
 激しい水流に足を取られないよう気をつけながら上流に目を遣ると、飛沫(しぶき)を上げて荒れ狂う川波の合間に、もがく小さな手が見える。
 アルテミシアは急流に(あらが)いながら足を速めた。
「こっちだ!頑張れ!」
 黒い小さな頭がちらりとアルテミシアのほうを向く。細い腕が懸命にアルテミシアに伸ばされる。
「そうだ!諦めるなっ」
 アルテミシアも手を伸ばした。
 指先が触れ合った。
 だが暴れ噴き上がるようなうねりが、小さな体を飲み込んでいってしまう。
「ロシュっ!頼むぞ!」
 アルテミシアは叫び、小さな体を追って泳ぎ始めた。
 微かな布の感触が手首をかすめる。
 アルテミシアは濁流の中、手探りでその端を探し当て握り締めた。そして死に物狂いで手繰(たぐ)り寄せると、小さな体に腕を回し、胸に(かか)え込んだ。
 激流が二人を押し流していく。
 荒波にもみくちゃにされながらも、アルテミシアはロシュの作り出した(せき)に背を向けた姿勢を取る。
「ぐっ!」
 積み上げられた岩に(したた)か横腹をぶつけて、アルテミシアは(うめ)いた。それでも片腕でしっかりと子どもの体を抱きしめ、岩を背に奔流(ほんりゅう)に逆らう。
 ロシュの(くちばし)がアルテミシアの(えり)をくわえ、その体を引き上げた。
「いい子ねっ、最高よっ!」
 息を切らせたディアムド語で()められ、ロシュの緑目が得意そうに輝く。
 ロシュの力を借りながらアルテミシアは濁流から()い上がり、水が押し寄せてくる心配のないくらい離れた川岸に、ぐったりしている子どもの体を横たえた。
 出会ったころのレヴィアくらいの少年だ。
 目を閉じ動かないその体に身を寄せ、アルテミシアは少年の呼吸を確認する。そしてすぐにその胸の中心部を、組んだ両手で押し始めた。
 上流の岸辺にいた、幼い女の子が走りよってくる。
「にーちゃん!、にーちゃん!」
 横たわる少年のそばにしゃがみ込むと、女の子は必死に声をかけ続けた。
「げほっ!」
 濁った水が勢いよく少年の口から吐き出され、呼吸が戻った。アルテミシアはその体を横向きにしながら背中を(さす)る。
「よく頑張ったな!」
 アルテミシアは軍服の上着を脱いで、体を丸めて咳き込む少年の背中に羽織りかけた。
「もう大丈夫だ。大丈夫だぞ」
 レヴィアと同じ漆黒の瞳が、涙を浮かべてアルテミシアを振り仰いだ。
 
 少年の呼吸が安定してから、アルテミシアはその背を腕で支え、ゆっくりと起き上がらせる。
「にーちゃん!」
 小さな女の子が少年に抱きついた。
「どこか苦しくはないか?こんなところで、どうした?ほかに大人はいないのか?」
 少したどたどしいスバクル語で、アルテミシアは少年たちに尋ねる。
「森にね、あのね、コケモモがあってね。おかーさん、もーすぐおたんじょーび」
 女の子は一生懸命な身振り手振りで、アルテミシアに説明をした。
「おかーさん、のために、コケモモを()みにきたのか。急な雨で滑りでもしたか?よしよし、驚いたな」
 雨に濡れた小さな頭をアルテミシアがなでる。
 女の子は少年とアルテミシアを見比べながら、輝く笑顔を浮かべた。
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